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.第3章 食べられ方のお作法

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 サロンの予約が取れたという翠からの連絡を受けて、二人で出かけることにしたのは翌週末。
 嵐志とは違う意味での、憧れの人とのデートだ。手持ちの服を広げてああでもないこうでもないと組み合わせを考えていたら、ギリギリの時間になってしまった。
 待ち合わせは十二時半、サロンの最寄り駅の改札前だった。
 というのも、翠から、

「サロンの予約は午後からなんだけど、もしよければその前に合流して、一緒にランチでもどう?」

 と提案されたからだ。
 憧れの人からそんな風に言われて断るわけもない。一も二もなくうなずいて、こうして待ち合わせ時間が決まった。
 空はすっきり晴れていて、いい天気だった。急ぎ足で駅まで着くと、少し汗ばむ陽気だ。
 待ち合わせた駅は、菜摘が今まで乗り換えでしか使ったことのない街だった。おしゃれなセレブ御用達、のイメージが強い中、自分の格好が浮いていないかとそわそわする。
 翠からは、電車が遅れてギリギリになりそうだと連絡があった。一応、五分前に着いた菜摘は逆にほっとして、ごゆっくり、と返事を送った。
 待ち合わせ時間をやや過ぎた頃、改札から出て来る人波の中にすらりとした長身の姿が見えた。

「ごめんねー! ちょっと遅刻かな。待たせちゃった?」
「だ、大丈夫ですっ」

 菜摘は緊張しながら答えた。
 翠のオフショットは初めて見る。服はVネックニットにテーパードパンツとシンプルだが、仕事のときと同じ形、ポインテッドトゥのエナメルイエローのパンプスと、同系色の黄色のポシェットが効いている。
 いつものピシッとしたスーツ姿とはまた違う魅力があって、気さくで素敵なお姉さん、という印象だ。

「百合岡さんって、やっぱり、オシャレですね……」
「ええ? そう? 原田さんだってかわいいよ」

 翠は言って、身体をかがめた。

「もしかして、私とのデートでちょっと気合い入れてくれた?」

 いたずらっぽく顔を覗き込まれて、あいまいにうなずく。
 新調するまでには至らないものの、どうしようか首をひねっていたのは確かだ。結局、当たり障りのない小花柄のワンピースと、気に入っているレモン色のカーディガンを羽織って済ませてしまったけれど。
 翠のいい香りが鼻先を漂って、その近さに顔が赤くなるのが自分でも分かった。

「あはは、やだ、かわいー」

 じゃあ行こう、と翠は菜摘の肩をたたいて歩き出した。安定したヒールの音が菜摘の前を進んでいく。
 駅を出ると、イメージ通りおしゃれな街並が広がっていた。無機質なビルもおしゃれに見えるのは、そのエントランスや中庭が見えるからだろうか。
 黙って翠について行くと、少し背の低い建物が並んだ通りまで出た。色を統一してあるのか、シックな色合いの店が並んでいる。セレクトショップ、ブティック、という類いの店が多いようだ。
 美味しそうなパン屋やスイーツショップもある。
 思わずきょろきょろ見回す菜摘に、翠は微笑んだ。

