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32.牧田の五年
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ある晩、突然寝室からトントンと軽く指で叩く音が聞こえた。それは今までも仕事中に幻聴として聞こえることはあるが、ここまではっきり聞こえたことはない。
「はい……?」
もしかしてと思った。少し信じられない気持ちで返事をすると箸をくわえたままの結衣が現れた。まさか……。
結衣だ、過去の結衣が現れた……。俺は息を飲み声を出した。
「──先輩?」
◇
寝室に入るとベッドとそれを区切るようにして一人掛け用のソファーとオットマンが置かれている。部屋を区切る壁には結衣が作った【桜欄】がある。
なぜこの作品がここにおいてあるのかというと、これが天才デザイナー斉藤結衣の遺作だからだ。
五年前のあの日、結衣は死んだ──。
一緒に工場に向かって山道を走っているところに開発途中で土砂を運んでいたトラックが対向車線にはみ出して正面衝突した。俺とタクシーの運転手が重症、結衣は即死だった。運転手が避けようとして、結衣が座っていた側にぶつかった。運転手側に座っていた俺は難を逃れたらしい。
ピッピッピッ──
規則正しい機械音で俺は目が覚めた。目が覚めて全身の痛みに気付いた。左の腕や足が何かに包まれているようで動かない。頭も朦朧としていて視界に入る物全てが薄い緑に見えて色彩感覚がない。
俺の瞼が開いたことに気付いた看護師が慌てて医師を呼ぶ声がする。ライトを瞳に当てられて何か言っているが上手く聞き取れない。
一体ここはどこなんだ、タクシーに乗っていたはずなのにここは……。先輩はどこだ? 誰か、ちょっと待ってくれ、俺の話を聞いてくれ、頼むから──。
ICUから病室に移されると、父親と母親の姿があることに気がついた。二人とも泣いていた。一緒に乗っていた先輩や運転手はどうしているのかと聞くと二人とも黙り込み分からないと言った。
それから数日後……病室に会社のみんなが来た。武田や木下は牧田の姿を見て何も言えなかった。坂上がゆっくりと近付き牧田の手を握った。病室に入る前から中川はしゃくり上げるようにして泣いていた。武田が動けない牧田の為に腹の上に花束を置いた。
「綺麗だろう、ほら──」
武田の声が緊張している事に気づき牧田は病室にいる一人一人の顔を見ていく……皆視線が合うと顔を歪ませて視線を逸らした。
皆、どうしたんだろうか、なぜ無事でよかったな、大丈夫かと言わないんだ? どうして、誰も──先輩の事を話さないんだ?
「牧田、斉藤がな、斉藤が……ッ、し、んだ……死んだんだ」
武田が嗚咽を飲み込みきれず涙を流す。武田の声に木下や坂上までもが堪えきれずに泣き始める。悪い冗談やめてほしい……なぁ、みんな、やめてくれ。
先輩……結衣──どこだ?
◇
手足の骨折も治ったが、俺は耳の下から顎まで骨に沿って切り傷が残った。普段は目立たないが、上を見上げると顎のラインに沿って傷が見える。その傷を隠すように俺は髭を生やすようになった。
俺がようやく退院した頃にはもう世間も悲運の天才デザイナーの斉藤結衣を取り上げることもしなくなった。
死に顔も見れず、葬式も出れなかった。だからだろうか、急に結衣だけがこの世界から消えてしまったように感じていた。入院中に、結衣の母親から「娘はあなたに持っていてほしいと思う」と言って大きな布で包まれた物を置いて帰った。──【桜欄】だった。
それからしばらくして、俺は独立した。デザイン会社はyui.s(ユイス)だ。結衣の名前を借りた。《Design.mochi》のみんなは何も言わなかったが、俺たちの関係に気付いていたのかもしれない。
このブランド名を見て「いい名だ」と言うだけだった。今やyui.sは日本を超えて世界的に有名になったが、それはきっと結衣のおかげだ──。
いつか結衣とデザイン会社をしたいと思い始めた時の事故だった。だが、結衣を死なせてしまったのは自分だ。俺が結衣を殺した。
