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《第9章》 オデュッセウスの帰還
お見舞い3
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ファストフードやスナック菓子、コーラやジュース、ケーキやチョコレート。
踊っていた時期には体重管理のために避けていたものを、過食症になった瞳子はひたすら食べつづけた。食べては吐きを繰りかえしたという。
とうとう地元のファストフード店では顔を覚えられるようになってしまって、隣町まで行くほどになった。そんな時期が数か月つづいて、母の自殺と時を同じくして過食も終わった。
「結局、お金がないと食べ物って買えないの。それまでは借金の総額も分かってなかったし、母が防波堤になってくれてて。でも、家のこともお金のことも自分一人でまわしていくとなると、食費は最初にカットして……」
最後はもう、踊ってた現役時代より痩せてましたもん、と彼女は乾いた口ぶりで話を終えた。
強烈な転機なりショックなりが訪れると、玉突き事故のようにして精神の不調が快方に向かうこともあるらしい。まさしく今回のケースがあてはまる。
しかし瞳子は、飛豪の状態が快復にしつつあると知っても断乎として譲らない点があった。それが薬と診療だった。
今は鎮静化している症状も、再発すると被害は彼女にもいく。薬はともかく診療は非常に気がすすまないが、彼女のためだと思えば呑むしかなかった。
一〇年前にも専門家の治療を受けてきたが、あまり効果がなかった印象しかない。どこまでも渋っている彼に、瞳子は「どの言語で話してました?」と不思議な質問をしてきた。
「言語? もちろん英語だけど。アメリカ住んでたし」
「飛豪さん、マルチリンガルですよね。ひょっとして、日本語とかスペイン語でカウンセリング受けていたら、結果が違ってたかな、と思って」
「どういうこと?」
「わたしのバレエ時代の友人……ベルギーの子なんですけど、フランス語とオランダ語とドイツ語と英語が話せるんです。ブリュッセルの生まれで、ご家庭ではフランス語で育ったから、残りの三言語は、話せるけど愛着がないって言ってたんです。だけどドイツ語のときの人格は、母語の時の人格ともちょっと違うみたいで。フランス語では絶対話さないようなことも言ってしまうことがあるって、前に教えてくれました。
……わたしも、日本語のときは人見知りなんですけど、英語とかフランス語話すときってオープンだし積極的な性格になるんです。それは海外だと、どんどん人の輪に入ってかないとレッスンでもコンクールでも乗り遅れちゃうからで」
「なるほど、分かった。言語でキャラクターが変わるって現象か。面白いね。でも俺、三つともほぼ同じレベルなんだよ。強いて言えば……スペ語と日本語が同率一位で、英語が完全にビジネス用。だとすると、スペイン語と日本語で試してみる価値はある」
彼女の提案が、どこまで効果があるのかは分からない。なぜなら過去に治療をうけたとき、飛豪は「あなたは理性が強すぎて、セラピーまでも水面下の深層心理で分析して、他者の介入を拒んでいる」と、カウンセラーに匙をなげられたこともあるからだ。
彼女が少しでも安心するのならば、専門家にかかる意義はある。ただやはり、万が一の保険として物理的に効果があるのは鎮静剤だろう。
そこまで伝えると、藤原は「ふぅん。鎮静…剤より大型、動物用、の麻酔銃じゃないか? サイとかに使う…ようなやつ」と、相変わらず喉を苦しげに震わせながらも、茶々を入れてきた。
――このオッサンも、命あるかぎり色々言ってくるな……。
辟易しつつも、憎まれ口をやり取りしている間は、まだ大丈夫だと思った。
あまり長くなっても病人に負担をかけてしまう。黒川に任せきりになっている歌舞伎町のダグラスMの話をしたあと、彼は辞去のそぶりのため腕時計にちらと視線を落とした。
藤原は、眩しいものを見るように飛豪へと目を細めていた。
「坊ちゃんよぅ……」
「なんだよ?」
「お前、年々……親父さんに似て、くるな…」弱々しくはあったが、ひどく懐かしげな声だった。
「良い意味で言ってるなら嬉しいよ」
「決ま、…ってる…だろ。……いま、煙草、持っ…てるか?」
「煙草? マルボロの八ミリならある」
よれて大分くたびれたボックスを、藤原の枕元に置いた。
瞳子と暮らすようになってから、二週間で一箱も吸ってない。禁煙はほぼ達成しているが、ポケットに入っていないと納まりが悪いので持ち歩いている程度の代物だった。
「まさか、病室で吸うのか? 看護師に怒られんぞ」
「酒よりは…隠し、やすいからな。時々…晴れた、日に…青い空見てると…無性に、吸いたくなるんだよ」
「火事だけは気をつけて」
もう、余命わずかの人間に止めることなどできなかった。
別れ際、藤原は「お前……これから…あの子に、ますます振りまわされる…だろうな」と、見透かすような笑みをむけた。まるで、ざまあみろと言いたげだ。
「知ってるよ」眉をちょっと吊り上げて、飛豪は応える。
「お前、が思ってる、より……早い。せいぜい……っグ…頑張れ」
意味深な口ぶりは、彼がまだ知らないなにかを見抜いているかのようだった。
「へいへい」