「ここ、あんまり来たことない?」
「あ、はい。この駅で降りたの初めてで……おしゃれな街ですね」
「あー、統一感あるよね。ごちゃっとしてないっていうか」

 翠はうなずいて前を向いた。その姿は街に馴染んでいるように見える。

「百合岡さんは、よく来るんですか?」
「んー? 私もそんなにこの辺に詳しいわけじゃないよ。たまたま、最近続けて来たから……それにしても」

 翠はふふっと肩をすくめて、困ったような笑顔で菜摘を見た。

「その、百合岡さん、ての、やめない? 呼びにくいでしょ。翠でいいよ」
「えっ、で、でも……」

 動揺する菜摘に、翠はひらひら手を振る。

「いいの、いいの。私も下の名前で呼ばせてもらうから。原田さんは……」
「な、菜摘です」
「菜摘ちゃん。ね。オッケー」

 言ってから、翠は首を傾げた。

「それとも、こういうノリ苦手? それなら――」
「だっ、大丈夫ですっ」

 むしろ大歓迎です、と心の中で答えながら、ぶんぶん首を振る。
 ぐっとお腹に力を入れて、翠を見上げた。

「そ、それじゃ……み、翠……さん」

 気恥ずかしさにうつむくと、一瞬の間。
 何かしでかしたかと上げかけた顔は、翠のいい匂いに覆われた。

「かーわいい!」

 菜摘は突然の抱擁にうろたえる。
 い、いい匂い!
 あったかい!
 やわらかい!
 こんな幸せでいいんだろうか。いったいなんのご褒美だろう。神様ありがとう――
 心の中で感謝を捧げているうち、翠はすっと身体を離した。

「ふふー。妹ができたみたいな気分だわぁ。みんながかわいがってるのも分かる」

 ぽふぽふと、頭を撫でられたと思いきや、翠がはっと目を輝かせた。

「うわ! 嵐志くんが言ったとおり! ふわっふわ! ふわっっふわ!!」

 会社のときにはポニーテールにしている髪は、今日はハーフアップにしている。肩周りに泳ぐ癖っ毛を、翠がじゃっかん息を荒げて撫でてきて、なんだか犬にでもなった気分だ。
 気恥ずかしさと困惑で身動きができないでいると、「あっ、ごめん」と手を引かれた。
 菜摘は気になった言葉をおずおずと繰り返す。

「……神南さんが言ってた……?」
「あっえっと、それはその。気にしないで」

 さあ行こう、と翠が笑って歩き出す。菜摘はそれについて行きながら、何だったんだろうと考えていた。
 そういえば、会社での短い逢瀬のとき、嵐志が髪に顔を寄せてきたことがあった。
 ――神南さんは、髪フェチ?
 そうなのかもしれない。それなら、今度は美容室にも行っておこう。
 ひとり納得した菜摘の前で、翠が立ち止まった。

「着いた」

 「ここだよ」と示されたのはレンガ造りの小さなビルだ。

「小さいけど、レストランカフェなの。量は少ないから女子向きなんだけど、美味しいんだ」

 ついて行くと、一階のカウンターでオーダーし、二階で食事を摂るようになっているらしい。メニューもミートパイやキッシュなど、おとぎ話にでも出て来そうな食べ物が並んでいる。
 内装は木作りで、二人がけの机も一人分かと思うほど小さい。壁にはちょこちょこ小さなディスプレイが並んでいた
 全体的にかわいらしいお店で、翠のイメージからすると意外な気がする。
 木の形をそのまま生かして作られたような椅子に、菜摘がちょこんと座ると、満足げに翠が笑った。

「うーん、似合ってる!」
「え?」
「はいはい、こっち見て。ちーず」

 きょとんとする菜摘を写真に収め、翠はスマホをタップした。

「今度、嵐志くんに自慢しちゃお」
「えっ、えぇ?」

 まさかそう来るとは。自分はどんな顔をしていただろうと慌てる菜摘に、翠は楽しげに笑っている。

「実はね、このお店、嵐志くんが気になる、って言ってたんだよねー。内装とかかわいいみたいって。俺みたいな図体デカいのが行ったら変だろうし、お前様子見てきてよ、って言われてさ。いい感じだったら菜摘ちゃんを誘うつもりだったんだろうなーって思って……ふふふ、私が先に誘っちゃったー」
「えっ……えっ?」

 まさか嵐志のチョイスとは、ますます意外でまばたきする。翠はけらけら笑った。

「あ、意外? 結構あの人、こういうの好きなんだよ。ほら、バレンタインデーのチョコレートとかでさ、あるじゃない、動物の形したチョコとか。ああいうの、可哀想だから食べられないって言って、秘書室に流れて来んの」
「そ……そうなんですか……」

