勇者パーティーを追放されたので、張り切ってスローライフをしたら魔王に世界が滅ぼされてました

まりあんぬさま

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獣人の国編

ツヅラ御前

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 槍先がわずかにこちらを指すと、灰毛の門番は短く顎をしゃくった。

「――詰め所で詳しく聞かせてもらう。抵抗するなよ」

 脅し口調ではない。職務としての冷たさだけがこもる声音だった。
 バニッシュは両手を見える高さに上げ、素直に頷く。

「わかった。案内してくれ」

 横でグラドも、無用な誤解を避けるように腰の槌から手を離した。
 二人は左右から付き添う狼面の兵とともに、門楼脇の土間へ通される。
 厚い丸太と土壁で囲まれた小部屋――詰め所は、獣脂の煙と乾いた草の匂いが混じる、鼻に残る空気だった。壁には縄目の太い網、手入れの行き届いた槍、嗅ぎ分け用の香草籠。
 低い卓の上には、刻み目だらけの木簡と黒く磨かれた刻刀が置かれている。

「座れ」

 促され、二人は丸太を割った腰掛けに腰を下ろした。
 灰毛の門番が向かいに立ち、もう一人の若い門番が入口に立って目を光らせる。
 犬種の兵は香草籠を手に、こちらに近づいたり離れたり、風向きと呼吸を測るように鼻を使っていた。

「さっきの“匂い”だが――どこで付けた」

 問われ、バニッシュは一拍置いてから口を開く。

「道中、魔物とやり合った。火と風で焼き払ったが、……魔族寄りの術の流儀を、少しばかり使った。残り香があるのはそのせいだ」

 それが嘘でないことは、言葉に力を込めるよりも、視線を逸らさぬことに宿る。
 灰毛の男は目を細め、犬種の兵と視線を交わした。
 犬面の兵は小さく首をひねる。

「火炙りの煤と……古い血の匂い。だが、もうひと筋、別の筋がある。……唸りが混じる匂いだ」

 グラドが口髭を撫で、肩をすくめた。

「魔素の糸を締め上げる時の鼻にくるアレさ。鍛冶屋の鼻でも分かるくらいだ。嘘は言ってねぇ」

「口裏合わせに見えんでもない」

 若い門番が鼻で笑い、槍の石突で床を小さく突く。
 詰め所に張り詰めた緊張が、木目を通じて伝わってくるようだった。
 灰毛の男は、低く、喉の奥で唸る。彼らにとって“魔族”は、匂いと同義の脅威だ。
 目に見えぬものを嗅ぎ分ける感覚こそ、獣人の秩序を守る根っこにある。

「もう一度聞く。お前たちの目的は」

「鍛造技の見聞と材の調達。……それと、探し物だ」

「探し物?」

「心に反応する共振体――“心の代わり”になる器だ。魔素に感応し、感情の波形を拾う……学者風に言うとややこしいが、実際、触ってみりゃ分かる類のものだ。噂じゃ、この国の連中は“心の匂い”まで嗅ぎ分けると聞いた。なら、こういう物も扱っているだろうと踏んだ」

 詰め所の空気が、ほんのわずかに揺れた。
 若い門番が「何を」と口の端を吊り上げる。
 しかし灰毛の男はすぐにそれを手で制した。
 獣人の国――ルガンディアでは、匂いは言葉であり、手触りは証だ。
 曖昧な理屈より、手に取れる物と、鼻が語る真偽の方が早い。

「……で、その“心の器”を手に入れて、何をする」

「人を守る装置を完成させる。魔法の異なる理を、衝突させずに束ねるための核がいる。俺たちはそのために旅をしてる」

 灰毛の男は腕を組み、長い呼気を吐いた。
 彼の目は、理屈を測っているのではない。
 今この瞬間、バニッシュらの体温、呼吸、汗の匂い、瞳の揺れ――獣が獲物を見定めるように、総体としての“嘘”の匂いを嗅いでいた。

