31 / 37
.第5章 ふたりのこれから
..01
しおりを挟む
週明け、始業三十分前に出勤すると、珍しく部下たちが顔をそろえていた。
嵐志が入って来たことに気づくと、部下たちがはっと顔を上げる。
「おはようございます! 金曜日、大丈夫でしたか?」
気遣わしげに問われて、嵐志は「ああ」とあいまいに答えた。
慌ただしく残業を抜け出したから、彼らも気がかりだったのだろう。
「突然帰って悪かったな。大丈夫だったか?」
「全っ然、大丈夫です!」
「問題ナシですっ!」
部下たちはぶんぶん首を横に振りながら答える。
嵐志は微笑んで、「そうか、ありがとう」と口にした。
いつもと変わらない態度を取ったつもりだが、部下たちは何故か顔を見合わせた。
「なんか、良かったです。リフレッシュできたみたいで……」
「ああ……まあ、そうかもな」
金曜から土曜にかけ、存分に菜摘を堪能した嵐志は、いつもよりも心身が軽い。
やはりかわいいものを愛でるのは最高の健康療法だ。
ひとり満足している横で、ちょいちょい、と部下に袖を引かれた。
「課長、課長。……それで、その……」
「ああ、なんだ?」
問い返すと、しばらく「お前が言え」と互いに小突き合っていた部下たちが、少年のような目で見上げてくる。
「週末……原田さんに会いました?」
「例のあれ、着てもらえたんすか?」
あまりに期待に満ちたまなざしに、嵐志はそっと目を逸らした。
着てもらえたかと言われれば、そりゃあ着てもらったに決まっている――恋人に願い事を聞いてもらうくらいの話術がなくて営業が勤まるか。
そう思ったが、口にはしない。
ベビードールを着た菜摘――いつだか求められていた「感想」については黙秘権を行使することにして、短く答えた。
「……どうだろうな」
「ええええーっ!?」
「教えてくんないんすか!」
「ほら、仕事だ仕事。先週までの報告書、まとめて上にかけるからよろしくな」
部下たちの泣き言を聞き流しながらデスクにつく。
「えー、えー。でもそれって、その反応って、やっぱり着てくれたってことじゃないんすか?」
「どうだったんすか? 課長ー」
「しつこいぞ。席につけ。仕事をしろ」
なおもすがりついてくる部下をあしらい、嵐志はパソコンを立ち上げながら思い出していた。
――どうだったか。
素直に答えるとしたら――控えめに言って最高だった。
ふわふわの白いベビードールは、菜摘のややふくよかな身体を上品に隠しつつ、華奢な手脚を引き立てていて――そう、膝上十センチというのがまた絶妙だった。小柄な菜摘にはミニスカート丈で、品性は保ちつつも、下着なしに身につければ、大事なところがちらちらと見える煽情的な要素もあって。
その点については、菜摘が起きる前に下着を回収し、洗濯しておいた自分の仕事の速さを褒めたい。やっぱり物事はなにごとも段取りが大事だ。
前夜に相当に愛でたから、さすがに手加減しようと思っていたのだが、結局全然歯止めが効かなかった。それもあのベビードールのせいだ――いや、菜摘のかわいらしさとの相乗効果か。
とにかく、嵐志には抗えない魅力があって、朝のうちから菜摘を抱きしめて撫でてキスをしていたはずなのに、気づいたら日が暮れかけていた。
その頃、さすがに菜摘が「おなかすいた」と泣き始めて、慌ててデリバリーピザを頼んだものの(それもまた少女めいたかわいさがあった)、ベビードール姿で頬いっぱいにピザを頬張る菜摘がかわいくないわけもなく、「君は食べてていいから」と言って嵐志は菜摘に触れ続け――
手と舌の皮膚が菜摘の皮膚に塗り込まれてしまうのではないかというくらい存分に、菜摘を堪能した。
翌朝、渋々車で家に送り届けた菜摘は、どこかほっとしていたように見えた気もするが、今は気にしないことにしている。
そんなこんなで、嵐志は初めて思ったことがある。
――これは、翠にお礼を言わなければ。
今まで、一度として、一瞬たりとも、彼女に感謝したことはない。が、、ことこの件に限っては、主義を曲げるだけの価値がある。そう思った。本気で思った。だから今日は翠に声をかけようと決めている。
人づきあいにおいて、感謝と謝罪は早く伝えるに限る。ついでにどこのランジェリーショップで買ったか教えてもらって、菜摘と一緒に選びに行こう。
