青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

文字の大きさ
184 / 192
《終章》 ふたりは非常階段で

春色

しおりを挟む
 瞳子は、名残惜しくも一人でキャンパスツアーをして、最後に敷地のはずれにある古びた第二本館に彷徨いこんでいた。

 奈津子の学部の授業はよくここで行われていたようだが、瞳子は二度三度しか入ったことのなかった場所である。老朽化のため新年度からの改修工事が決まっていて、廊下の大部分がブルーシートで覆われていた。がらんとしていて人影はなかった。

 エレベーターは動いていなかった。

 気の向くままに階段をのぼって、三階まで行く。最終的に、四〇人ほど収容ができる講義室に入りこんでいた。彼が迎えにくるまで、ここで時間をつぶしていよう。

 空調がきいておらず、外の暖かい日ざしも入ってこないので、真冬のように寒い。瞳子はコートの首元をかき合わせた。

 ふと、昨日のレッスン中のことを思い出していた。

 ――住吉先生のこと、断らなければ良かったな。先生にも、すごくお世話になったし。

 一昨年の秋から個人レッスンをうけている住吉には、三歳の頃からバレエを教えてもらっていた。五年近くのブランクがあったものの、親戚のように長い関係だった。

 昨日は最初のバーレッスンから気もそぞろで、瞳子は叱られたときに「明日卒業式なんです」と言い訳をした。次の瞬間、住吉は「あら! おめでとう」と嬉しさに弾けた声をあげ、思いの丈をこめて抱きしめてくれた。

 その時の表情は、普段のレッスン時の厳しさとはかけ離れていて、深い感情が溢れていた。涙ぐんでいるようにさえ見えたかもしれない。

「明日の午前、私、クラスがないのよね。晴れ姿を見に、卒業式に行ってもいいかしら?」

 それを瞳子は、「晴れ姿って言っても、袴でも振袖でもないんで」と、ボソボソ言い訳しながら断ってしまった。

 理由は服装だけではない。彼が来てくれる予定だったからだ。子供のころからの知り合いに恋人を紹介する気恥ずかしさと、怒られるのではないかと危惧していたのもあって、彼女は二人を引きあわせることを、ずっと躊躇していた。

 住吉は早々に、瞳子がレッスンで外し忘れていた左手の指環に気づいていた。

 同僚だった彼女の母親が他界した経緯も、父親の縁もあてにできない事情も十分に知っていた。だから最初、瞳子は繰りかえし詰問され、叱責されたのだ。彼女が今、誰のお金で暮らしていて、どこからレッスン代を出しているか知ると、住吉は手こそあげないものの、尋常ではない激しさで言ってきた。

「私はあなたにそんな生き方してほしくなかった! 変な男の人と付きあってるんじゃないんでしょうね⁉」と。

 実際、いかがわしい場所で出逢った、変ではないけれど変わった人が相手だったので、瞳子は反論も説明も上手くできない。結果、その人は独身できちんと仕事をしている人だとしか伝えられなかった。ことあるごとに「紹介しなさい」と催促されるのだが、ためらいは大きくて実現できていなかった。

 半分だけの信頼で目をつぶってくれているようなものだ。

 奨学金待遇で大学に入学をしたこと。一般企業の内定をとり、大学での学業も無事におさめたこと。健康そうに暮らしていること。そして、瞳子がまたかつてのように夢中になって踊っていて、「お付きあいしてる人からも、応援してもらってるんです」と、幸せそのものの表情でいるからだ。

 信頼のない残りの半分には、幼い頃からの教え子とはいえ、ハタチを過ぎた人間の生き方に口を出せない、と遠慮がはたらいていているのだろう。

 この件に関しては、むしろ飛豪のほうが強く気にかけていた。

 レッスンを再開するとき、彼のアドバイスで住吉やお教室に手土産を携えていったし、レッスン帰りのお迎えでは、彼は「初回は俺が行って挨拶しようか。世話になってた人なんだろ」とまで言ってくれた。

