虚弱なヤクザの駆け込み寺

菅井群青

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第一部

爺の教えと後悔

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 今日も事務所の椅子に座り朝から夕方までみっちり仕事をこなしていく。淡々と文句も言わず仕事をこなす俺を多くの舎弟が傷物に触れるような扱いをする。

「暇すぎる。何かないか?」

「処理能力スキル高い事をもっと早く知りたかったですねぇ……」

 町田は溜息をつきながら作成した書類を次々と封筒へと詰めていく。組長はゆっくりと背もたれにもたれると携帯電話を取り出す。

「……あぁ、俺だ。玄関? 分かった──」

 通話を終えると携帯電話を机の上に放り投げる。町田がちらっと一瞥するが何もなかったかのように無視を決め込む。

 先程の電話では先生はあの日からずっと掃除をして過ごしているそうだ。優しい先生のことだ、きっと罪悪感を振り切るために体を動かしているんだろう。
 万が一また俺のせいで何か起こらないようにバレぬよう見張りをつけているが、もはや掃除の進捗状況の報告係と化している。


 夕刻になり屋敷に戻ると玄関先に爺が仁王立ちしていた。子供の頃に見た光景だが、なぜ何もしていないのに怒っているのだろう。思い当たる節はない。
 昔爺の大事にしていた盆栽をクリスマスツリー風に飾り付けをした時のようだ。

「……ワシの部屋に来い、今すぐだ」

 爺の声は静かで低かった。本気で怒っている姿を見るのは久しぶりだ……。自分の部屋に行きジャケットを置くと爺の部屋の前に立ち声を掛ける。

「入れ……」

 爺の部屋の床の間には相変わらず美しい一輪の菊が描かれた掛け軸がある。俺は爺さんの前に座ると突然立ち上がった爺さんに胸を蹴られた。

「グ……」

 この年齢でこの脚力は無いだろう。とんだ化け物だ。胸の衝撃に手を押さえて苦しむ俺を横目に当の本人はまだまだ蹴り足りないようで今にも第二発が放たれそうだ。

「ちょ……待て! なんだよ急に! ヨーグルトの件なら──」

 今朝爺の朝の楽しみのミカン入りヨーグルトを横取りした。どう考えてもこの仕返しは割に合わない。

「自分の胸に聞いてみろ、ん?」

「その胸の鼓動を消しかけたのは誰だ」

 胸をさすりながら爺をみるとあからさまに大きな息を吐く。

「先生のところに行かなくなったみたいじゃな」

 爺の言葉にサッと表情を曇らす。先生という言葉を聞くだけでまだ反応してしまう。

「なっさけないの……振られたか?」

 爺の言葉に何も言えないでいると爺が俺に背中を向ける。「そうか……」と言ったまま動こうとしない。

「先生が俺の気持ちを伝えると苦しんで泣いたんだ……それで解放した。ヤクザとは住む世界が違うから……無理だったんだろ、先生は……優しい人だから。血に染まった世界には簡単にはつれていけねぇよ」

 今でも先生のことを考えると胸が痛い。
 色々な気持ちの狭間で組長は動けない。

「それで……のこのこと引き下がったか。先生一人守れんのか?」

「守る。もうあんな目には合わさない……でも無理に側に置くのは違う。俺は、先生が好きだから──」

 爺の言葉にぎりっと奥歯を噛みしめる。無理矢理自分のものにすることは簡単だ。それと、俺が求めているものは違う。

「……司、俺の背中の刺青に菊の花があるのを知っているな」

「あぁ……」


 もちろん知っている。物覚えついた頃から爺の背中には鮮やかな菊が描かれていた。触ろうとするといつもそれを制止していた。

『おっと、いけねぇな。この花はすぐに枯れちまうんだ。触れちゃだめだ』

 そう言っていた気がする。俺に背を向けていた爺は徐ろに着物の腕を抜き、背中を俺に見せる。こうしてみると床の間に飾られた菊の花とそっくりだ。まるで模写されたように……。

「この菊はワシの愛した女が描いたものだ──唯一無二の女だ」

 俺はゆっくりと背中の刺青と掛け軸を見比べる。そんな俺の様子にふっと爺は微笑んだ。

「ばあさんとは見合いだ。もちろんばあさんも愛していたが……燃えるような胸が焦げるような愛ではない」

 言っていることが分かる。人を深く愛したことがある者だけが分かる苦しさだ。数十年も前の話だろうが目の前の爺の瞳は苦しげだ。
 今でもその女のことを想っているのだろう。大事な龍の刺青の側にわざわざ彫るぐらい深く深く愛していたのだろう。ではなぜ、その女をそばに置かなかったのだろうか……まさか……。

「ヤクザだから──別れたのか?」

 俺の静かな声に爺は声もなく頷いた。

「ある日、彼女が泣きながら去った。その時は仕方ないと思った。今は、後悔している。どんなに拒絶されても諦めちゃいかんかった。相手が言う嘘も信じるべきじゃない。突き放すような嘘も……。相手の瞳だけを見て信じるべきじゃ……老いぼれのいう意味が分かるな?」



──あなたを愛していた私はもういないの

──もう、よしましょう。これ以上は……



 爺の耳に愛しい彼女の最後の嘘の言葉が聞こえた。爺は瞼をきつく閉じそれを耐える。

 着物を元に戻すと爺はいつものように優しく微笑んだ。

「お前の父親が堅気になりたいとワシの元を去ったのを止めなかったのもそれが理由じゃ。ワシの分まで幸せになって欲しかった──」

「爺……」

 組長は立ち上がるといつもの調子で悪そうな笑みを浮かべた。そこには先程の消沈した男はいない。爺の言う通りだ……あの時の先生の瞳はずっと本当の気持ちを伝えていたはずだ。

「悪いな、爺……助かった。」

「良いってことよ……行ってこい」

「隠してた山田錦のお取り寄せおかきも食べて悪かった」

「良いってことよ……ん!?」

 立ち上がり歩き出した俺の背中に爺が飛び蹴りを食らわした。油断していて前のめりに倒れる。

「ワシのフェイバリットスイーツを返せ!」

「イッテェよ! クソ爺!!」

 組長の悲痛な叫びが屋敷に響き渡った。
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