「……なるほどな」

 短い言葉の後、沈黙が落ちる。外では太鼓が二度鳴り、木戸車輪の軋む音と、香草を炙る甘い匂いが流れてきた。

「だが、こちらにも掟がある。“魔族の匂い”を放つ者を、素性も確かめず集落に入れるわけには――」

 灰毛の言葉は、檜扇で扉を軽く叩くような乾いた音に遮られた。
 詰め所の入口に影が差し、ふわりと別種の香が満ちる。
 白檀にも似た、しかし甘やかで艶のある香。

「――おやおや、詰め所でなにやらきな臭い話やなぁ。ちぃとばかし、あたいも耳を貸してもろてええ?」

 艶のある京都弁。
 振り向けば、そこに立っていたのは、あの女だった。
 金の瞳がゆるやかに笑みを帯び、花魁風の重ねをしゃなりと揺らす。
 人の肢体に、狐の耳と尾――“付けた”ではなく、そこに“在る”としか言いようのない自然さ。
 エルフの里の廊下で、バニッシュの眼前に顔を寄せてきた、あの狐女が、獣王国の詰め所に、当たり前のように立っていた。

「……あなたは」

 思わず漏れたバニッシュの声に、女は金の環を微かに鳴らして笑う。

「覚えといてくれはったんどすな。嬉しおす。――さて、そっちの御門の衆。お客はん、何したはったん?」

 軽い調子。
 だが、その場の空気は一気に変わった。
 入口を塞いでいた若い門番がはっと背筋を伸ばし、灰毛の男は一歩進み出て、深く頭を垂れる。

「――御前」

 短い呼称に、バニッシュは眉を動かした。御前。
 平民が気安く口にするには重すぎる言葉だ。
 女は扇で唇を隠し、「あらあら」と小さく笑う。

「ここは詰め所やし、そんなに肩肘張らんといて。で、状況を」

 灰毛の門番は簡潔に告げた。
 入境検めの途中、来客の一人から“魔族の匂い”を拾ったこと。
 荷は清潔、持ち物に不審なし。
 本人の申告では道中の戦闘の残り香。
 滞在の目的と探し物の話――。

 女は一つ一つにうなずき、金の瞳を細めた。
 その目は、柔らかいのに容赦がない。
 人の体温を確かめる手つきで、心の奥の温度を撫でるような視線だった。
 彼女が一歩踏み込むたび、衣の裾から、揮発する香と獣脂が絡み合う甘い匂いが少しずつ広がる。

「ふむふむ。お客はん、道中で影モンとやり合うた言うてはったな。……その“糸”の手つき、誰に習いはった?」

 いきなり芯を突く問いだった。
 バニッシュは嘘が利かないことを悟り、素直に答える。

「書で学んだ理を基に、俺なりに手を合わせた。人の理と魔の理の縫い合わせ方は、……現場で身につけた」

 女は「よう言いはる」と扇の端で口元を叩き、ゆるく笑う。
 その笑みは好奇の色を帯びるが、油断の匂いはない。
 彼女の両脇で控える二人の狐族――こちらは耳も尾も露わな若い従者――が、扉脇に立ち、詰め所の出入りをさりげなく塞いだ。
 彼女が“誰”なのか、ここにいる獣人たちがよく知っている証だ。

 獣人にも、人に限りなく近しい者と、獣へ傾く者がいる。
 鼻と耳だけが鋭い者もいれば、全身に毛が走り、四足に近い走りで森を駆ける者もいる。
 目の前の女は、そのどちらでもない。
 “人”として歩き、ため息の吐き方ひとつで場の温度を変えながら、――それでも獣の匂いを纏う。生まれながらに二つの境界をまたぐ者。
 だからこそ、ここで“御前”と呼ばれるのだろう。

「御前。こやつら、悪意は薄い。だが掟が……」

 灰毛の男が言いかけると、女は扇を伏せ、軽く首を振った。

「悪意は“薄い”やのうて、“ない”や。そこ、嗅ぎ間違いはあかん。鼻はええ匂いを拾うためにあるんえ。恐れと焦りは、悪意とは違う匂いやろ」

 言われ、灰毛の門番は一瞬だけ目を伏せた。
 羞恥ではない。
 自分の鼻が拾った“混じり”の内訳を、言葉にされたことへの納得だ。
 犬種の兵が「確かに」と鼻を鳴らす。

「それとな。あんたら、さっきから“魔族の匂い”言い過ぎや。匂いは匂い、名は名。混ぜて言うたら、鼻も心も鈍くなる。――お客はん」

 女はバニッシュに向き直り、扇を閉じて袖にしまった。金の瞳がまっすぐこちらを射る。

「うちの国では、匂いは“手形”や。あんたの匂いは、火と風と、ほんのちぃと“別の理”が混じっとる。でも、それがすぐ悪行に繋がるわけやあらへん。掟は守らなあかんけど、そのために“目”をつぶるのは、うちの趣味やない」

