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《第9章》 オデュッセウスの帰還
エスキモーキスの夜
しおりを挟む瞳子の緊張に、彼は謝りながらさっと身をひいた。
「あっぶな……早まるところだったわ。悪い」
「別に、いいですよ」
「嘘言わなくていい。顔がビビってたよ。いずれにせよ君の答えが出るまでは、俺は自粛します」
「あ……了解です」
「それに俺、この前の医者から脅されてるんだよ。『次やったらブチ抜く』って言われててさ。いま怪我人に無理させて傷口ひらいたりしたら、今度こそ通報される」
「『ブチ抜く』って……」
瞳子は笑いを抑えられない。
診察してくれた女性医師は、厳しいところもあったがとても親身になって話を聞いてくれた。彼女に飛豪がやり込められているところを想像すると、かなり可笑しい。
「でも、ちょっとだけ許してくれると嬉しいかな。風呂あがりのその匂いが、絶妙に刺激してくるんだよね」
彼は立ち上がりながら、髪のなかに鼻先を埋めて、すんすんと匂いを嗅いでくる。嗅がれている彼女は、神妙な顔をして終わるのを待っていた。
――ボディソープの香りかな? なんていうか、ホントに大型動物と同じ檻で暮らしてる感じ。
とはいえ、悪い気はしない。全然しない。
今回の触ってもらえない問題は、前回と一八〇度違う。胸のうちがじんわりと温まってくる。気がつくと、瞳子は顔を上げて彼をじっと見つめていた。
目があうとどちらからともなく顔が近づき、鼻先だけが重なった。
唇は、触れそうで触れあわない。瞬きの音も聞こえてしまう距離感。
くすくすと笑いながら、じゃれ合うように鼻先をいろんな角度からこすり合わせる。エスキモーキスは、楽しいと大好きをたくさん相手に伝えてくれる。
その日以来、鼻先をくっつけるエスキモーキスと、額と額をかさねる接触プレーは頻繁になった。時々――二日に一度あるかないかだが――飛豪は額や頬にそっとキスをしてくれる。彼の顔が近づいて目をとじると、体温や心理状態がどっとこちらに流れこんでくる。
今の彼は、すごく気持ちが安定していた。
以前は、穏やかそうに笑っていても仮面の下にもう一人がいる、というヒリついた剣呑さが潜んでいたが、いまの彼は深く根をはった大樹のようだ。まっすぐに気持ちがこちらに向けられていることも、かつて彼の内側で真っ赤になって噴きだしていた溶岩が熱を失って鎮まっていったのも、伝わってくる。
それを言うと、彼は晴れやかに笑って、瞳子には理解できない喩えでこたえた。
「俺も自分で思うよ。前はパンパンに水素が詰まってたけど、今はヘリウムになったのを感じる」
満ちたりた秋のはじまりに、瞳子は一本の電話をうけた。前日に抜糸を終え、彼が職場復帰した日のことだった。
* * *
九月の残りの日々、彼女はこんこんと眠りつづけた。
元々夜型で朝が苦手なのは同居している間柄ゆえに知っていたが、今回はちょっと心配になるくらい、うとうとと微睡んでいたり、深々と寝息をたてている時間が長い。眠り姫のようだった。
飛豪が「朝食にわざわざ付きあわなくていい」と言った翌日から、彼女は起きてこなくなった。
一二時ごろ、昼前にようやく部屋から出てきて顔を洗い、パン一切れ程度の食事をとり、午後はリビングで就活の準備やなにかをしている。そして気がつけば、ソファの上でくったりと丸くなっている。ソファの片隅には、いつのまにか専用の薄いタオルケットが場所をしめていた。
自室で仕事をしている飛豪がキッチンにコーヒーをくみに行くと、彼女は縦になっている姿より横になっている姿のほうが多い。眠り病のツェツェバエにでも刺されたのではないか、と思いたくなるほど寝入っている。
まるで植物のようにひそやかに眠っているので、彼はついいつも、顔を寄せて呼吸を確かめてしまう。頬にかすかな呼気のそよぎを受けると、ようやく安心することができる。
――よくもまぁ、こんな無防備な姿で……。
あきれ半分、感心半分で飽きずに彼女の寝顔を見下ろしてしまう。
涼やかな顔立ちの彼女は、眠ると途端に印象があどけなくなる。頬から口元にかけての絶妙なカーブといい、伏せられた目蓋の安らかさといい、思春期前の少女の顔になる。この表情を前にして、さすがに性欲はわかない。
――寝顔はホント天使だな。
つくづくと眺めているうちに飛豪のほうが離れがたくなって、最後の二時間は少し窮屈ではあるが、ソファで膝にラップトップをのせて仕事をしていた。
六時をまわっても瞳子は目覚める気配がない。
そろそろ酒をいれて小腹を満たしながら業務を締めたいな、と飛豪が立ちあがると、座面の振動にとうとう彼女が目をひらいた。
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