18 / 81
2.due
due-7
しおりを挟む
薫さんに偶然会ってから、本当は店に出るのが怖かった。自分が勤務する店は井上さんが知っている。知ろうと思えば、すぐ知ることができるはずなのだ。けれど、いまさらなのかも知れない。ローマで出会ったのはもう1年半も前。彼がこの店を訪れた話など聞いてない。そう思うと少し肩の力も抜け、普段通り仕事に勤しんだ。
あっという間に五月に入った。大型連休も乗り切り、また日常が戻ったころそれは起こった。
「えっ! 熱? 大丈夫なの?」
早出だった真砂子から電話があったのは、勤務時間が終わった直後だった。
『ごめん、亜夜。明日私、遅出なんだけど、都合がつく人がいないらしいの。ふうはお母さんがみるって言ってるし、明日代わってもらえないかな? このとおりっ!』
鼻声で辛そうな真砂子の声。電話の向こうで手を合わせている様子が目に浮かぶようだ。
「代わるのは問題ないよ。私のほうこそ、ふうを遅くまで見てもらうほうが申し訳ないというか……」
遅出は閉店作業も含まれる。風香が生まれる前は私もシフトに入っていたが、帰宅が夜9時を回るから今は免除してもらっている。
『こっちこそ、明日休みだったのに無理言ってごめん!』
「ううん? わかった。お大事にね。また明日、連絡する」
『ありがとっ!』
とりあえず元気そうな真砂子に安心しながら、私は電話を切った。
遅出となる勤務時間は午後からだ。いつも通りに風香を保育園に預けるといったん帰宅する。そのあと、風香の夕食用の離乳食やおばさんのための夕食を準備した。何度も来てくれていて合鍵も預けてあるが、念のため着替えなどもわかりやすい場所に置いて家を出た。
今日は一日雨予報。朝はそれほどでもなかった雨は、だんだんとその雨足も強くしていた。
(今日はお客様も少ないかも……)
急な豪雨の雨宿りで不意に混み合うことはあるが、一日中雨の日はどちらかと言えばお客様は少ない。特に今日は、夜にかけて降る予報で、閉店時間には来客も少ないだろうと予想し、まさにその通りになっていた。
「雨、結構降ってましたよ」
外にゴミを捨てに行き戻った桃ちゃんの肩口は雨で濡れている。
「やっぱり? さっきのお客様も結構酷い雨だっておっしゃってたから。今日は閉店作業も早く終わりそうだし、桃ちゃんは時間がきたらすぐ上がってね」
「ありがとうございます。亜夜さん。じゃあ私、先に奥片付けときますね」
「うん。お願い」
時間は夜七時を回ったところだ。この店のラストオーダーはイートインなら七時半、テイクアウトは七時四十五分。さっきから客足は途絶えていて、今日はすんなり帰れそうだ。
結局そのあとも数人しか来店せず、いよいよ本格的に閉店作業に入ろうかと、備品の補充にかかりきりになっていて、その来客に気づいていなかった。
「すみません。オーダーよろしいでしょうか?」
カウンターに背を向けていた私はその声に慌てて振り返り、そして硬直した。
「い……のうえ、さん……」
「ご無沙汰しております。亜夜さん」
ライトグレーのスーツに身を包んだ井上さんは、変わらずのポーカーフェイスだ。
「お久しぶり……です」
井上さんは店に何度か訪れたことがあるとオーナーから聞いている。それも私が育児休暇を取っているあいだに。
オーナーには、『もし私の所在を聞かれても、実家の都合でしばらく田舎に帰っていると伝えて欲しい』と念押ししておいた。そして、その通り伝わっているはずだ。
「マキアートをお願いできますか?」
井上さんは何事もないかのように淡々とオーダーを口にする。構えていた私は拍子抜けして、肩の力を抜くとそれに答えた。
「かしこまりました。店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「閉店時間は八時ですがよろしいでしょうか?」
時間はギリギリ七時半になるところだ。店の中に残っているお客様も二人ほどしかいなかった。
「ええ」
短く返事をした井上さんは会計を済ませると、お渡し用のカウンターに移動する。井上さんが迷うことなくそちらに行くのを見て、ここに訪れたことがあるのを実感した。
すぐにエスプレッソマシンに向かい準備を始める。日本ではカフェラテのほうがメジャーだから、マキアートにしたのは私がローマで勧めたのを覚えてくれているのかも知れない。
「お待たせしました。マキアートです」
カウンターにカップを置くと井上さんはそれを受け取りながらまっすぐ私に向いた。
「亜夜さん。お尋ねしたいことがあります。お時間をいただけないでしょうか?」
「私に……ですか?」
心臓が音を立て、鼓動が早くなる。尋ねられるようなことに心当たりはない。立ち込める暗雲に足がすくみそうになりながら、それでも笑顔を作り言う。
「私で……お役に立てるなら」
あっという間に五月に入った。大型連休も乗り切り、また日常が戻ったころそれは起こった。
「えっ! 熱? 大丈夫なの?」
早出だった真砂子から電話があったのは、勤務時間が終わった直後だった。
『ごめん、亜夜。明日私、遅出なんだけど、都合がつく人がいないらしいの。ふうはお母さんがみるって言ってるし、明日代わってもらえないかな? このとおりっ!』
