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《第9章》 オデュッセウスの帰還
月が輝く夜だから
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瞳子の視線に気づいたのか、彼はこちらに軽く手をあげ、ふわりと笑った。
瞬間、硬質な顔の輪郭がやわらかく、とても優しいものになった。彼女は胸がいっぱいになり、涙腺がつきりと刺激される。
――そっか、飛豪さんにこんな顔をさせているのは、わたしなんだ。
今日は、鶏肉をカゴに放りこむのも忘れてしまっていた。
寒くもなく、暑くもなく、さわやかな秋の風が街を吹きぬけていく趣ある宵だった。
洒脱な飲食店がならぶ神楽坂のメインストリートの両脇の街灯は、通行人の顔を照らしだしている。飯田橋へかけて坂をくだっていくどの顔も、穏やかで平和そうだった。
街灯のむこうの夜空にぽっかりと浮かんでいる上弦の月と、瞳子は目があった。
月だけではなく、星が幾つもまたたいている素敵な空だった。ふと、口にしていた。
「飛豪さん、ケーキ買ってこうよ」
「珍しいこと言うな。いつもストイックにカロリー管理してるのに」
「今日はそういう気分なんです」
「ま、いいよ。ケーキ屋寄ってこうか」
元来た道を引きかえし、細い辻道に折れてしばらく歩くと、どうにか閉店間際のケーキ店に辿りつくことができた。雑誌でもよく取り上げられている人気店だが、ショーケースにはまだ数個残っている。
白一色のインテリアの店内に入る直前、瞳子は彼のブルゾンの袖をひいて立ちどまった。
「あの、」
「どうした?」
両手に買い物袋をさげた飛豪が、怪訝そうに隣の彼女を見下ろした。
「今、突発的に思ったんですけど……わたし、飛豪さんのこと、やっぱり好きです。すごく好きです。だから、これからも一緒いたいです」
瞳子は、まっすぐに飛豪を見つめていた。最初ぽかんとしていた彼は、ややあってから答える。
「……嬉しいけど、このタイミングで言いだす意味が分からない」
彼は店の前では迷惑だと判断して、少し離れた奥まった暗がりへと彼女を促した。
「話、ちゃんと聞くよ」
言ってみな、というその低い声音が、瞳子の心や肌に染みわたっていく。
「だって、二人で並んで帰ってて、星がすごく綺麗に光ってて、お月さまが笑ってて、家についたら一緒にケーキが食べたいなって思ったの。これってわたし、飛豪さんのこと大好きじゃないですか」
溢れるようなこの気持ちを否定されたらどうしよう。彼女は不安になっていた。
そう、自分は確かに二週間前から、不安定になっている。だけど、さっき彼に感じた気持ちは本物だと思ったから、少しでも早く伝えたかった。
「なんで君のほうが泣きそうになってるの」飛豪は心配げに、手の甲で頬にふれてきた。
「分かんない。でも、本当なんです」
「OK。じゃあ、一つだけ質問させて。ちゃんと考えた? 勢いとか直観で決めるのもいいけど、ここでYESと言ったらもう、俺は君のこと逃がすつもりないよ」
「望むところです」瞳子は口を尖らした。
「宣戦布告みたいな言い方して……」彼は、顔を苦くしてやれやれと肩をすくめた。
「だって、わたし……一番初めの日も、全部直感で飛豪さんについてったし」
「これから先、俺以外の人類に直観でついていくのは禁止で」
飛豪は、腕をまわして彼女を抱きしめようとした。しかし、両手からぶら下がっている買い物袋に阻まれる。らしくなく、チッと忌々しげに舌打ちをした。
「どうして両腕塞がってるんだよ。米五キロのせいか……」
言いつつも、その顔が下りてきて涙腺がゆるみかけている瞳子の目元に口づけがされた。目を伏せると、温かな感触が鼻筋から唇へと滑っていく。
やがて、袋がどさりと道端に落ちた音がするとともに抱き寄せられた。
彼の大きな体のなかに包みこまれる。汗と香水がまじった香りがして、理性のボタンがぷつんぷつんと外れ、官能があらわになる。木枯らしが走っていくように、快楽の震えが背筋をかけあがっていった。
――良かった。わたしもずっと、こうしたかった。
飛豪の背中に腕をまわしてしがみつくと、快感をこえて、今までに感じたことのない深さの安堵にひたされていった。
足首に縄と重しをむすばれて、深海に引きずり込まれてゆく感覚。呼吸はない。なのに気持ちいい。
海流のうねりに、どっと流されてたゆたってゆく。この海すべてが飛豪だった。二つの鼓動がかさなって、メトロノームがきざむように均衡した世界が生まれる。今は、彼のことだけで心も体もいっぱいになりたい。