 瞳子とて分かっているのだ。二人を引きあわせて、きちんと紹介するのが理解を得られる一番の近道だと。しかし様々な感情がごった混ぜになったまま、ずっと先送りしてきた。

 昨日「卒業式には来なくていいです」と伝えたあと、住吉は少し悲しげで、残りのレッスン時間中、ずっとギクシャクした気まずさが立ちこめていた。

 時間がたてばたつほど後悔し、反省もしていた。大切な人なのに、あんな言い方をすべきではなかった。

 来週の三月最後のレッスンの日、彼はまだ日本にいる。卒業もしたし頃合いかもしれない。

 今朝、あんなこと言われたし、と瞳子は、彼の「籍入れる時は白いドレス」発言を思いだした。

 前に話しあったこともあったが、二人とも両親の前例から、結婚という制度にはひどく懐疑的だった。だが、いつかタイミングが来たら、とりあえず入籍してみるのもいいかもしれない、とも思っている。

 二人のあり方に結婚制度がマッチしていないのなら、また別の形を模索すればいいのだと思う。

 未来さきは長いのだから、その場その場でベストを掴んでいくしかない。

 行けるところまで、彼と一緒に歩いていきたい。

 ともあれ、瞳子は新生活前のタスクリストに、二人に時間をとってもらうことを加えた。

 上手くいく。きっと全部上手くいく――。

 とりとめもなく考えごとをして過ごしていると、スマートフォンが着信で鳴りはじめた。他に誰もいない空き教室で、バイブの振動がいやに響く。

 彼からだった。電話口で飛豪は、「キャンパスの、君に相当近いところまで来ているけど、どの建物か分からない」と早口に伝えてきた。

「いま行くから、すぐ行くから。待ってて‼」

 瞳子は椅子から乱暴に立ち上がった。

 教室を飛びだすと、長いながい廊下が伸びていた。エレベーターは使えない。階段は、廊下の奥にある。校舎の端まで来てしまっていたのだ。ブルーシートで転ばないか、左足を気づかいながら走るのももどかしい。辺りを見まわすと、「非常階段」と書かれた扉が目についた。

 反射的に飛びついて鍵をまわすと、外につながっていた。

 春先の、眠気をさそわれる暖かな大気と、染みるようにまばゆい白金の陽光がどっと溢れてくる。暗がりの廊下から出てきた瞳子は、束の間、まぶしさに立ちどまった。

 光に目が慣れるとすぐに、十数メートル先の隣の校舎の植栽に、彼が電話を手にしたまま佇んでいるのが見えた。

「飛豪さんっ!」瞳子は叫んだ。

 返答も待たずに、カンカンカンと金属音をたてて非常階段を駆けおりる。一歩ごとに階段全体がギシギシと震える。昔住んでいた、玉川上水ぞいの古アパートみたいだ。早く彼に会いたい。

 急き立てられるように階段を下りていくと、彼も小走りにこちらの校舎に向かっていた。

「瞳子!」と、名前を呼ばれる。胸いっぱいに嬉しくてしかたない。

 最後の踊り場をターンすると、ちょうど彼が非常階段の手すりに届いたところだった。

 もう待ちきれない。

 彼女は階段のステップを蹴って、大きく跳躍した。彼が、ぎょっとした顔で宙を見上げる。

 ――残り五段、一メートル。大丈夫。飛豪さんは絶対にわたしを捕まえてくれる。あとで怒られるだろうけど。でもいい。大好き‼

 春色の空気を大きくはらんだコートごと、瞳子は彼の腕のなかに飛びこんだ。

〈了〉


★本作をお読みくださりありがとうございました。コメント等いただけますと励みになります。そして、二人を見守ってくださったすべての読者さまに感謝を★
しおりを挟む
感想 22