鼻声で辛そうな真砂子の声。電話の向こうで手を合わせている様子が目に浮かぶようだ。
「代わるのは問題ないよ。私のほうこそ、ふうを遅くまで見てもらうほうが申し訳ないというか……」
遅出は閉店作業も含まれる。風香が生まれる前は私もシフトに入っていたが、帰宅が夜9時を回るから今は免除してもらっている。
『こっちこそ、明日休みだったのに無理言ってごめん!』
「ううん? わかった。お大事にね。また明日、連絡する」
『ありがとっ!』
とりあえず元気そうな真砂子に安心しながら、私は電話を切った。
遅出となる勤務時間は午後からだ。いつも通りに風香を保育園に預けるといったん帰宅する。そのあと、風香の夕食用の離乳食やおばさんのための夕食を準備した。何度も来てくれていて合鍵も預けてあるが、念のため着替えなどもわかりやすい場所に置いて家を出た。
今日は一日雨予報。朝はそれほどでもなかった雨は、だんだんとその雨足も強くしていた。
(今日はお客様も少ないかも……)
急な豪雨の雨宿りで不意に混み合うことはあるが、一日中雨の日はどちらかと言えばお客様は少ない。特に今日は、夜にかけて降る予報で、閉店時間には来客も少ないだろうと予想し、まさにその通りになっていた。
「雨、結構降ってましたよ」
外にゴミを捨てに行き戻った桃ちゃんの肩口は雨で濡れている。
「やっぱり? さっきのお客様も結構酷い雨だっておっしゃってたから。今日は閉店作業も早く終わりそうだし、桃ちゃんは時間がきたらすぐ上がってね」
「ありがとうございます。亜夜さん。じゃあ私、先に奥片付けときますね」
「うん。お願い」
時間は夜七時を回ったところだ。この店のラストオーダーはイートインなら七時半、テイクアウトは七時四十五分。さっきから客足は途絶えていて、今日はすんなり帰れそうだ。
結局そのあとも数人しか来店せず、いよいよ本格的に閉店作業に入ろうかと、備品の補充にかかりきりになっていて、その来客に気づいていなかった。
「すみません。オーダーよろしいでしょうか?」
カウンターに背を向けていた私はその声に慌てて振り返り、そして硬直した。
「い……のうえ、さん……」
「ご無沙汰しております。亜夜さん」
ライトグレーのスーツに身を包んだ井上さんは、変わらずのポーカーフェイスだ。
「お久しぶり……です」
井上さんは店に何度か訪れたことがあるとオーナーから聞いている。それも私が育児休暇を取っているあいだに。
オーナーには、『もし私の所在を聞かれても、実家の都合でしばらく田舎に帰っていると伝えて欲しい』と念押ししておいた。そして、その通り伝わっているはずだ。
「マキアートをお願いできますか?」
井上さんは何事もないかのように淡々とオーダーを口にする。構えていた私は拍子抜けして、肩の力を抜くとそれに答えた。
「かしこまりました。店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「閉店時間は八時ですがよろしいでしょうか?」
時間はギリギリ七時半になるところだ。店の中に残っているお客様も二人ほどしかいなかった。
「ええ」
短く返事をした井上さんは会計を済ませると、お渡し用のカウンターに移動する。井上さんが迷うことなくそちらに行くのを見て、ここに訪れたことがあるのを実感した。
すぐにエスプレッソマシンに向かい準備を始める。日本ではカフェラテのほうがメジャーだから、マキアートにしたのは私がローマで勧めたのを覚えてくれているのかも知れない。
「お待たせしました。マキアートです」
カウンターにカップを置くと井上さんはそれを受け取りながらまっすぐ私に向いた。
「亜夜さん。お尋ねしたいことがあります。お時間をいただけないでしょうか?」
「私に……ですか?」
心臓が音を立て、鼓動が早くなる。尋ねられるようなことに心当たりはない。立ち込める暗雲に足がすくみそうになりながら、それでも笑顔を作り言う。
「私で……お役に立てるなら」
45
あなたにおすすめの小説
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
傷痕~想い出に変わるまで~
櫻井音衣
恋愛
あの人との未来を手放したのはもうずっと前。
私たちは確かに愛し合っていたはずなのに
いつの頃からか
視線の先にあるものが違い始めた。
だからさよなら。
私の愛した人。
今もまだ私は
あなたと過ごした幸せだった日々と
あなたを傷付け裏切られた日の
悲しみの狭間でさまよっている。
篠宮 瑞希は32歳バツイチ独身。
勝山 光との
5年間の結婚生活に終止符を打って5年。
同じくバツイチ独身の同期
門倉 凌平 32歳。
3年間の結婚生活に終止符を打って3年。
なぜ離婚したのか。
あの時どうすれば離婚を回避できたのか。
『禊』と称して
後悔と反省を繰り返す二人に
本当の幸せは訪れるのか?
~その傷痕が癒える頃には
すべてが想い出に変わっているだろう~
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる