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本編
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冬彦は時間をかけてまずいコーヒーを飲み干し、店を出た。会計は当然のように梨華のおじが済ませている。
身体にまとわりつく煙草の臭いは、冬彦を冬彦以外の何ものかにしてしまったような錯覚すら抱かせる。それでも、ときどき風が服を撫で、その臭いが鼻孔を刺激する不快感を覚えるたび、嗅覚が麻痺していないことに安堵した。
スーツスタイルに合わせて後ろに撫で付けた髪を嘆息混じりにかきあげる。
どこかに寄る気にもなれず、ぶらぶらした後で指定された待ち合わせ場所に向かった。
向かう途中、スマホを手にしてあゆみにメッセージを送る。
【今日はそっちに行けない。また連絡する】
仕事中なのだろう、あゆみからの返事はなかった。
梨華は約束の時間の十五分以上前に来た。
自分が先に来ているつもりだったのだろう、冬彦を見つけて目を丸くする。
マスカラで放射状に広がったまつげに、思わず感心する。
もう取り繕う気もない冬彦は、腕組みをして柱に寄り掛かったままで梨華を迎えた。
「えー、小野田さん、早い」
「時間潰す場所がなくてね」
「あはは」
皮肉めいた笑顔を口元に浮かべ、冷たい目で梨華を見やる。
「小野田さん、無愛想」
「だって、もう必要ないでしょ。断ったんだから」
「つれないこと言わないで~」
梨華は明るい声で笑いながら、首を傾げた。
柔らかい巻髪が揺れるとともに、ふわりと甘い香りが広がる。
冬彦は一瞬、息を止めた。
「お話、しましょう。どこがいいですか? レストラン? バー? それとも……ホテル?」
梨華の大きな目が、駅の明かりを受けて変に輝いて見える。
冬彦は目を反らし、どうぞご自由に、と答えた。
* * *
冬彦はスラックスのポケットに手を突っ込んだまま、梨華に促されて歩き出す。
冬彦の肘に手を添えようとした梨華の手をかわすと、梨華は器用にも口の端を上げたまま、唇を尖らせた。
「ちょっとくらい、甘えさせてくださいよ」
「断る」
「やーだ、ほんとに今夜はそんなモードなんですか?」
冬彦は息を吐き出して梨華を見た。身長差があるので自然、見下ろす形になる。それでも梨華はまっすぐに冬彦を見つめてきた。その目に、色恋とは異質な熱情を見て取り、冬彦は眉を寄せる。
嫌な予感、がずっと付き纏っていた。
梨華はまた笑って、前を向く。
走り去る車のライトが、梨華の顔を撫でて行った。
「小野田さん、もう決めた人がいるんですって?」
冬彦は梨華の横顔を見て、ポケットの中の手を軽くにぎりしめる。
「中学校の、先生だとか」
「興信所でも使ったか」
「ふふ」
梨華は笑って、冬彦の肘に手を添え、胸元に抱き寄せた。
冬彦はその手を払うことなく、黙って梨華を見下ろす。
「ご自由に、って言ったわ」
囁くような梨華の声は、不気味な響きをもって冬彦の耳に届いた。
「ーー一度だけ、抱いて。そしたら忘れてあげる」
冬彦は舌打ちをして、腕を振り払おうとポケットから手を出す。梨華はそれより前に笑って自分から手を解き、後ろに数歩、離れた。
かばんの中から小さな細長いものを取り出し、ちらつかせる。
「中学生って、結構難しい時期よね」
梨華の声は楽しげだったが、冷たさを孕んでいた。
「婚約中でもない未婚の先生が、夜になるとずいぶん……なのって、生徒や親が知ったらどうなのかしら。イメージダウン?」
冬彦の背筋を冷たい汗が伝った。
「……脅す気か」
「脅しになるのかしら。別に先生も小野田さんも、悪いコトをしてる訳じゃないもの。若いからお盛んねって、笑い話で終わるかどうか、私だってわからない」
にこにこと温度の感じられない笑顔を浮かべる梨華を見下ろし、冬彦は舌打ちをする。
「聞いてみる? なかなかの臨場感よ」
「……悪趣味な」
「窓を開けたままいちゃついているからよ」
冬彦は苦り切った顔で下唇を噛み締める。目を反らす。道端のネオンライトが示すその建物の用途は明確だった。
息を吸う。吐く。腰の横で拳を握る。
梨華はボイスレコーダーをかばんにしまい、一歩冬彦に近づいた。
「一回だけ。ね? 安いものでしょ?」
冬彦の手を掴んだその指は、夏と思えないほどに冷えている。
「感じてみたいの。小野田さんみたいな人に愛されたら、どんな風なのか」
冬彦は舌打ちした。
「……それで、本当に、諦めるんだな?」