あの日、過去の結衣にデザインのアドバイスを受けなかったら
あの日、そのデザインの最終工程に呼ばなければ
あの日、結衣をデザイナーの道に戻さなければ
あの日、あの日、あの日……どれか一つ欠ければ結衣はあの日、あのタクシーに乗らなかった。どんなに悔やんでも結衣は戻らない。
あの日から俺は酒を飲まなければ眠れない体になった。飲まなければあの日の出来事を夢に見てしまうようになった。それは夢というよりもあの日の映像を見返しているようだった。医者にも診察してもらったが、脳が相当なストレスを与えられたからだと言われた。朧げな記憶じゃない……リアルな映像フィルムを見せられているようだ。毎日結衣の笑顔と、死ぬ瞬間までの記憶が俺を苦しめた。
タクシーに乗り込もうとする結衣に叫ぶ。
乗るな、止めろ、止めてくれ──死ぬな──その言葉は届かない。
そしてある日、奇跡が起こった──五年前の結衣が現れた。
嬉しかった。またこうして過去の結衣に会えたことが……。だが同時に怖くなった。このままでは結衣は死ぬ。どうすればあの日を変えることができるのか。言葉も絵も神に邪魔されてしまう……。
俺は少しずつサインを送ることにした。俺と結衣しか気づかないサインを……。神を欺き、許されない事と知りながらも結衣に気付いてもらえるのを祈るように準備をした。
Tシャツの絵や文字
服や小物
会うたびに多くのサインを残した……全てはあの日タクシーに乗せない為に。
そして、その日は来た。
ガラスにヒビが入り、別れの時だと気付いた。俺が以前五年前の結衣と別れた時と同じだ。必死に訴えた。訴えの大半が神によって消されたが、あとは結衣次第だ。
頼む、生きてくれ、タクシーには乗るなと叫んだ。泣いて泣いてドアの向こうに消えた結衣の名を呼んだ。ガラスが消えても何も変わらない……ダメだった、二度も結衣を助けれなかった……。
「結衣──」
今は亡き愛しい人の名を呼ぶ。もう何度もこうして暗い部屋で呼びかけ続けたことだろう。あの日に戻れたらと何度思っただろう。
(ん?──)
突然寝室から物音が聞こえる。
(なんの音だ?)
ふらつく足元を踏ん張り寝室に向かうと【桜欄】の向こうに人影が見える。
「だ、誰だ?」
「どうしたの? あなた」
そこには結衣が居た。髪が伸びゆるくパーマを当てている。メガネをかけた彼女は五年後の彼女だ。五年後の……? 一体俺は何の話をしているんだろう。なぜさっきから泣いていたんだ? このオットマンは結衣のお気に入りの場所だ──そこにいるのが当たり前のはずなのに……。
結衣は席を立つと牧田の首の後ろに腕を回し抱き寄せた。背中を優しくスライドさせるように動かした。
「いや、なんかこの部屋の前で泣いていたみたいだ。なんかすごく悲しくて悔しかったんだけど……覚えてないんだ」
「……そう……」
「疲れてるんだな、きっと……」
牧田はそう言って笑うと結衣を抱きしめ返した。結衣は牧田の頰に手を添えてキスをした。指先で伸びた髭を摩ると牧田はくすぐったいようで「いつの間にか髭が伸びたな」と言い笑った。
「……もう、その髭いらないんじゃない?」
「意味なく伸びただけだろ。今晩剃るよ」
牧田は何故ここまで自分の顎髭を伸ばしたのか分からない。自分で顎を摩り首を傾げていた。その顎にはもう、傷は無かった。結衣は涙を堪えるように瞬きを繰り返すと牧田の肩を叩いた。
「ねぇ、久しぶりに飲まない? 私はジンジャーエールだけど」
結衣がそんなこと言うなんて珍しい。記念日にしか飲まないのに何か良いことがあったのかもしれない。
「酒か? 俺も最近飲んでないから、酔っちゃうかもな……待ってて、取ってくる」
牧田が台所へと向かう。台所に山積みされたビールの空き缶の山は牧田が台所に到着するまでに霧のように消えた。部屋の壁にかけられた受賞の写真やトロフィーだけじゃない。瞬く間に結衣と共に生きてきた五年間が上書きされていく。牧田の孤独と悲しみの五年間が消えた。
牧田が着ているTシャツの背中にはアルファベットでSTOPと書かれていた。結衣はドアに手を当て指で7回叩く。
「ありがとう、牧田くん……」
「はい……?」
もしかしてと思った。少し信じられない気持ちで返事をすると箸をくわえたままの結衣が現れた。まさか……。
結衣だ、過去の結衣が現れた……。俺は息を飲み声を出した。
「──先輩?」
◇
寝室に入るとベッドとそれを区切るようにして一人掛け用のソファーとオットマンが置かれている。部屋を区切る壁には結衣が作った【桜欄】がある。
なぜこの作品がここにおいてあるのかというと、これが天才デザイナー斉藤結衣の遺作だからだ。
五年前のあの日、結衣は死んだ──。
一緒に工場に向かって山道を走っているところに開発途中で土砂を運んでいたトラックが対向車線にはみ出して正面衝突した。俺とタクシーの運転手が重症、結衣は即死だった。運転手が避けようとして、結衣が座っていた側にぶつかった。運転手側に座っていた俺は難を逃れたらしい。
ピッピッピッ──
規則正しい機械音で俺は目が覚めた。目が覚めて全身の痛みに気付いた。左の腕や足が何かに包まれているようで動かない。頭も朦朧としていて視界に入る物全てが薄い緑に見えて色彩感覚がない。
俺の瞼が開いたことに気付いた看護師が慌てて医師を呼ぶ声がする。ライトを瞳に当てられて何か言っているが上手く聞き取れない。
一体ここはどこなんだ、タクシーに乗っていたはずなのにここは……。先輩はどこだ? 誰か、ちょっと待ってくれ、俺の話を聞いてくれ、頼むから──。
ICUから病室に移されると、父親と母親の姿があることに気がついた。二人とも泣いていた。一緒に乗っていた先輩や運転手はどうしているのかと聞くと二人とも黙り込み分からないと言った。
それから数日後……病室に会社のみんなが来た。武田や木下は牧田の姿を見て何も言えなかった。坂上がゆっくりと近付き牧田の手を握った。病室に入る前から中川はしゃくり上げるようにして泣いていた。武田が動けない牧田の為に腹の上に花束を置いた。
「綺麗だろう、ほら──」
武田の声が緊張している事に気づき牧田は病室にいる一人一人の顔を見ていく……皆視線が合うと顔を歪ませて視線を逸らした。
皆、どうしたんだろうか、なぜ無事でよかったな、大丈夫かと言わないんだ? どうして、誰も──先輩の事を話さないんだ?
「牧田、斉藤がな、斉藤が……ッ、し、んだ……死んだんだ」
武田が嗚咽を飲み込みきれず涙を流す。武田の声に木下や坂上までもが堪えきれずに泣き始める。悪い冗談やめてほしい……なぁ、みんな、やめてくれ。
先輩……結衣──どこだ?
◇
手足の骨折も治ったが、俺は耳の下から顎まで骨に沿って切り傷が残った。普段は目立たないが、上を見上げると顎のラインに沿って傷が見える。その傷を隠すように俺は髭を生やすようになった。
俺がようやく退院した頃にはもう世間も悲運の天才デザイナーの斉藤結衣を取り上げることもしなくなった。
死に顔も見れず、葬式も出れなかった。だからだろうか、急に結衣だけがこの世界から消えてしまったように感じていた。入院中に、結衣の母親から「娘はあなたに持っていてほしいと思う」と言って大きな布で包まれた物を置いて帰った。──【桜欄】だった。
それからしばらくして、俺は独立した。デザイン会社はyui.s(ユイス)だ。結衣の名前を借りた。《Design.mochi》のみんなは何も言わなかったが、俺たちの関係に気付いていたのかもしれない。
このブランド名を見て「いい名だ」と言うだけだった。今やyui.sは日本を超えて世界的に有名になったが、それはきっと結衣のおかげだ──。
いつか結衣とデザイン会社をしたいと思い始めた時の事故だった。だが、結衣を死なせてしまったのは自分だ。俺が結衣を殺した。
あの日、過去の結衣にデザインのアドバイスを受けなかったら
あの日、そのデザインの最終工程に呼ばなければ
あの日、結衣をデザイナーの道に戻さなければ