 若い門番が、ちらりと彼女を見る。御前は軽く頷いた。

「御前。――身分を明らかに」

 灰毛の男が言うと、女は「しゃあないなぁ」と笑って、腰帯の内側から緋の組紐に結ばれた小さな木札を取り出した。
 狐面と月輪の刻印。
 門番たちが一斉に膝を折り、低く頭を垂れる。

「ルガンディア・南市“牙門”目付――黄泉狐のツヅラどす。普段は市の目付やけど、今日は上のお使いで回っとりますのえ」

 目付。市を預かる“目”であり“鼻”。
 権限を示す木札が、燻した木の匂いとともに確かな重みを放つ。
 これで、この場の力学は決まった。

「で――お客はん。うちはあんたに興味がある。質問はあと。今は“次”に進めたいんえ。掟に従う形にしたる。記録を刻んで、仮の路印みちじるしを切っとき。滞在は七日、延伸は目付場にて申請。宿は“灰牙はいきば”の長屋を使い。……御門の衆、ええな?」

 灰毛の男は深く頷き、刻刀を取った。
 狸面の書記役が慌ただしく木簡を繰り、犬種の兵が香草籠に手を入れて、路印に使う乾草を選る。
 若い門番は入口から身を引き、外へ指示を飛ばす。

「ちょっと待ちなさいや」

 女はそこでぴたりと扇を広げ、バニッシュをもう一度だけ覗き込む。
 花魁風の衣の重ねから覗く喉元が、思わせぶりに白い。だが、その声音は錆びを落とすように真っ直ぐだった。

「あんた、エルフェインで会うたやろ。廊下で。……うち、あん時から気になっとってん」

「あの時は失礼した。――あなたは、何者なんだ?」

「んふ。さっき言うた通り、目付や。目と鼻は、境で働く。あんたみたいなんが好きやねん。境を渡ってしまう手と足と鼻を持っとる者。――うちらの国は、そういう者を嫌わん。たとえ、“匂い”がちぃとばかし混じっててもな」

 ふわりと尾が揺れ、金環がかすかに鳴った。
 その音に合わせて、詰め所の張り詰めた空気がほどけてゆく。
 灰毛の門番が木簡に最後の刻みを入れ、路印の乾草に香草の粉を揉み込んだ。
 香は道しるべの印――この国における“仮の身分証”。それをバニッシュの腕に軽く巻き付け、グラドにも同じ処置を施す。

「これで、門を通れる。だが掟を破ったら、鼻は真っ先にお前らの匂いを捉える。覚えとけ」

 灰毛の声は厳しいが、さっきまでの刺はない。
 女――ツヅラが「よろしゅ」と笑い、軽やかに踵を返す。
 扉のところで一度だけ肩越しにこちらを見た。

「夕刻、市の“心具屋”に顔出し。うちも行くさかい。探し物の話、続きを聞かせてもらお」

 尾がひらりと弧を描き、花がすれるような香が残る。
 詰め所に残ったのは、獣脂と香草と、焼けた木の匂い。
 グラドが肩を回し、ぼそりと言った。

「……高ぇ身分、てのは本当だったらしいな」

 若い門番が苦笑し、灰毛の男が短く補う。

「目付は市と掟の“目”だ。鼻の利きも、目の利きも、俺たちより上。……“御前”と呼ぶのは、敬称だ」

「なるほど」

 バニッシュは巻かれた路印を見下ろし、息を整えた。緊張の糸がほどけると同時に、胸の奥で別の糸――目的の糸が、静かに引かれる感覚がある。
 獣人の国は、匂いと掟と誇りでできている。
 ――ならば、ここで求める“心の代わり”も、匂いと手触りの言葉で語られるに違いない。

「行こう、グラド」

「おうよ。匂いの濃い街は、嫌いじゃねぇ」

 二人は詰め所を後にした。
 外はもう昼の匂いに満ちている。焼いた肉、炙った穀、香辛料、皮の油、鉄を打つ火花――様々な匂いが層になって、鼻から胸へ、胸から足へと麻縄みたいに絡みついてくる。
 丸太と石の防壁の影を抜け、牙門の内へ。
 ――獣人の国、ルガンディアの「生活」の真ん中へ。
 そこで待つであろう“心具”と“匂いの会話”を思い描きながら、バニッシュは金環の残響を、胸の奥で反芻した。

 牙門をくぐった瞬間、鼻腔の奥がびり、と痺れた。
 匂いが層になっている。焼いた穀の甘み、獣脂のこってりした膜、晒した皮に染み込む植物油、鉄滓の粉っぽさ、そして香草を潰した青い匂い――それらが縦横に交わって、街全体の“体温”を作っていた。
 石と丸太で組まれた街路は、まっすぐに伸びず、獣の通り道のように緩く曲がり、身を擦りつけるための角や柱が必ず見える位置に据えられている。
 家々の戸口には背丈ほどの「擦り木」が立ち、住人は出入りのたびに肩や頬をそこへ擦り付けて、己の匂いを刻む。
 塀には掌大の木片――匂い札――が何枚もぶら下がり、来客が札に頬を寄せて挨拶をする。耳がよく、鼻が利く者の社会は、目印より前に「匂印」で回っていた。

 市場は喧騒ではなく律動で満ちていた。
 太鼓が一定の間(ま)で打ち鳴らされ、職人通り、肉屋通り、皮屋通りへ“拍”を渡す。
 獣人の足はその拍に合わせ、荷車の車輪も同じ拍に乗る。
 行き交う者の尾が拍ごとにふっと揺れ、耳が小さく跳ねる。人が文字で段取りを組むなら、彼らは匂いと拍で段取りを組むのだろう。
 灰色の毛並みの職人が、通りの真ん中に低い炉を据え、鉄の棒を炙っては、槌ではなく“歯”で刻み目を入れている。
 噛むための補助具が巧みに作られ、金床の代わりに角の太い枠が据えられている。
 道具の握りは太く、爪と肉球に合わせて縄が巻き直してある。
 店の脇に吊るされた木札には絵が刻まれ、読み書きに馴れぬ種族でも用向きが伝わる。
 絵札の下には乾いた草束が結ばれていて、その草の種類で「修理可」「新調のみ」「急ぎ不可」といった合図になるのだと、通りすがりの子どもが胸を張って教えてくれた。

「ほぉ……人の街より、道具が“身体”に寄ってるな」

 グラドが目を細め、各店の手元を舐めるように見て歩く。
 鍛冶屋の目が光るたび、縄の巻き方や留め具の噛ませ方が頭の中で転がっていくのが、横にいるバニッシュにも分かった。

「宿は……“灰牙の長屋”だったな」

 路印に結わえられた香草の匂いを辿るように、二人は市の南へ折れた。
 緩やかな坂の下に、狼の牙を象った破風が見える。
 長屋は丸太の骨組みに石壁、土間がひと続きで、仕切りは布と縄の結い。
 出入り口に据えた擦り木の周りには、宿泊客の匂いが幾重にも絡み、獣脂の膜が薄く光っている。

「路印、よろし」

 舌に小さな傷を持つ羊系の女将が匂い札を鼻先で確かめると、布をめくって奥へ案内した。
 寝所は二段の寝台に藁と獣皮、壁には尾を掛ける輪と、耳を休ませる遮音布が用意されている。
 人間用に低めの台もあり、女将は「尾、無いならこの輪は衣掛けに」と肩をすくめた。
 荷を下ろすと、胃袋がぐうと正直に鳴いた。グラドが頭巾を脱ぎ、汗を拭いながら笑う。

「腹が鳴るのは万国共通だな。昼飯、行くぞ」

「ああ。市の拍が変わる前に」

 ふたたび外へ。
 昼の拍は、朝より少し早い。
 屋台の煙が増え、肉の焼ける匂いが通りを覆う。高原の獣肉に強い香草を揉み込んだ串焼き、挽いた穀と肉を皮に包んで蒸した「蒸皮むしがわ餅」、腸詰めを炙って蜂蜜と酢を塗る「甘酢焼き」。
 桶に張った骨湯に香草を放り込み、木勺で注ぐ湯飲み。
 鼻も舌も一度に掴まれて、どれからいくか迷う。

「まずはこれだ」

 グラドが選んだのは、鉄板に押し付けるたびにじゅっと音を立てる腸詰め。
 脂の力強い匂いに、蜂蜜酢の尖りが絡んで、胃が勝手に前のめりになる。
 バニッシュは蒸皮餅を二つと骨湯、串焼きを一本。店主の大柄な熊系の男は、客が人間でも気負わず、標準より短い串を選んでくれた。
 歯の強さに差が出ぬよう、肉の部位も少し柔らかい腹側だ。
 屋台の脇に据えられた共同の腰掛けに並んで座る。
 座面は低く、尾のある者は尾を前に回して座る作りだ。
 尾の無いバニッシュたちは膝を軽く開いて腰を落ち着ける。
 骨湯を啜ると、体の芯がすぐに熱を帯びた。

「……いい出汁だ。骨を砕く刻みも、香草の刻みも細かい」

「牙で割るとこういう割れ方になんだ。人の店の出汁とは“割り具合”が違うな」

 熱と脂で人心地がついた頃、隣の腰掛けに狐と豹の若い男たちが腰を落ち着けた。
 耳がぴんと立ち、好奇心の匂いを隠さない。会話の拍が合うと、自然と耳がそのリズムを拾い始める。

「――聞いたか。ツヅラ御前が牙門まで降りたって」

「聞いた聞いた。南市の目付が、門の匂いまで嗅ぎに来るなんて、年に何度もないぞ」

「お偉い鼻様のお通りかよ。何の“追い香おいが”だ?」

 狐の男が尾を二度ほど打つ。
 追い香――問題の匂いを追うという言い回しだろう。
 豹の男は肉を噛みちぎり、汁を指で拭って舌でさらい、にやりと笑った。

「外の客、だとよ。匂いが混じってたらしい。門の灰毛が騒いで、御前が静めたって話だ」

「灰毛が騒ぐって相当だな。あの鼻、三つ先の火種も嗅ぎ当てるって評判だろ」

「だからこそ、御前が出たんだ。あの御方は、鼻が立つだけじゃない。“秤”を持ってる」

 秤――その単語に、バニッシュは骨湯の湯飲みを少しだけ傾けた。隣席の狐が小声で続ける。

「南市を捌く目付は三人いるけど、ツヅラ御前は別格だ。匂いで嘘を嗅ぎ分けるだけやない。“群れ”の拍を崩さんよう、厳しいところで止める。あの金の目で見られたら、尾の動きでさえ言い訳にならん」

「さっき、市場道の拍を二つ落としたのも御前だってよ。戦士らの足が荒くなってたろ。拍を落としたら、みんな意識が落ち着く。指一本で街の息の数を変えるんだ」

「おっかねぇ話し方すんなよ」

「お前、御前に尻尾掴まれたことでもあんのか?」

「あるかよ。……でもな、あの御方は“二つの匂い”を持ってるって言うだろ。人の匂いと獣の匂い。だから秤が狂わねぇんだと。人には甘く、獣には甘く。どっちにも厳しく」

 狐が尾をゆっくり左右に振る。
 豹は頷き、串の先で空を突いた。

「御前が鼻を使って通した客は、たいがい正しく“匂いを返す”。うちの掟を踏む。踏まねぇやつは、二度と入れねぇ。それも御前の“嗅ぎ仕事”だ」

「それでいて、祭りでは一番よく笑うんだよな。俺の女房、憧れてるぜ」

「お前の尻尾の毛、祭りで燃やされたやつだろ。御前に見られてたぞ」

「黙れ」

 二人の笑いに、周囲の尾も軽く揺れた。
 笑いの匂いは脂の膜の上で滑り、骨湯の湯気に混じって飛ぶ。
 バニッシュは蒸皮餅を割り、中から立ちのぼる蒸気を鼻に入れてから口へ運んだ。
 感覚が澄む。耳の後ろで、ツヅラの金環のかすかな鳴りがよみがえる。

