37 / 37
.第5章 ふたりのこれから
..07
しおりを挟む
そんな茶番を終えた後、嵐志はようやく、社長の鞄持ちからの解放を言い渡された。
まだふざけあっている翠と光治をその場に残して、二人で社長室を後にする。
ふぅー、と、ため息をついたのはほぼ同時で、それが可笑しくて互いの顔を見合わせて笑った。
菜摘は嵐志の穏やかな表情を見上げて微笑む。
「よかったですね。今日、定時で帰れるそうで」
社長から、「さんざん振り回したし、今日は定時で帰っていいよぉ。なっちゃんとゆっくり過ごしな~」と笑顔で見送られたのだ。菜摘が言うと、嵐志は苦笑した。
「そうだなぁ……まあ、部下たちの様子次第だけど」
「でも、嵐志さんのおかげでずいぶんしっかりしてきたって、こーちゃ……青柳くんも言ってましたよ」
「そうか」
ちら、と菜摘を見下ろす横目が、泣きぼくろのせいかひどく色っぽく見える。
考えてみれば、こうして二人で歩くのも、直接話をするのも、熱い夜を過ごして以降久々なのだ。
そう気づくと、菜摘の身体がかっと熱を持った。
ちらりと嵐志を見上げれば、嵐志は気恥ずかしそうにまた前を見る。
「……そうだな。久々に、定時で帰るとするかな」
「そうですよ。ずっとお忙しかったから……ゆっくりするといいです」
コツコツと、二人の靴音が階段を降りていく。
互いに何か会話を探しながら、同時に、二人でいられるこの瞬間の幸せを味わう。
コツ、と、ワンフロア降りきって菜摘が立ち止まる。
嵐志のフロアはもう一つ下。菜摘とはここでお別れだ。
じゃあ、とためらいがちに言いかけたところで、嵐志が口を開いた。
「ゆっくり……しない?」
「え?」
「その……今日、俺の家で……」
そっ、と顔を斜め下に逸らして、菜摘を横目で見る嵐志の頬が、ほんのりと赤く染まっている。
ゆっくり。
……ゆっくり。
「ゆっくり過ごした」日のことを思い出して、菜摘はうつむいた。
湯気が出そうなほど、顔が熱を持つ。
答えがないので、嵐志は慌てたらしかった。
「あ、いや、その……無理に誘うつもりは……」
「無理、じゃ……ないです」
けど、明日、仕事です。そう言うと、嵐志が「ああ」とかすれた声で答えて、咳払いをした。
「……ちゃんと……その、加減する……たぶん」
付け加えられた語尾が、心底自信なさそうだ。
そりゃあ、そうだろう。金曜の夜から日曜の朝まで、三十時間以上菜摘の身体を堪能したはずなのに、菜摘の家に送るときにはどこか物足りなげだった嵐志だ。
まあ、でも、声が出なくなるくらいはいいか――どこかでそう思っている菜摘もいる。
けれど、ある重要なことに気づいて表情を引き締めた。
「でもあのっ、そうなると、夜ご飯は……?」
食事が好きな菜摘にとって、ご飯は大切なひとときなのである。
土曜に何が辛かったかと言われれば、食事が夕方の一回だけになってしまったことだ。デリバリーピザは好きだが、やっぱりそれだけでは寂しいものがある。
「……」
「……」
二人は黙ったまま、じっと見つめ合った。
互いの譲らない視線が行き交った、その後。
「……食べてから、行こうか」
「はい」
嵐志の言葉にほっとして、菜摘の表情が綻ぶ。
嵐志は負けたというように微笑んだ。
「……料理の勉強、しようかな」
「え?」
「君が嬉しそうに食べる顔……かわいくて好きだから」
自分が作る料理に喜んでくれたら、すごく幸せだろうな、と思って。
そう微笑む嵐志に、胸が締め付けられるような愛おしさを感じた。
「私も、好きです」
その先を問うように、嵐志がまっすぐに見つめてくる。
菜摘は視線を受け止めかねてうつむいた。
顔が――耳まで、熱を持っている。
「その……紳士な嵐志さんももちろん好きなんですけど……え、っちな嵐志さんも……好き……です」
小さな小さな、ほとんど囁くような声でそう言うと、帰ってきたのは沈黙だった。
おずおずと顔を上げれば、嵐志が目を泳がせる。
「あ……えーと……ごめん」
首を傾げる菜摘に、
「ちょっと……驚いた……あまりに、嬉しくて」
嵐志は答えて、じわじわと、にじむような笑顔を浮かべる。
喜んでくれた。恥ずかしかったけれど、言ってよかった。
菜摘がそう思ったとき、嵐志の手が手を取った。
「ねぇ」と、吐息がかかるほどの至近距離で、嵐志が菜摘の顔を見つめてくる。
「今度……一週間くらい、休ませてもらう?」
「いっ!?」
一週間!?
濃厚な一日を思い出して声を裏返せば、嵐志は手を離して笑った。
「冗談だよ、冗談……」
「じゃあ、また業後に」と手を挙げた嵐が、「今のところは」と呟いたような気がする。
が、菜摘は聞かなかったことにしよう、と思った。
結局その夜は、連日の不眠で早々に寝落ちした菜摘を、ちょっとかわいがるだけのつもりだった嵐志の歯止めが効かなくなってしまってあれこれあるのだがーー
それはまた、ふたりのこれからのお話。
了
=====
最後までご覧いただきありがとうございます。
少しでも、クスッと笑っていただけたなら幸いです。
また他の作品でもお会いできることを祈りつつ。
ありがとうございました!
松丹子 拝
まだふざけあっている翠と光治をその場に残して、二人で社長室を後にする。
ふぅー、と、ため息をついたのはほぼ同時で、それが可笑しくて互いの顔を見合わせて笑った。
菜摘は嵐志の穏やかな表情を見上げて微笑む。
「よかったですね。今日、定時で帰れるそうで」
社長から、「さんざん振り回したし、今日は定時で帰っていいよぉ。なっちゃんとゆっくり過ごしな~」と笑顔で見送られたのだ。菜摘が言うと、嵐志は苦笑した。
「そうだなぁ……まあ、部下たちの様子次第だけど」
「でも、嵐志さんのおかげでずいぶんしっかりしてきたって、こーちゃ……青柳くんも言ってましたよ」
「そうか」
ちら、と菜摘を見下ろす横目が、泣きぼくろのせいかひどく色っぽく見える。
考えてみれば、こうして二人で歩くのも、直接話をするのも、熱い夜を過ごして以降久々なのだ。
そう気づくと、菜摘の身体がかっと熱を持った。
ちらりと嵐志を見上げれば、嵐志は気恥ずかしそうにまた前を見る。
「……そうだな。久々に、定時で帰るとするかな」
「そうですよ。ずっとお忙しかったから……ゆっくりするといいです」
コツコツと、二人の靴音が階段を降りていく。
互いに何か会話を探しながら、同時に、二人でいられるこの瞬間の幸せを味わう。
コツ、と、ワンフロア降りきって菜摘が立ち止まる。
嵐志のフロアはもう一つ下。菜摘とはここでお別れだ。
じゃあ、とためらいがちに言いかけたところで、嵐志が口を開いた。
「ゆっくり……しない?」
「え?」
「その……今日、俺の家で……」
そっ、と顔を斜め下に逸らして、菜摘を横目で見る嵐志の頬が、ほんのりと赤く染まっている。
ゆっくり。
……ゆっくり。
「ゆっくり過ごした」日のことを思い出して、菜摘はうつむいた。
湯気が出そうなほど、顔が熱を持つ。
答えがないので、嵐志は慌てたらしかった。
「あ、いや、その……無理に誘うつもりは……」
「無理、じゃ……ないです」
けど、明日、仕事です。そう言うと、嵐志が「ああ」とかすれた声で答えて、咳払いをした。
「……ちゃんと……その、加減する……たぶん」
付け加えられた語尾が、心底自信なさそうだ。
そりゃあ、そうだろう。金曜の夜から日曜の朝まで、三十時間以上菜摘の身体を堪能したはずなのに、菜摘の家に送るときにはどこか物足りなげだった嵐志だ。
まあ、でも、声が出なくなるくらいはいいか――どこかでそう思っている菜摘もいる。
けれど、ある重要なことに気づいて表情を引き締めた。
「でもあのっ、そうなると、夜ご飯は……?」
食事が好きな菜摘にとって、ご飯は大切なひとときなのである。
土曜に何が辛かったかと言われれば、食事が夕方の一回だけになってしまったことだ。デリバリーピザは好きだが、やっぱりそれだけでは寂しいものがある。
「……」
「……」
二人は黙ったまま、じっと見つめ合った。
互いの譲らない視線が行き交った、その後。
「……食べてから、行こうか」
「はい」
嵐志の言葉にほっとして、菜摘の表情が綻ぶ。
嵐志は負けたというように微笑んだ。
「……料理の勉強、しようかな」
「え?」
「君が嬉しそうに食べる顔……かわいくて好きだから」
自分が作る料理に喜んでくれたら、すごく幸せだろうな、と思って。
そう微笑む嵐志に、胸が締め付けられるような愛おしさを感じた。
「私も、好きです」
その先を問うように、嵐志がまっすぐに見つめてくる。
菜摘は視線を受け止めかねてうつむいた。
顔が――耳まで、熱を持っている。
「その……紳士な嵐志さんももちろん好きなんですけど……え、っちな嵐志さんも……好き……です」
小さな小さな、ほとんど囁くような声でそう言うと、帰ってきたのは沈黙だった。
おずおずと顔を上げれば、嵐志が目を泳がせる。
「あ……えーと……ごめん」
首を傾げる菜摘に、
「ちょっと……驚いた……あまりに、嬉しくて」
嵐志は答えて、じわじわと、にじむような笑顔を浮かべる。
喜んでくれた。恥ずかしかったけれど、言ってよかった。
菜摘がそう思ったとき、嵐志の手が手を取った。
「ねぇ」と、吐息がかかるほどの至近距離で、嵐志が菜摘の顔を見つめてくる。
「今度……一週間くらい、休ませてもらう?」
「いっ!?」
一週間!?
濃厚な一日を思い出して声を裏返せば、嵐志は手を離して笑った。
「冗談だよ、冗談……」
「じゃあ、また業後に」と手を挙げた嵐が、「今のところは」と呟いたような気がする。
が、菜摘は聞かなかったことにしよう、と思った。
結局その夜は、連日の不眠で早々に寝落ちした菜摘を、ちょっとかわいがるだけのつもりだった嵐志の歯止めが効かなくなってしまってあれこれあるのだがーー
それはまた、ふたりのこれからのお話。
了
=====
最後までご覧いただきありがとうございます。
少しでも、クスッと笑っていただけたなら幸いです。
また他の作品でもお会いできることを祈りつつ。
ありがとうございました!
松丹子 拝
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
163
この作品の感想を投稿する
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる