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.第2章 猫かぶり紳士の苦悩

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 遠くで足音が聞こえる。
 誰かが来たんだろうか。
 何かあれば呼んでくれ、と言って出たことを思い出す。
 となれば、何かあったのかもしれない。
 ――起きなくては。
 そう思うのに、身体は金縛りにあったように動かない。
 おかしいな、前まで、どれだけ働いてもこんなに疲れはしなかったのに。
 腕組みをして脚を椅子上に投げ出したまま、嵐は夢うつつで自嘲する。
 三十になって、体力が落ちてきているのか。
 そういえば、最近運動もできていないし、その気力もない。
 俺はこのまま、年老いていくのか。
 そんなことを思ったとき、ふわっ、と甘い香りが漂った。
 誰かいる。
 でも、男じゃない。
 ……誰だ?
 知っている匂いだ。柔らかで甘くて。嵐志の好きな匂い。
 落ち着く。
 ……誰の、だったか……
 ゆっくりと、目が開いていく。ぼんやりとした視界の中に、丸くて白い光が見えた。
 まばたきすれば、それが人の顔だとわかる。
 目の前に菜摘が立っている。
 さっきまで、夢に見ていた人。
 夢かな、と唇を動かせば困ったように笑われた。

「すみません、起こしちゃいましたか?」

 気遣うような優しい声。
 小鳥みたいなかわいい声。
 夢じゃ、ない?
 ……現実?
 がさついていた心が急に潤っていく。
 目の前に菜摘がいる。話したかった人が。会いたかった人が。
 ……触れたくて、たまらなかった人が。
 ずぐりと、身体の芯が疼いた。反射的に椅子から脚を下ろす。

「神南さんが疲れてるから、顔見せに来てやってくれ、ってこーちゃん……青柳くんが」

 こーちゃん。こーちゃんな。
 こーちゃんなんて呼ばれやがってあいつ後でシメる。
 心の中で決意しながら、菜摘を見上げる。
 菜摘が気遣うように顔を覗き込んできた。

「疲れた顔、してますね。大丈夫ですか? 家にもほとんど帰ってないって聞いて……心配で」

 白くて丸くてふわふわな肌が目の前にある。
 白玉団子みたいでおいしそうだ。
 喉の渇きを癒すように、嵐志は唾液を飲み込んだ。
 そんなに近づいたら駄目だよ、今の俺は紳士ではいられないのに。
 心の中ではそう言うけれど、口にはしない。
 ずるいのは自覚している、けれど今は、補充したい。

「あ、あの。すみません、この前。私、なんかいろいろ、失礼なことを」

 嵐志の沈黙を勘違いしたのか、菜摘は慌てたように頭を下げた。
 こないだ? ……何か謝られるようなことがあったっけ?
 記憶にあるのは、自分の不甲斐なさだけだ。あまりの愛おしさに追いかけられなかったこと。翠に呆れられ、なじられたこと。
 菜摘に謝られるようなことは何もなかった、ような気がする。

「わ、私、ほんと、今でも夢みたいだと思ってるんです。神南さんとつき合えるなんて、分不相応っていうか、つき合えるだけで充分幸せなことだなって。それこそ、セカンドでもサードでも」

 ……野球の話でもしてたか?
 動かない頭がますます混乱していく。
 菜摘は一方的に話して、少し落ち着いたらしい。眉じりを下げたまま微笑んで、まっすぐに嵐志を見つめた。

「とにかく、すみませんでした。明日からの出張、がんばってくださいね。あっ、がんばりすぎて欲しくはないんですけど、でもせっかくがんばった分の成果はあるといいなっていうか。とにかく、上手くいくよう祈ってます、私には祈るくらいしかできないけど……」

 ひとりで話している間にも、その表情はころころ変わる。後で揺れるポニーテールが、嵐志の心をくすぐる。
 たまらなくなり、手を伸ばした。

「そんなことないよ」

 引き寄せると、菜摘は小さな悲鳴と共にあっさり腕の中に収まった。
 半ば夢心地のまま、柔らかな身体を抱き締める。

「こうできるだけでも……満たされる」

 控えめに言って最高の抱き心地だ。
 夢にまで見た甘い香り。
 ふわふわの髪を手繰り寄せ、願望通り鼻をうずめて思い切り深呼吸する。
 変態だと言われようとなんだろうとどうでもいい。
 今はこの子を存分に堪能したい。
 菜摘の小さな手が、ためらいがちに、嵐志の背中に回った。
 手が回り切らない抱擁がまた、たまらなく嵐志の気持ちを掻き立てる。
 しばらく抱きしめ合っているうち、菜摘はもぞもぞと動いた。

「あの……何か、できること、ありますか……?」
「できること?」
「はい。できること……私にできることなら、なんでもします」

 真っ直ぐ嵐志を見つめる丸い目。紅潮した頬。柔らかそうな唇は、決意を秘めてきゅっと引き結ばれている。
 ろくに働かない脳内がざわつく。
 何でも? ほんとに?
 じゃあ、ここで君をドロドロに融かして味わい尽くしてもいい?
 喉元までそう出かけて、唾と一緒に飲み込んだ。ごくりと喉仏が音を立てる。
 ――いや、それはまずかろう。さすがに――ここは、会社なのだし。

「あの……神南、さん?」

 戸惑ったような声に、もう一度強く抱きしめる。
 目を閉じると、菜摘の心臓の音が身体に響いてきた。どきどきと早足で奏でられるリズム。ちょっと緊張した身体。浅い呼吸。
 その一つ一つが、嵐志にときめいていると分かる。
 菜摘の存在が、一気に嵐志を満たして、同時に飢えを自覚させた。
 飢えている自覚はあったが、ここまで乾いていたとは。
 ふっ、と口元に笑みが浮かぶ。
 軋んでいた思考回路はようやくスムーズに動き始めた。

「……せっかく……我慢してたのに」

 囁くと、腕の中で菜摘がふるりと震えた。
 目の前で揺れるリスのしっぽに、吐息のように話しかける。

「それじゃあ……癒して、くれる? 俺のこと」

 今の自分は捕食者の目をしているに違いない。
 少なくとも、会社で見せている紳士的な姿ではないはずだ。
 怖がるだろうか。嫌がるだろうか。思いながら腕の中の菜摘を見つめると、丸い目はためらわず嵐志を見上げた。
 菜摘は真っ赤な顔をして、首を縦に振る。
 ほとんど震えるみたいな小刻みな振り方だ。
 動きがいちいちチマチマしくて、嵐志を煽っていることに、この子は気づいているんだろうか。
 狙ってやっているんだとしたら、これから先も、嵐志はこの子の思うがままなのだろう。

「……それなら、遠慮なく……」

 満たしてもらおうかな。
 そう呟いた嵐志の腕の中で、菜摘はどこか期待するような眼差しを向けてきた。
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