あなたにおすすめの小説

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

おじさんは予防線にはなりません

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「俺はただの……ただのおじさんだ」 それは、私を完全に拒絶する言葉でした――。 4月から私が派遣された職場はとてもキラキラしたところだったけれど。 女性ばかりでギスギスしていて、上司は影が薄くて頼りにならない。 「おじさんでよかったら、いつでも相談に乗るから」 そう声をかけてくれたおじさんは唯一、頼れそうでした。 でもまさか、この人を好きになるなんて思ってもなかった。 さらにおじさんは、私の気持ちを知って遠ざける。 だから私は、私に好意を持ってくれている宗正さんと偽装恋愛することにした。 ……おじさんに、前と同じように笑いかけてほしくて。 羽坂詩乃 24歳、派遣社員 地味で堅実 真面目 一生懸命で応援してあげたくなる感じ × 池松和佳 38歳、アパレル総合商社レディースファッション部係長 気配り上手でLF部の良心 怒ると怖い 黒ラブ系眼鏡男子 ただし、既婚 × 宗正大河 28歳、アパレル総合商社LF部主任 可愛いのは実は計算? でももしかして根は真面目? ミニチュアダックス系男子 選ぶのはもちろん大河? それとも禁断の恋に手を出すの……? ****** 表紙 巴世里様 Twitter@parsley0129 ****** 毎日20:10更新

禁断溺愛

流月るる
恋愛
親同士の結婚により、中学三年生の時に湯浅製薬の御曹司・巧と義兄妹になった真尋。新しい家族と一緒に暮らし始めた彼女は、義兄から独占欲を滲ませた態度を取られるようになる。そんな義兄の様子に、真尋の心は揺れ続けて月日は流れ――真尋は、就職を区切りに彼への想いを断ち切るため、義父との養子縁組を解消し、ひっそりと実家を出た。しかし、ほどなくして海外赴任から戻った巧に、その事実を知られてしまう。当然のごとく義兄は大激怒で真尋のマンションに押しかけ、「赤の他人になったのなら、もう遠慮する必要はないな」と、甘く淫らに懐柔してきて……? 切なくて心が甘く疼く大人のエターナル・ラブ。

財閥御曹司は左遷された彼女を秘めた愛で取り戻す

花里 美佐
恋愛
榊原財閥に勤める香月菜々は日傘専務の秘書をしていた。 専務は御曹司の元上司。 その専務が社内政争に巻き込まれ退任。 菜々は同じ秘書の彼氏にもフラれてしまう。 居場所がなくなった彼女は退職を希望したが 支社への転勤(左遷)を命じられてしまう。 ところが、ようやく落ち着いた彼女の元に 海外にいたはずの御曹司が現れて?!

あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

恋は襟を正してから-鬼上司の不器用な愛-

プリオネ
恋愛
 せっかくホワイト企業に転職したのに、配属先は「漆黒」と噂される第一営業所だった芦尾梨子。待ち受けていたのは、大勢の前で怒鳴りつけてくるような鬼上司、獄谷衿。だが梨子には、前職で培ったパワハラ耐性と、ある"処世術"があった。2つの武器を手に、梨子は彼の厳しい指導にもたくましく食らいついていった。  ある日、梨子は獄谷に叱責された直後に彼自身のミスに気付く。助け舟を出すも、まさかのダブルミスで恥の上塗りをさせてしまう。責任を感じる梨子だったが、獄谷は意外な反応を見せた。そしてそれを境に、彼の態度が柔らかくなり始める。その不器用すぎるアプローチに、梨子も次第に惹かれていくのであった──。  恋心を隠してるけど全部滲み出ちゃってる系鬼上司と、全部気付いてるけど部下として接する新入社員が織りなす、じれじれオフィスラブ。

苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」 母に紹介され、なにかの間違いだと思った。 だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。 それだけでもかなりな不安案件なのに。 私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。 「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」 なーんて義父になる人が言い出して。 結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。 前途多難な同居生活。 相変わらず専務はなに考えているかわからない。 ……かと思えば。 「兄妹ならするだろ、これくらい」 当たり前のように落とされる、額へのキス。 いったい、どうなってんのー!? 三ツ森涼夏  24歳 大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務 背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。 小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。 たまにその頑張りが空回りすることも? 恋愛、苦手というより、嫌い。 淋しい、をちゃんと言えずにきた人。 × 八雲仁 30歳 大手菓子メーカー『おろち製菓』専務 背が高く、眼鏡のイケメン。 ただし、いつも無表情。 集中すると周りが見えなくなる。 そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。 小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。 ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!? ***** 千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』 ***** 表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

処理中です...