「……やはり、只者ではないな」

 ぽつりと漏らすと、グラドが腸詰めの端を指で摘みながら肩を竦めた。

「目付なんて役は、どこの国でも化け物の席だ。鼻が利き、目が利き、舌も回る。実(じつ)と理(ことわり)の両方で殴れるやつじゃなきゃ務まらん」

「彼女は“境の者”だ。匂いの秤を持っている」

「お前さんの“心の器”探しには、あの鼻がいるかもな」

 骨湯を飲み干すと、遠くで拍が一つ上がった。
 昼から午後へ、街の息が半拍軽くなる。
 皮屋の軒先で、若い山羊系の娘が、乾かした皮をひっくり返し、日向と日陰を入れ替える。
 太陽の角度と風の向き、匂いの抜け具合で仕事の順番を変える手際の良さに、ルガンディアという街の“身体”が見えた。
 屋台の親父が、骨を砕いた粉を指で摘み、火の端にぱらりと撒いた。
 香がふっと立つ。
 狐と豹の会話はいつの間にか、今夜の狩りと賭けの話に移っていた。
 ツヅラ御前の名が出ると、尾の動きが一瞬だけ揃う――敬意と警戒の混ぜ香。
 街の拍を握る者への、群れの自然な反応だ。

「さて」

 グラドが腰を押し上げる。
 串の木端を小袋にしまうと、店主が「骨は返すか?」と顎で問う。
 煮出しに再利用するのだろう。バニッシュは素直に頷き、串と骨を渡した。
 資源の回し方が匂いの回り方と同じだけ滑らかだ。

「夕刻、心具屋だな」

「ツヅラも来ると言っていた」

「鼻に嗅がれに行くのか、俺たちは」

「嗅がれに行こう」

 笑って、二人は腰掛けから立ち上がった。
 通りの拍がひとつ、ふたつ――街の大きな胸が呼吸するみたいに動く。
 匂い札が風に揺れ、擦り木に擦られる肩と頬の音が、ぱさぱさと近くで鳴る。
 獣人の国の生活は、目で見るより先に、鼻と皮膚で「分かる」。その感覚が、旅の疲れに新しい血を通す。
 ツヅラ御前。匂いの秤を持つ女。
 あの金の瞳の下で、こちらの“混じり”は、どの皿にどれほど乗るのか。
 ――それを思うと、不思議と胸が軽くなった。怖れはある。
 だが、嗅ぎ分けを正面から受け、こちらの鼻と目で返すのは、嫌いではない。

「グラド」

「なんだ」

「匂いに律される街で、心の器を探す。今日の拍は、良い日を引いてる気がする」

「旅に“拍”を持ち出すとはな。……悪くねぇ」

 二人は路印の香を確かめるように腕をきゅっと締め直し、午後の拍へ足を合わせて歩き出した。
 灰牙の長屋へ戻って荷を整えたら、心具屋へ。
 鼻が効く街は、こちらにも“嗅ぐ覚悟”を求めてくる。
 鼻と秤――その真ん中で、求める器の輪郭が、少しずつ、匂いになって近づいてくる気がした。
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「クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました」 気がつけば、クラスごと異世界に転移していた――。 しかし俺のステータスは“雑魚”と判定され、クラスメイトからは置き去りにされる。 「どうせ役立たずだろ」と笑われ、迫害され、孤独になった俺。 だが……一人きりになったとき、俺は気づく。 唯一与えられた“使役スキル”が 異常すぎる力 を秘めていることに。 出会った人間も、魔物も、精霊すら――すべて俺の配下になってしまう。 雑魚と蔑まれたはずの俺は、気づけば誰よりも強大な軍勢を率いる存在へ。 これは、クラスで孤立していた少年が「異常な使役スキル」で異世界を歩む物語。 裏切ったクラスメイトを見返すのか、それとも新たな仲間とスローライフを選ぶのか―― 運命を決めるのは、すべて“使役”の先にある。 毎朝7時更新中です。⭐お気に入りで応援いただけると励みになります! 期間限定で10時と17時と21時も投稿予定 ※表紙のイラストはAIによるイメージです

スキルはコピーして上書き最強でいいですか~改造初級魔法で便利に異世界ライフ~

深田くれと
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【文庫版2が4月8日に発売されます! ありがとうございます!】 異世界に飛ばされたものの、何の能力も得られなかった青年サナト。街で清掃係として働くかたわら、雑魚モンスターを狩る日々が続いていた。しかしある日、突然仕事を首になり、生きる糧を失ってしまう――。 そこで、サナトの人生を変える大事件が発生する!途方に暮れて挑んだダンジョンにて、ダンジョンを支配するドラゴンと遭遇し、自らを破壊するよう頼まれたのだ。その願いを聞きつつも、ダンジョンの後継者にはならず、能力だけを受け継いだサナト。新たな力――ダンジョンコアとともに、スキルを駆使して異世界で成り上がる!

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