 嵐志のその反応にはときめくものがあるけれど、誰にもらったのかと考えると複雑な気分だ。菜摘が曖昧にうなずくと、翠は首を傾げた。

「あ、やっぱ気になる? 誰にもらってたのか、とか」
「……まあ、その……」

 気になる、けれど、あの容姿で、あのスマートな振る舞いで、仕事もできて……モテないはずもない。
 菜摘はうつむいて、でも、と口にした。

「神南さんは、素敵な人なので……そもそも、私がこ……恋人になれるだなんて、ほんと思ってなくて……今でも、奇跡みたいというか、夢みたいというか……」
「うーん?」

 翠がまばたきして、首をかしげた。
 仕事ではつけないのであろう、大きなピアスがきらりと揺れる。

「気にしなくていいと思うよ。あの人、基本的には他人に無関心だから」
「え?」

 意外な評に、菜摘はまばたきした。あの紳士的な態度を見るに、そうは思えない。
 翠は笑って両手を広げる。

「まー、何もしなくても人が寄って来るっていうのはあるだろうけどね。嵐志くんて、特定の人にしか関心持たないタイプ。そんで、菜摘ちゃんにはすーーーーっっごく、関心持ってるから、やっぱ別枠なんだと思うよ」

 すーーーーっっごく、のくだりが過剰に思えるけれど、そうなのだろうか。
 ……それだったら。

「……もし……そうなら、嬉しいです……」

 照れてうつむいたとき、翠が「うはっ」と胸を押さえた。首を傾げて見やると、顔を逸らした翠がひらひら手を振っている。

「なんでもない、なんでもない……ちょっとときめいただけ」

 今のやりとりでときめく要素が分からない。とりあえず、はあ、と答えた。
 そこに、木のプレートに載ったランチが運ばれてきた。
 こまごまと盛り合わされているのは、季節の野菜を中心にしたオードブルとキッシュ。翠はミートパイだ。
 一口サイズのデザートまで載っていて、大変菜摘好みな盛り付けだ。

「ふわぁ。美味しそう。かわいい」

 目を輝かせて頬を押さえた菜摘は、ぴこんという音を聞いて顔を上げた。にっこり笑った翠が「あ、気にしないで」とスマホをしまう。

「あの……そんなに何枚も、なんのために……?」
「そりゃ、交渉材料……じゃない、ほら、ときには嵐志くんのヤル気を掻き立てるようなものが必要だからさっ」

 翠が口にしかけた言葉に、なんとなく不穏な気配を感じたが、深く聞かない方がよさそうだ。
 そう判断して、菜摘は「いただきます」と手を合わせた。

「っん、おいしー!」

 一口食べるごとに、うまうまと頬を押さえて幸せに浸る。
 そんな菜摘は、なにやら翠のツボに入ったらしい。
 「餌付けしたくなる……」「こっちも食べていいよ……」とあれこれ世話を焼いてくれるので、菜摘は恐れ多くもお言葉に甘えた。
 キッシュもミートパイもとても美味しい。ほくほくと頬がほころぶ。

「はぁ。ほんと、嵐志くんの気持ち、わかるわー」

 翠がもの思わしげなため息をつく様はやたらと色っぽい。
 何のことだろうと菜摘が目を丸くすると、翠はふふっと笑った。

「かわいすぎて食べちゃいたいくらいだって」
「た、食べ……」

 ぱっ、と菜摘はまた、顔が熱を持つのを感じる。
 思い出したのは、会議室での嵐志の熱い視線だった。
 翠は「おっ」と笑った。

「おやおや。キミ、『食べちゃいたい』の意味、分かってるね?」

 うろたえている菜摘に、翠は嬉しそうに身を乗り出す。
 食後の紅茶を飲み干すと、よしっと立ち上がってウインクをした。

「それなら、いい店を教えてあげよう。師匠について来なさい」
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