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第一部
一期一会
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カッカッカッ……カッカッカッ
事務所に足音らしき音が響く。
町田はちらりと見るがすぐに机の上の書面に視線を戻す。他の舎弟は顔も上げずに黙々と作業している。ある舎弟は一度計算し終わった売り上げをもう一度ひっくり返して再計算している。組長がいるので帰るわけにもいかずひたすら三途の川のほとりで積み上げる石のような作業を繰り返す。
事務所の最も大きなデスクの前に立ち、右往左往している組長は腕を組み数歩歩いては立ち止まりを繰り返していた。その眉間には深いシワが刻まれていた。
時刻は十四時半……いつもならここを出なくてはいけない時間だ。
だが、事情を知っている皆は声を掛けない。組長はイライラしている。触らぬ神に祟りなしだ。
「仕事はないのか?」
「怒濤の勢いで終わりました」
仕事に集中するしかないので真面目に取り組みすぎてやる事がない。
「なんか無いのか?」
「前屈みの姿勢は嬉しいんですけどねぇ」
町田が苦笑いを浮かべ何とも言えない表情になる。基本が不真面目なのでここまで仕事に熱意があると周りも戸惑ってしまう。組長はしょうがないので机の上を片付け始めた。書類の下敷きに前に幸にもらった試供品の湿布が出てきた。いつか使おうとそのままだったらしい。
思わず手を止めて幸のことを考える。
どうすればよかったのか、大切すぎて、怖い。
でも、手離れば……虚しくて辛い。
組長は携帯電話を取り出した。
「俺だ、そっちは変わりないか?」
『いや、それが……ずっと掃除しています』
「……は?」
離れているのに同じことをしているのが不思議で仕方がない。
「わかった、くれぐれもバレないようにな」
電話を切ると町田がこちらを見ていた。電話の相手を分かっているので気になるんだろう。
「先生は、今掃除しているそうだ。朝からずっと ……」
「……一緒、ですね」
町田の言葉になにも言えない。
先生は掃除マニアでもない。俺はため息をつくと掃除を再開した。
整頓され綺麗になる机周りに反して心の中はモヤモヤだった。何かしていないと、余計なことを考えてしまう。今だって、時計を何度も見ている。先生を解放したのに、まだ俺は先生から離れられそうもない。
くみ、ちょう……私、組長のものになれない
ごめんなさい、私と組長は違う世界に生きてる──
辛そうな顔をした先生を無理やり繋ぎ止めることも出来ただろうが、俺は先生に笑っていて欲しかった。あの笑顔で俺は何度も助けられたんだ。
先生、これで、笑えるのか?
解放されて……よかったのか?
組長は答えの出ない問いに顔を曇らせた。
事務所の外にある喫煙室で町田がタバコを吸っていた。そこへ外回りから帰ってきた光田が通りかかる。光田は院の見張りから詳細を聞いてきたのだが、その表情は暗い……。
「どうだった……先生は」
「休むこともなく掃除ばっかしてるみたいで……」
「こっちも片付けを……」
「「…………」」
町田と光田は黙り込む。
「俺も……惚れた女が危ない目に合えば考えますもん。特に先生みたいな純粋な人にこの世界は──すんません変なこと言うて」
光田は町田に頭を下げる。町田は光田の頭を軽く叩く。
「バカ……それでも組長には先生が必要だよ。先生が決意してくれたらその時は……俺たちがみんなで先生の笑顔を守ればいい。お二人を信じよう」
町田はズボンのポケットに手を入れた。
タバコを取り出し火をつけると夜空に煙を吐いた。煙が空に消えていくのを二人はじっと見ていた。
◇
青野鍼灸院は今日も大掃除中だ。
一昨日は倉庫の整理をした。昨日はカーテンを洗って窓を拭いた。そして今日はねずみ色のモップを全力で握り床を擦っている。もう三日も掃除しかしていない。
「うーん、キレイになるとスッキリする!」
──嘘だ
「ここまでピカピカだと患者さんもびっくりしちゃうな」
──誰が?
「見張りもいないしドアも開けっぱなしで気持ちいいな」
──寂しい
幸は作っていた笑顔を止めるとベッドへと腰掛けた。これでよかったのか……。
──欲し、くない。組長、私を……解放して
言ったそばから離れないでほしいという気持ちで胸がいっぱいになった。
「意気地なしの大バカ者、今更後悔してどうすんのよ。あんな風に傷つけて……」
組長はいつだって自分の気持ちを素直に伝えてくれた、理不尽なこともあるけどあれほど正直な人間はいない。
卑怯で、逃げ腰で、自分が嫌になった。
──いつだって、組長は伝えてくれていたのに。
あの日の組長の言葉や背中が頭から離れない。
──先生、俺先生のこと好きだ。でも、先生をそんな顔させたくない。……泣かせるつもりなんかない
──じゃあな……先生──幸せになって
ヤクザだからなんなんだろうか。この世にはもっと出会うはずのない人間が出会い結ばれている。出会えた奇跡に二人の想いが合わさっている。そんな簡単なことからどうして目を背けていたのか。
彼は、どうしているだろうか。傷つき怒っているのか、悲しんでいるのか。
──もう会えないの?
──もう笑い合えないの?