結局ケーキは買えなかった。だが瞳子も一つ袋をもって、二人手をつないで帰り道をあるいた。
瞬間、硬質な顔の輪郭がやわらかく、とても優しいものになった。彼女は胸がいっぱいになり、涙腺がつきりと刺激される。
――そっか、飛豪さんにこんな顔をさせているのは、わたしなんだ。
今日は、鶏肉をカゴに放りこむのも忘れてしまっていた。
寒くもなく、暑くもなく、さわやかな秋の風が街を吹きぬけていく趣ある宵だった。
洒脱な飲食店がならぶ神楽坂のメインストリートの両脇の街灯は、通行人の顔を照らしだしている。飯田橋へかけて坂をくだっていくどの顔も、穏やかで平和そうだった。
街灯のむこうの夜空にぽっかりと浮かんでいる上弦の月と、瞳子は目があった。
月だけではなく、星が幾つもまたたいている素敵な空だった。ふと、口にしていた。
「飛豪さん、ケーキ買ってこうよ」
「珍しいこと言うな。いつもストイックにカロリー管理してるのに」
「今日はそういう気分なんです」
「ま、いいよ。ケーキ屋寄ってこうか」
元来た道を引きかえし、細い辻道に折れてしばらく歩くと、どうにか閉店間際のケーキ店に辿りつくことができた。雑誌でもよく取り上げられている人気店だが、ショーケースにはまだ数個残っている。
白一色のインテリアの店内に入る直前、瞳子は彼のブルゾンの袖をひいて立ちどまった。
「あの、」
「どうした?」
両手に買い物袋をさげた飛豪が、怪訝そうに隣の彼女を見下ろした。
「今、突発的に思ったんですけど……わたし、飛豪さんのこと、やっぱり好きです。すごく好きです。だから、これからも一緒いたいです」
瞳子は、まっすぐに飛豪を見つめていた。最初ぽかんとしていた彼は、ややあってから答える。
「……嬉しいけど、このタイミングで言いだす意味が分からない」
彼は店の前では迷惑だと判断して、少し離れた奥まった暗がりへと彼女を促した。
「話、ちゃんと聞くよ」
言ってみな、というその低い声音が、瞳子の心や肌に染みわたっていく。
「だって、二人で並んで帰ってて、星がすごく綺麗に光ってて、お月さまが笑ってて、家についたら一緒にケーキが食べたいなって思ったの。これってわたし、飛豪さんのこと大好きじゃないですか」
溢れるようなこの気持ちを否定されたらどうしよう。彼女は不安になっていた。
そう、自分は確かに二週間前から、不安定になっている。だけど、さっき彼に感じた気持ちは本物だと思ったから、少しでも早く伝えたかった。
「なんで君のほうが泣きそうになってるの」飛豪は心配げに、手の甲で頬にふれてきた。
「分かんない。でも、本当なんです」
「OK。じゃあ、一つだけ質問させて。ちゃんと考えた? 勢いとか直観で決めるのもいいけど、ここでYESと言ったらもう、俺は君のこと逃がすつもりないよ」
「望むところです」瞳子は口を尖らした。
「宣戦布告みたいな言い方して……」彼は、顔を苦くしてやれやれと肩をすくめた。
「だって、わたし……一番初めの日も、全部直感で飛豪さんについてったし」
「これから先、俺以外の人類に直観でついていくのは禁止で」
飛豪は、腕をまわして彼女を抱きしめようとした。しかし、両手からぶら下がっている買い物袋に阻まれる。らしくなく、チッと忌々しげに舌打ちをした。
「どうして両腕塞がってるんだよ。米五キロのせいか……」
言いつつも、その顔が下りてきて涙腺がゆるみかけている瞳子の目元に口づけがされた。目を伏せると、温かな感触が鼻筋から唇へと滑っていく。
やがて、袋がどさりと道端に落ちた音がするとともに抱き寄せられた。
彼の大きな体のなかに包みこまれる。汗と香水がまじった香りがして、理性のボタンがぷつんぷつんと外れ、官能があらわになる。木枯らしが走っていくように、快楽の震えが背筋をかけあがっていった。
――良かった。わたしもずっと、こうしたかった。
飛豪の背中に腕をまわしてしがみつくと、快感をこえて、今までに感じたことのない深さの安堵にひたされていった。
足首に縄と重しをむすばれて、深海に引きずり込まれてゆく感覚。呼吸はない。なのに気持ちいい。
海流のうねりに、どっと流されてたゆたってゆく。この海すべてが飛豪だった。二つの鼓動がかさなって、メトロノームがきざむように均衡した世界が生まれる。今は、彼のことだけで心も体もいっぱいになりたい。
結局ケーキは買えなかった。だが瞳子も一つ袋をもって、二人手をつないで帰り道をあるいた。
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