青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

《第９章》 オデュッセウスの帰還

十月

　一〇月に入って冬学期がはじまると、途端に日が短くなった。五時前には既に夕闇があたりを包んでいる。

　瞳子のかよう大学キャンパスは武蔵野の森林地帯を切りひらいて造成されたので、良くいえば自然が身近で、悪くいえば夏は虫に、冬は底冷えする寒さに悩まされる。

　新学期の初めはまだ、履修登録前の模擬講義ばかりである。就職活動が本格的に始まりつつあって忙しくはあったが、彼女は時間をみつけては大学図書館の資料室にこもって、いま心がとらわれている事柄についての書籍を読みあさっていた。

　二週間前の電話が、いまも耳の奥に残っている。ちょうど、藤原の見舞いで病院にいたタイミングを狙いすましたかのような電話だった。

　その電話のせいで、瞳子の心は沸きたち、かき乱されていた。

　――どうしよう。ただでさえ飛豪さんを待たせてるし、就活のこともあるのに、これ以上考えること増えるときつい……。ん？　でも電話の件は、ひょっとして知ってるのかな。かけてきたのが、あの人だから。

　午後六時すぎ、すっかり暗くなったキャンパスを抜けて駅へと速足でむかいながら、瞳子は一歩ごとに心が重くなっていくのを感じていた。

　昔からこうだった。負荷がかかると、最初はいつもパニックになって気持ちが暗くなる。

　鉛色の気分のまま努力はしてみるけれど、何一つ解決しない。そうこうしているうちに疲れきって、眠る。たくさん眠る。長い眠りからさめると、最後は開きなおる。結局、大事なことから順番に、一つひとつ時間をかけて向きあうしかない、と。

　――今日は早く寝よう。そうしよう。あとは、美味しいご飯を食べよう。

　冷蔵庫の中身を思いだしながら、買い物リストを頭のなかで作る。ピーマンと長ネギとセロリをこれでもかと入れた青椒肉絲チンジャオロースが食べたい。となると、タケノコの水煮と牛肉を買いたす必要がある。そういえば、お米も残り少なかった。

　中央線に乗ったところで、彼からのメッセージが届いた。

　いつもより早く会社を出られるらしい。まだ家に着いてないなら外食でもしようか、と訊かれたが、疲れている日だからこそ自分の味つけの食事にしたい。買いだしして自宅で作ると返すと、「なら荷物持ちするから、待ち合わせスーパーで」と、だいたいの神楽坂到着時間が送られてきた。

　――お家に帰ろう。飛豪さんと買い物をして、家に帰ろう。

　そう思うだけで、体の芯からほかほかと温まる。スマートフォンをバッグにしまっても、メールの文面が彼の声となって耳元で聞こえる。あと三〇分で会える。

　神楽坂の駅近のスーパーに入ると、先についた飛豪のほうが買い物カゴを手にして、精肉コーナーで真剣に牛肉を吟味していた。

　二人で買い物にいくと、大抵精肉コーナーで戦いがはじまる。値段とカロリーの面から割引シールのついた鶏ムネ、ささみを買いたい瞳子と、「牛か豚でないと勤労意欲がおちる」と主張する彼の攻防戦の結末として、どちらもカゴに入れることになる。

　薄手のこげ茶色のブルゾンに、黒のVネックニット、濃色のブルーデニムをあわせた服装の彼を遠くから見ていると、褐色の肌、陰影のあるシャープな目鼻だちもあいまって、とても人目をひく男性だと思う。

　体から発散されている空気感や、その佇まいから想像されるバックグラウンドが非常に異質に感じられる。ここではない別種の太陽の光の下で育ち、荒い粒子のまじった風を頬にうけて生きてきた人のようだ。