今まで、元カノに半ば強引に連行された居心地の悪い思い出しかしたことがなかったそこも、自分にはもう、宝の山と見えるのではないか――
頭の片隅でそんなことを考えながらも、仕事の段取りは忘れない。嵐志はタタンとキーボードを叩いて、出力した資料を手に立ち上がった。
「ちょっとこの資料、秘書室に持って行ってくる。みんな、正午までに報告書メール頼むぞ」
「はーい」
「了解でーす」
部下たちに声をかけて歩き出す。向かう先は、翠のいる秘書室――いや、その前に菜摘の顔を見て行こう。
非常階段のドアを開け、自分の靴の音を聞きながら上階へと歩き出す。
テナントビルのうち、嵐志たち営業は三階、菜摘のいる総務や労務が四階、そして五階が社長・秘書室と会議室だ。
一階分の階段を上がった嵐志は、一度廊下に戻って総務のドアから中を覗いた。
「おはようございます。わー、ありがとうございます!」
菜摘の声がして足を止める。日曜の朝には家に帰したので、丸一日、空いたはずだが、まだ声がかすれて聞こえた。
菜摘は嵐志の方に背を向け、隣の社員と話している。どうも、お菓子をもらったらしい。
初めて見る菜摘のデスクの片隅には、たんまりとおやつが置かれている。
誰も彼も餌付けしようとしている――という話は本当らしい。
「あれ? 菜摘ちゃん、声かすれてるね。もしかして風邪?」
「えっ? だ、大丈夫ですっ、ちょっとあの、口開けて寝てたのかもしれません」
「そっか、気をつけてねー」
「は、はいっ」
コピー機の方へ向かいかけた菜摘が、視線を感じたのかこちらを振り向いた。目を丸くして、わたわたし始める。
嵐志は微笑み、軽く手を挙げた。
菜摘は弛む頬を引き締めようとするように変な形に唇を歪めて、うつむきがちにちょこまかと出てきた。
そのまま、二人で非常階段へと入る。
「ど、どうしたんですか? 総務に来るなんて珍しい……」
「いや。……元気かなと思って」
嵐志が顔を覗き込むと、菜摘の顔は耳まで真っ赤になってこくこくうなずいた。
「あっ、は、はい! 元気だけが取り柄なんで!」
――そういう意味じゃないんだけどな。
拳を握った姿が可愛くて、思わず笑う。
声は確かに少しかすれているけれど、身体は大丈夫そうだ。
――つまり、二晩までは行けるな。
無意識にそんな算段をつける嵐志の脳内を知るよしもなく、菜摘はうつむきがちに話し始めた。
「今度は……あんな、寝たきり状態にならないように、体力つけておきます」
一瞬、何のことか分からずきょとんとした。
菜摘はうつむいたままで、見えるのはつむじと真っ赤な耳だけ。
意味を理解したとたん、嵐志は思わず噴き出した。
「別に、いいのに。寝たきりでも」
力の抜けきった彼女を介抱するのも恋人の喜びだ。
そう心中で付け足したが、菜摘は「えっ!?」と顔を上げた。
「い、いや、ダメでしょう! ダメですよそんなの……」
「なんで? 俺がいいって言ってるのに」
「だ、ダメですっ、あら……神南さんにそんなこと、させるわけには」
場所が場所だからか、苗字呼びに改めてくれたが、会話の内容が内容だ。そもそも他人に聞かれたくはない。
嵐志は上体を曲げて、「むしろ」と耳元で囁いた。
「俺は大歓迎だよ」
耳に吐息がかかったのか、菜摘はぴくんと震えた。
両手で胸を押さえて、潤んだ目で上目遣いに見上げてくる。嵐志はその姿を見下ろしながら微笑んだ。
「てっきり……もう少し加減しろって言われるかと思ってた」
菜摘はこれ以上ないくらい真っ赤な顔をしたまま、震えるように首を横に振った。
「そんなの……しなくて、いいです」
菜摘は手で顔を隠すようにしながら、かき消えそうな声で続けた。
「だって……すごい、想われてるの、分かったから……」
幸せ、でした。すごく。
菜摘の囁くような言葉が、嵐志の心に沁みていく。
――ああ、この子なら、大丈夫かもしれない。
身体の奥があたたかい感情で満たされていく。
心のどこかに残っていた不安が、砕けて霧散した。
「そっか。でも……無理なときには、無理って言ってね。……手加減できるかは分からないけど」
菜摘はうつむきがちなまま、こくこくこく、といつも通り小刻みにうなずく。
その身体を抱きしめたい衝動を、拳を握ってやり過ごした。
嵐志はこの甘く優しい時間が、愛おしくてたまらない。
嵐志が入って来たことに気づくと、部下たちがはっと顔を上げる。
「おはようございます! 金曜日、大丈夫でしたか?」
気遣わしげに問われて、嵐志は「ああ」とあいまいに答えた。
慌ただしく残業を抜け出したから、彼らも気がかりだったのだろう。
「突然帰って悪かったな。大丈夫だったか?」
「全っ然、大丈夫です!」
「問題ナシですっ!」
部下たちはぶんぶん首を横に振りながら答える。
嵐志は微笑んで、「そうか、ありがとう」と口にした。
いつもと変わらない態度を取ったつもりだが、部下たちは何故か顔を見合わせた。
「なんか、良かったです。リフレッシュできたみたいで……」
「ああ……まあ、そうかもな」
金曜から土曜にかけ、存分に菜摘を堪能した嵐志は、いつもよりも心身が軽い。
やはりかわいいものを愛でるのは最高の健康療法だ。
ひとり満足している横で、ちょいちょい、と部下に袖を引かれた。
「課長、課長。……それで、その……」
「ああ、なんだ?」
問い返すと、しばらく「お前が言え」と互いに小突き合っていた部下たちが、少年のような目で見上げてくる。
「週末……原田さんに会いました?」
「例のあれ、着てもらえたんすか?」
あまりに期待に満ちたまなざしに、嵐志はそっと目を逸らした。
着てもらえたかと言われれば、そりゃあ着てもらったに決まっている――恋人に願い事を聞いてもらうくらいの話術がなくて営業が勤まるか。
そう思ったが、口にはしない。
ベビードールを着た菜摘――いつだか求められていた「感想」については黙秘権を行使することにして、短く答えた。
「……どうだろうな」
「ええええーっ!?」
「教えてくんないんすか!」
「ほら、仕事だ仕事。先週までの報告書、まとめて上にかけるからよろしくな」
部下たちの泣き言を聞き流しながらデスクにつく。
「えー、えー。でもそれって、その反応って、やっぱり着てくれたってことじゃないんすか?」
「どうだったんすか? 課長ー」
「しつこいぞ。席につけ。仕事をしろ」
なおもすがりついてくる部下をあしらい、嵐志はパソコンを立ち上げながら思い出していた。
――どうだったか。
素直に答えるとしたら――控えめに言って最高だった。
ふわふわの白いベビードールは、菜摘のややふくよかな身体を上品に隠しつつ、華奢な手脚を引き立てていて――そう、膝上十センチというのがまた絶妙だった。小柄な菜摘にはミニスカート丈で、品性は保ちつつも、下着なしに身につければ、大事なところがちらちらと見える煽情的な要素もあって。
その点については、菜摘が起きる前に下着を回収し、洗濯しておいた自分の仕事の速さを褒めたい。やっぱり物事はなにごとも段取りが大事だ。
前夜に相当に愛でたから、さすがに手加減しようと思っていたのだが、結局全然歯止めが効かなかった。それもあのベビードールのせいだ――いや、菜摘のかわいらしさとの相乗効果か。
とにかく、嵐志には抗えない魅力があって、朝のうちから菜摘を抱きしめて撫でてキスをしていたはずなのに、気づいたら日が暮れかけていた。
その頃、さすがに菜摘が「おなかすいた」と泣き始めて、慌ててデリバリーピザを頼んだものの(それもまた少女めいたかわいさがあった)、ベビードール姿で頬いっぱいにピザを頬張る菜摘がかわいくないわけもなく、「君は食べてていいから」と言って嵐志は菜摘に触れ続け――
手と舌の皮膚が菜摘の皮膚に塗り込まれてしまうのではないかというくらい存分に、菜摘を堪能した。
翌朝、渋々車で家に送り届けた菜摘は、どこかほっとしていたように見えた気もするが、今は気にしないことにしている。
そんなこんなで、嵐志は初めて思ったことがある。
――これは、翠にお礼を言わなければ。
今まで、一度として、一瞬たりとも、彼女に感謝したことはない。が、、ことこの件に限っては、主義を曲げるだけの価値がある。そう思った。本気で思った。だから今日は翠に声をかけようと決めている。
人づきあいにおいて、感謝と謝罪は早く伝えるに限る。ついでにどこのランジェリーショップで買ったか教えてもらって、菜摘と一緒に選びに行こう。
今まで、元カノに半ば強引に連行された居心地の悪い思い出しかしたことがなかったそこも、自分にはもう、宝の山と見えるのではないか――
頭の片隅でそんなことを考えながらも、仕事の段取りは忘れない。嵐志はタタンとキーボードを叩いて、出力した資料を手に立ち上がった。
「ちょっとこの資料、秘書室に持って行ってくる。みんな、正午までに報告書メール頼むぞ」
「はーい」
「了解でーす」
部下たちに声をかけて歩き出す。向かう先は、翠のいる秘書室――いや、その前に菜摘の顔を見て行こう。
非常階段のドアを開け、自分の靴の音を聞きながら上階へと歩き出す。
テナントビルのうち、嵐志たち営業は三階、菜摘のいる総務や労務が四階、そして五階が社長・秘書室と会議室だ。
一階分の階段を上がった嵐志は、一度廊下に戻って総務のドアから中を覗いた。
「おはようございます。わー、ありがとうございます!」
菜摘の声がして足を止める。日曜の朝には家に帰したので、丸一日、空いたはずだが、まだ声がかすれて聞こえた。
菜摘は嵐志の方に背を向け、隣の社員と話している。どうも、お菓子をもらったらしい。
初めて見る菜摘のデスクの片隅には、たんまりとおやつが置かれている。
誰も彼も餌付けしようとしている――という話は本当らしい。
「あれ? 菜摘ちゃん、声かすれてるね。もしかして風邪?」
「えっ? だ、大丈夫ですっ、ちょっとあの、口開けて寝てたのかもしれません」
「そっか、気をつけてねー」
「は、はいっ」
コピー機の方へ向かいかけた菜摘が、視線を感じたのかこちらを振り向いた。目を丸くして、わたわたし始める。
嵐志は微笑み、軽く手を挙げた。
菜摘は弛む頬を引き締めようとするように変な形に唇を歪めて、うつむきがちにちょこまかと出てきた。
そのまま、二人で非常階段へと入る。
「ど、どうしたんですか? 総務に来るなんて珍しい……」
「いや。……元気かなと思って」
嵐志が顔を覗き込むと、菜摘の顔は耳まで真っ赤になってこくこくうなずいた。
「あっ、は、はい! 元気だけが取り柄なんで!」
――そういう意味じゃないんだけどな。
拳を握った姿が可愛くて、思わず笑う。
声は確かに少しかすれているけれど、身体は大丈夫そうだ。
――つまり、二晩までは行けるな。
無意識にそんな算段をつける嵐志の脳内を知るよしもなく、菜摘はうつむきがちに話し始めた。
「今度は……あんな、寝たきり状態にならないように、体力つけておきます」
一瞬、何のことか分からずきょとんとした。
菜摘はうつむいたままで、見えるのはつむじと真っ赤な耳だけ。
意味を理解したとたん、嵐志は思わず噴き出した。
「別に、いいのに。寝たきりでも」
力の抜けきった彼女を介抱するのも恋人の喜びだ。
そう心中で付け足したが、菜摘は「えっ!?」と顔を上げた。
「い、いや、ダメでしょう! ダメですよそんなの……」
「なんで? 俺がいいって言ってるのに」
「だ、ダメですっ、あら……神南さんにそんなこと、させるわけには」
場所が場所だからか、苗字呼びに改めてくれたが、会話の内容が内容だ。そもそも他人に聞かれたくはない。
嵐志は上体を曲げて、「むしろ」と耳元で囁いた。
「俺は大歓迎だよ」
耳に吐息がかかったのか、菜摘はぴくんと震えた。
両手で胸を押さえて、潤んだ目で上目遣いに見上げてくる。嵐志はその姿を見下ろしながら微笑んだ。
「てっきり……もう少し加減しろって言われるかと思ってた」
菜摘はこれ以上ないくらい真っ赤な顔をしたまま、震えるように首を横に振った。
「そんなの……しなくて、いいです」
菜摘は手で顔を隠すようにしながら、かき消えそうな声で続けた。
「だって……すごい、想われてるの、分かったから……」
幸せ、でした。すごく。
菜摘の囁くような言葉が、嵐志の心に沁みていく。
――ああ、この子なら、大丈夫かもしれない。
身体の奥があたたかい感情で満たされていく。
心のどこかに残っていた不安が、砕けて霧散した。
「そっか。でも……無理なときには、無理って言ってね。……手加減できるかは分からないけど」
菜摘はうつむきがちなまま、こくこくこく、といつも通り小刻みにうなずく。
その身体を抱きしめたい衝動を、拳を握ってやり過ごした。
嵐志はこの甘く優しい時間が、愛おしくてたまらない。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
163
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる