青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第9章》 オデュッセウスの帰還

わたしからも

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 瀬戸際まで、彼はとても紳士的だった。そう、指環をはめるまでは。

 マンションまでたった一〇分弱の道行きなのに、二人とも体のスイッチが入っていた。

 ちょっとした刺激で破裂しそうなところまで気持ちが膨れ上がっていて、いまにも発火しそうに火照っていた。つないだ手がじわりと汗ばんでいる。もうそれすらも、舐めて、しゃぶって、始めるための手立てにしてしまいたかった。

 一言でも言葉をかわしてしまうと、これまで抑えていた分だけ激しく求めあってしまいそうで、道端であられもない声をあげてしまいそうだった。無言で黙々と足を動かすなか時折響く、不自然なほど切羽つまった荒い息づかいだけが、本心の欲望を伝えていた。

 とうとう玄関ドアをひらいた時、飛豪は自分にブレーキをかけるように一つ息をついた。

「瞳子、指環とセックス、先にどっちがいい?」

 身もフタもないことを訊いてくる。この時点で青椒肉絲チンジャオロースルートは消え去っていた。

「指環」彼女は即答する。

 二人とも、指環が形にすぎないことは分かっていた。

 快楽を先送りして、より燃え上がらせるためだけの形だ。それでも瞳子は、毎晩ベッドでずっと眺めてきた銀の指環を、一秒でも早く身につけたかった。

 自室に飛びこんでジュエリーボックスを手にして戻ってくると、飛豪はダイニングで待っていた。彼女はいつもの向かいの席に座る。

「君のものだよ。開けて」

 そう言ったときの彼が向けてきた表情ときたら。幸福なはずなのに、胸が痛くなるような優しさと切望がないまぜになっていた。

 決意をこめて、瞳子は指環に手をのばした。これが彼の気持ちだというのなら、自分もきちんと受けとめたい。おごそかな気持ちで薬指にはめると、ひやりと冷たい感触が意識された。

 飛豪もまた、サイズが大きいもう一つを無造作にとって左手にはめた。瞳子のときは息をこらすようにして見守っていたというのに、えらい落差だと可笑しくなってしまう。

「サイズはどう?」

「ちょっと緩いです」

「今度サイズ直しに行こうか。そもそもデザインや色、これで良かった? 俺は、君に一番似合いそうなのってコンセプトだったんだけど。別のメーカーが良ければ作り直してもいいよ」

「いえ、そんな……」瞳子はふるふると首をふる。

 指環だなんて、考えてもみなかった。そんな物が与えられるなんて、思ってもみなかった。

 彼との生活が軌道に乗りはじめてからも、僅かばかりの期待もしていなかった。だって自分は、バレエですべての幸運を使いきったと思っていたのだ。好きになった人が自分を好きになるなんて幸せは、起こりえないと思っていた。

「就職活動の時は外していいけど、それ以外の時は着けててくれると嬉しいな」

「うん」

「あと、」飛豪は言いにくそうに言葉をきった。渋面をつくって、口が重そうな様子になる。「お願いだから……俺以外の男に抱きしめられたりしないでください。こっちの心臓が潰れる。今後は『彼氏いる』ってアピール、ちゃんとして」

 サーシャのことだ。丸ビルで抱きあっているシーンを目撃してしまったのが、よほどの衝撃だったのだろう。そもそも、あれが引き金になって九月一三日のあの夜が起こった。

 逆を思えば、納得できる。瞳子も彼が別の女性と抱きあっている現場に居合わせてしまったら、気まずさと不機嫌で突きぬけてしまうに違いない。彼女は無条件に同意した。

「分かりました……なら、わたしも一つ、お願いしていいですか」

「いいよ。何でも言って」

「あの……これからは、わたしからも飛豪さんに触ったり抱きしめたりしていいですか?」

「え?」

「今までずっと我慢してたの。わたしはあなたのセフレだったから、飛豪さんから触れられるのは当たり前だったけど、わたしから飛豪さんに触ったりする理由は、どんなに考えても見つけられなかった。せいぜい、酔っぱらって勢いつけたり、寝ぼけたふりする時くらい。だから、あの、本当に恋人になっていいなら、わたしからも飛豪さんに触りたいです。……時以外でも」

 面を伏せ、彼女は小声で絞りだすようにして伝えた。

「……やっぱ嫌ですか?」

「…………」

 答えのない長い沈黙に訝しく思って顔をあげると、飛豪がまじまじとこちらを見つめていた。

「瞳子……それ、本気で言ってる?」

「わたし何か、変なこと言ってますか?」

「指環はめた後に、まさか、今さらそんなお願いされると予想してなかった。初対面であんな迫り方してきた子が、それ言う? みたいな……」

「ごめんなさいっ‼」

「怒ってないよ、全然。俺は君が好きだって言ってるんだから、むしろウェルカム」

「でも……」

「それ以上ゴネるとキスするよ」

「えっ⁉」

「ま、ゴネなくても久しぶりにちゃんとキスしたいから俺から行くわ」

 彼はおもむろに立ち上がった。隣の席に腰かけ、彼女の左手をそっと取った。
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