謝りたい。
嘘ついてごめんなさい。
私あなたのことが好きなの……ヤクザがどうとかもうどうでもいい……一人の男性として恋い焦がれているのだと。
幸は携帯電話を握りしめた。
事務所に足音らしき音が響く。
町田はちらりと見るがすぐに机の上の書面に視線を戻す。他の舎弟は顔も上げずに黙々と作業している。ある舎弟は一度計算し終わった売り上げをもう一度ひっくり返して再計算している。組長がいるので帰るわけにもいかずひたすら三途の川のほとりで積み上げる石のような作業を繰り返す。
事務所の最も大きなデスクの前に立ち、右往左往している組長は腕を組み数歩歩いては立ち止まりを繰り返していた。その眉間には深いシワが刻まれていた。
時刻は十四時半……いつもならここを出なくてはいけない時間だ。
だが、事情を知っている皆は声を掛けない。組長はイライラしている。触らぬ神に祟りなしだ。
「仕事はないのか?」
「怒濤の勢いで終わりました」
仕事に集中するしかないので真面目に取り組みすぎてやる事がない。
「なんか無いのか?」
「前屈みの姿勢は嬉しいんですけどねぇ」
町田が苦笑いを浮かべ何とも言えない表情になる。基本が不真面目なのでここまで仕事に熱意があると周りも戸惑ってしまう。組長はしょうがないので机の上を片付け始めた。書類の下敷きに前に幸にもらった試供品の湿布が出てきた。いつか使おうとそのままだったらしい。
思わず手を止めて幸のことを考える。
どうすればよかったのか、大切すぎて、怖い。
でも、手離れば……虚しくて辛い。
組長は携帯電話を取り出した。
「俺だ、そっちは変わりないか?」
『いや、それが……ずっと掃除しています』
「……は?」
離れているのに同じことをしているのが不思議で仕方がない。
「わかった、くれぐれもバレないようにな」
電話を切ると町田がこちらを見ていた。電話の相手を分かっているので気になるんだろう。
「先生は、今掃除しているそうだ。朝からずっと ……」
「……一緒、ですね」
町田の言葉になにも言えない。
先生は掃除マニアでもない。俺はため息をつくと掃除を再開した。
整頓され綺麗になる机周りに反して心の中はモヤモヤだった。何かしていないと、余計なことを考えてしまう。今だって、時計を何度も見ている。先生を解放したのに、まだ俺は先生から離れられそうもない。
くみ、ちょう……私、組長のものになれない
ごめんなさい、私と組長は違う世界に生きてる──
辛そうな顔をした先生を無理やり繋ぎ止めることも出来ただろうが、俺は先生に笑っていて欲しかった。あの笑顔で俺は何度も助けられたんだ。
先生、これで、笑えるのか?
解放されて……よかったのか?
組長は答えの出ない問いに顔を曇らせた。
事務所の外にある喫煙室で町田がタバコを吸っていた。そこへ外回りから帰ってきた光田が通りかかる。光田は院の見張りから詳細を聞いてきたのだが、その表情は暗い……。
「どうだった……先生は」
「休むこともなく掃除ばっかしてるみたいで……」
「こっちも片付けを……」
「「…………」」
町田と光田は黙り込む。
「俺も……惚れた女が危ない目に合えば考えますもん。特に先生みたいな純粋な人にこの世界は──すんません変なこと言うて」
光田は町田に頭を下げる。町田は光田の頭を軽く叩く。
「バカ……それでも組長には先生が必要だよ。先生が決意してくれたらその時は……俺たちがみんなで先生の笑顔を守ればいい。お二人を信じよう」
町田はズボンのポケットに手を入れた。
タバコを取り出し火をつけると夜空に煙を吐いた。煙が空に消えていくのを二人はじっと見ていた。
◇
青野鍼灸院は今日も大掃除中だ。
一昨日は倉庫の整理をした。昨日はカーテンを洗って窓を拭いた。そして今日はねずみ色のモップを全力で握り床を擦っている。もう三日も掃除しかしていない。
「うーん、キレイになるとスッキリする!」
──嘘だ
「ここまでピカピカだと患者さんもびっくりしちゃうな」
──誰が?
「見張りもいないしドアも開けっぱなしで気持ちいいな」
──寂しい
幸は作っていた笑顔を止めるとベッドへと腰掛けた。これでよかったのか……。
──欲し、くない。組長、私を……解放して
言ったそばから離れないでほしいという気持ちで胸がいっぱいになった。
「意気地なしの大バカ者、今更後悔してどうすんのよ。あんな風に傷つけて……」
組長はいつだって自分の気持ちを素直に伝えてくれた、理不尽なこともあるけどあれほど正直な人間はいない。
卑怯で、逃げ腰で、自分が嫌になった。
──いつだって、組長は伝えてくれていたのに。
あの日の組長の言葉や背中が頭から離れない。
──先生、俺先生のこと好きだ。でも、先生をそんな顔させたくない。……泣かせるつもりなんかない
──じゃあな……先生──幸せになって
ヤクザだからなんなんだろうか。この世にはもっと出会うはずのない人間が出会い結ばれている。出会えた奇跡に二人の想いが合わさっている。そんな簡単なことからどうして目を背けていたのか。
彼は、どうしているだろうか。傷つき怒っているのか、悲しんでいるのか。
──もう会えないの?
──もう笑い合えないの?
謝りたい。
嘘ついてごめんなさい。
私あなたのことが好きなの……ヤクザがどうとかもうどうでもいい……一人の男性として恋い焦がれているのだと。
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