あの日、あの日、あの日……どれか一つ欠ければ結衣はあの日、あのタクシーに乗らなかった。どんなに悔やんでも結衣は戻らない。
あの日から俺は酒を飲まなければ眠れない体になった。飲まなければあの日の出来事を夢に見てしまうようになった。それは夢というよりもあの日の映像を見返しているようだった。医者にも診察してもらったが、脳が相当なストレスを与えられたからだと言われた。朧げな記憶じゃない……リアルな映像フィルムを見せられているようだ。毎日結衣の笑顔と、死ぬ瞬間までの記憶が俺を苦しめた。
タクシーに乗り込もうとする結衣に叫ぶ。
乗るな、止めろ、止めてくれ──死ぬな──その言葉は届かない。
そしてある日、奇跡が起こった──五年前の結衣が現れた。
嬉しかった。またこうして過去の結衣に会えたことが……。だが同時に怖くなった。このままでは結衣は死ぬ。どうすればあの日を変えることができるのか。言葉も絵も神に邪魔されてしまう……。
俺は少しずつサインを送ることにした。俺と結衣しか気づかないサインを……。神を欺き、許されない事と知りながらも結衣に気付いてもらえるのを祈るように準備をした。
Tシャツの絵や文字
服や小物
会うたびに多くのサインを残した……全てはあの日タクシーに乗せない為に。
そして、その日は来た。
ガラスにヒビが入り、別れの時だと気付いた。俺が以前五年前の結衣と別れた時と同じだ。必死に訴えた。訴えの大半が神によって消されたが、あとは結衣次第だ。
頼む、生きてくれ、タクシーには乗るなと叫んだ。泣いて泣いてドアの向こうに消えた結衣の名を呼んだ。ガラスが消えても何も変わらない……ダメだった、二度も結衣を助けれなかった……。
「結衣──」
今は亡き愛しい人の名を呼ぶ。もう何度もこうして暗い部屋で呼びかけ続けたことだろう。あの日に戻れたらと何度思っただろう。
(ん?──)
突然寝室から物音が聞こえる。
(なんの音だ?)
ふらつく足元を踏ん張り寝室に向かうと【桜欄】の向こうに人影が見える。
「だ、誰だ?」
「どうしたの? あなた」
そこには結衣が居た。髪が伸びゆるくパーマを当てている。メガネをかけた彼女は五年後の彼女だ。五年後の……? 一体俺は何の話をしているんだろう。なぜさっきから泣いていたんだ? このオットマンは結衣のお気に入りの場所だ──そこにいるのが当たり前のはずなのに……。
結衣は席を立つと牧田の首の後ろに腕を回し抱き寄せた。背中を優しくスライドさせるように動かした。
「いや、なんかこの部屋の前で泣いていたみたいだ。なんかすごく悲しくて悔しかったんだけど……覚えてないんだ」
「……そう……」
「疲れてるんだな、きっと……」
牧田はそう言って笑うと結衣を抱きしめ返した。結衣は牧田の頰に手を添えてキスをした。指先で伸びた髭を摩ると牧田はくすぐったいようで「いつの間にか髭が伸びたな」と言い笑った。
「……もう、その髭いらないんじゃない?」
「意味なく伸びただけだろ。今晩剃るよ」
牧田は何故ここまで自分の顎髭を伸ばしたのか分からない。自分で顎を摩り首を傾げていた。その顎にはもう、傷は無かった。結衣は涙を堪えるように瞬きを繰り返すと牧田の肩を叩いた。
「ねぇ、久しぶりに飲まない? 私はジンジャーエールだけど」
結衣がそんなこと言うなんて珍しい。記念日にしか飲まないのに何か良いことがあったのかもしれない。
「酒か? 俺も最近飲んでないから、酔っちゃうかもな……待ってて、取ってくる」
牧田が台所へと向かう。台所に山積みされたビールの空き缶の山は牧田が台所に到着するまでに霧のように消えた。部屋の壁にかけられた受賞の写真やトロフィーだけじゃない。瞬く間に結衣と共に生きてきた五年間が上書きされていく。牧田の孤独と悲しみの五年間が消えた。
牧田が着ているTシャツの背中にはアルファベットでSTOPと書かれていた。結衣はドアに手を当て指で7回叩く。
「ありがとう、牧田くん……」
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