明日、永遠の別れが訪れてもおかしくない。そうは思っていたが、飛豪はいつもどおり気軽な挨拶だけをして病室を出た。
踊っていた時期には体重管理のために避けていたものを、過食症になった瞳子はひたすら食べつづけた。食べては吐きを繰りかえしたという。
とうとう地元のファストフード店では顔を覚えられるようになってしまって、隣町まで行くほどになった。そんな時期が数か月つづいて、母の自殺と時を同じくして過食も終わった。
「結局、お金がないと食べ物って買えないの。それまでは借金の総額も分かってなかったし、母が防波堤になってくれてて。でも、家のこともお金のことも自分一人でまわしていくとなると、食費は最初にカットして……」
最後はもう、踊ってた現役時代より痩せてましたもん、と彼女は乾いた口ぶりで話を終えた。
強烈な転機なりショックなりが訪れると、玉突き事故のようにして精神の不調が快方に向かうこともあるらしい。まさしく今回のケースがあてはまる。
しかし瞳子は、飛豪の状態が快復にしつつあると知っても断乎として譲らない点があった。それが薬と診療だった。
今は鎮静化している症状も、再発すると被害は彼女にもいく。薬はともかく診療は非常に気がすすまないが、彼女のためだと思えば呑むしかなかった。
一〇年前にも専門家の治療を受けてきたが、あまり効果がなかった印象しかない。どこまでも渋っている彼に、瞳子は「どの言語で話してました?」と不思議な質問をしてきた。
「言語? もちろん英語だけど。アメリカ住んでたし」
「飛豪さん、マルチリンガルですよね。ひょっとして、日本語とかスペイン語でカウンセリング受けていたら、結果が違ってたかな、と思って」
「どういうこと?」
「わたしのバレエ時代の友人……ベルギーの子なんですけど、フランス語とオランダ語とドイツ語と英語が話せるんです。ブリュッセルの生まれで、ご家庭ではフランス語で育ったから、残りの三言語は、話せるけど愛着がないって言ってたんです。だけどドイツ語のときの人格は、母語の時の人格ともちょっと違うみたいで。フランス語では絶対話さないようなことも言ってしまうことがあるって、前に教えてくれました。
……わたしも、日本語のときは人見知りなんですけど、英語とかフランス語話すときってオープンだし積極的な性格になるんです。それは海外だと、どんどん人の輪に入ってかないとレッスンでもコンクールでも乗り遅れちゃうからで」
「なるほど、分かった。言語でキャラクターが変わるって現象か。面白いね。でも俺、三つともほぼ同じレベルなんだよ。強いて言えば……スペ語と日本語が同率一位で、英語が完全にビジネス用。だとすると、スペイン語と日本語で試してみる価値はある」
彼女の提案が、どこまで効果があるのかは分からない。なぜなら過去に治療をうけたとき、飛豪は「あなたは理性が強すぎて、セラピーまでも水面下の深層心理で分析して、他者の介入を拒んでいる」と、カウンセラーに匙をなげられたこともあるからだ。
彼女が少しでも安心するのならば、専門家にかかる意義はある。ただやはり、万が一の保険として物理的に効果があるのは鎮静剤だろう。
そこまで伝えると、藤原は「ふぅん。鎮静…剤より大型、動物用、の麻酔銃じゃないか? サイとかに使う…ようなやつ」と、相変わらず喉を苦しげに震わせながらも、茶々を入れてきた。
――このオッサンも、命あるかぎり色々言ってくるな……。
辟易しつつも、憎まれ口をやり取りしている間は、まだ大丈夫だと思った。
あまり長くなっても病人に負担をかけてしまう。黒川に任せきりになっている歌舞伎町のダグラスMの話をしたあと、彼は辞去のそぶりのため腕時計にちらと視線を落とした。
藤原は、眩しいものを見るように飛豪へと目を細めていた。
「坊ちゃんよぅ……」
「なんだよ?」
「お前、年々……親父さんに似て、くるな…」弱々しくはあったが、ひどく懐かしげな声だった。
「良い意味で言ってるなら嬉しいよ」
「決ま、…ってる…だろ。……いま、煙草、持っ…てるか?」
「煙草? マルボロの八ミリならある」
よれて大分くたびれたボックスを、藤原の枕元に置いた。
瞳子と暮らすようになってから、二週間で一箱も吸ってない。禁煙はほぼ達成しているが、ポケットに入っていないと納まりが悪いので持ち歩いている程度の代物だった。
「まさか、病室で吸うのか? 看護師に怒られんぞ」
「酒よりは…隠し、やすいからな。時々…晴れた、日に…青い空見てると…無性に、吸いたくなるんだよ」
「火事だけは気をつけて」
もう、余命わずかの人間に止めることなどできなかった。
別れ際、藤原は「お前……これから…あの子に、ますます振りまわされる…だろうな」と、見透かすような笑みをむけた。まるで、ざまあみろと言いたげだ。
「知ってるよ」眉をちょっと吊り上げて、飛豪は応える。
「お前、が思ってる、より……早い。せいぜい……っグ…頑張れ」
意味深な口ぶりは、彼がまだ知らないなにかを見抜いているかのようだった。
「へいへい」
明日、永遠の別れが訪れてもおかしくない。そうは思っていたが、飛豪はいつもどおり気軽な挨拶だけをして病室を出た。
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