腹の底に力を込めて、梨華を睨みつける。
梨華は軽やかに笑って、頷いた。
「私を抱いても彼女がいいっていうなら、そうするわ」
身体にまとわりつく煙草の臭いは、冬彦を冬彦以外の何ものかにしてしまったような錯覚すら抱かせる。それでも、ときどき風が服を撫で、その臭いが鼻孔を刺激する不快感を覚えるたび、嗅覚が麻痺していないことに安堵した。
スーツスタイルに合わせて後ろに撫で付けた髪を嘆息混じりにかきあげる。
どこかに寄る気にもなれず、ぶらぶらした後で指定された待ち合わせ場所に向かった。
向かう途中、スマホを手にしてあゆみにメッセージを送る。
【今日はそっちに行けない。また連絡する】
仕事中なのだろう、あゆみからの返事はなかった。
梨華は約束の時間の十五分以上前に来た。
自分が先に来ているつもりだったのだろう、冬彦を見つけて目を丸くする。
マスカラで放射状に広がったまつげに、思わず感心する。
もう取り繕う気もない冬彦は、腕組みをして柱に寄り掛かったままで梨華を迎えた。
「えー、小野田さん、早い」
「時間潰す場所がなくてね」
「あはは」
皮肉めいた笑顔を口元に浮かべ、冷たい目で梨華を見やる。
「小野田さん、無愛想」
「だって、もう必要ないでしょ。断ったんだから」
「つれないこと言わないで~」
梨華は明るい声で笑いながら、首を傾げた。
柔らかい巻髪が揺れるとともに、ふわりと甘い香りが広がる。
冬彦は一瞬、息を止めた。
「お話、しましょう。どこがいいですか? レストラン? バー? それとも……ホテル?」
梨華の大きな目が、駅の明かりを受けて変に輝いて見える。
冬彦は目を反らし、どうぞご自由に、と答えた。
* * *
冬彦はスラックスのポケットに手を突っ込んだまま、梨華に促されて歩き出す。
冬彦の肘に手を添えようとした梨華の手をかわすと、梨華は器用にも口の端を上げたまま、唇を尖らせた。
「ちょっとくらい、甘えさせてくださいよ」
「断る」
「やーだ、ほんとに今夜はそんなモードなんですか?」
冬彦は息を吐き出して梨華を見た。身長差があるので自然、見下ろす形になる。それでも梨華はまっすぐに冬彦を見つめてきた。その目に、色恋とは異質な熱情を見て取り、冬彦は眉を寄せる。
嫌な予感、がずっと付き纏っていた。
梨華はまた笑って、前を向く。
走り去る車のライトが、梨華の顔を撫でて行った。
「小野田さん、もう決めた人がいるんですって?」
冬彦は梨華の横顔を見て、ポケットの中の手を軽くにぎりしめる。
「中学校の、先生だとか」
「興信所でも使ったか」
「ふふ」
梨華は笑って、冬彦の肘に手を添え、胸元に抱き寄せた。
冬彦はその手を払うことなく、黙って梨華を見下ろす。
「ご自由に、って言ったわ」
囁くような梨華の声は、不気味な響きをもって冬彦の耳に届いた。
「ーー一度だけ、抱いて。そしたら忘れてあげる」
冬彦は舌打ちをして、腕を振り払おうとポケットから手を出す。梨華はそれより前に笑って自分から手を解き、後ろに数歩、離れた。
かばんの中から小さな細長いものを取り出し、ちらつかせる。
「中学生って、結構難しい時期よね」
梨華の声は楽しげだったが、冷たさを孕んでいた。
「婚約中でもない未婚の先生が、夜になるとずいぶん……なのって、生徒や親が知ったらどうなのかしら。イメージダウン?」
冬彦の背筋を冷たい汗が伝った。
「……脅す気か」
「脅しになるのかしら。別に先生も小野田さんも、悪いコトをしてる訳じゃないもの。若いからお盛んねって、笑い話で終わるかどうか、私だってわからない」
にこにこと温度の感じられない笑顔を浮かべる梨華を見下ろし、冬彦は舌打ちをする。
「聞いてみる? なかなかの臨場感よ」
「……悪趣味な」
「窓を開けたままいちゃついているからよ」
冬彦は苦り切った顔で下唇を噛み締める。目を反らす。道端のネオンライトが示すその建物の用途は明確だった。
息を吸う。吐く。腰の横で拳を握る。
梨華はボイスレコーダーをかばんにしまい、一歩冬彦に近づいた。
「一回だけ。ね? 安いものでしょ?」
冬彦の手を掴んだその指は、夏と思えないほどに冷えている。
「感じてみたいの。小野田さんみたいな人に愛されたら、どんな風なのか」
冬彦は舌打ちした。
「……それで、本当に、諦めるんだな?」
腹の底に力を込めて、梨華を睨みつける。
梨華は軽やかに笑って、頷いた。
「私を抱いても彼女がいいっていうなら、そうするわ」
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