想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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 摩っていた手を止め、ギュッと腕を抱える。

(やっぱり見られてたんだ。でも……)

「違います。私、ローマから帰ってすぐ結婚したんです」

 見え透いた嘘にしか聞こえないだろう。でも、肯定するわけにはいかない。けれど、はっきりと言い切った私に、彼は首を振った。

「……いいえ。ご友人を騙すような真似をして申し訳ないとは思いましたが、誘導質問させてもらいました。亜夜さん。あなたは結婚されていない。そして、お子さんは去年の八月に生まれた、と」

 井上さんにかかれば、それくらい聞き出すのは造作もないだろう。あのとき真砂子の様子がおかしかったのは、きっと秘密を話してしまった罪悪感からだ。

「だからと言って相手が薫さんとは限らないじゃないですか。とにかく、違い……」
「亜夜さん」

 話を遮るように名前を呼ばれ顔を上げる。こちらを向く井上さんの顔は、どこか悲しげに見えた。

「薫さんには言いません。私を信じてください」

 赤く照らされていた車内がパッと青く切り替わる。井上さんはまたハンドルを握ると車は走り出した。

「井上さんは、今でも薫さんの秘書をされているんですよね? 隠し事をしてなんのメリットがあるんですか?」
 
 雨で滲むフロントガラスを眺めながら、突き放すように言う。何か裏があるのかもと勘繰ってしまう。けれど、彼のことをそう知っているわけではないが、そんな人じゃないと信じたい気持ちもあった。

「そうですね。今でも間近で薫さんのことを見ていますよ。そして、これからもずっと支えたいと思っています」
 
 いつのまにか雨は小降りになり、ワイパーの動きも緩やかになっていた。落ち着きのある、ゆったりとした少し高めの声が耳に届くと、その言葉に納得していた。
 薫さんは井上さんと安藤さんに絶大な信頼を寄せていた。三人のあいだには、上司と部下という枠を超えた、絆があるようだった。

「それでも……」

 彼はまた言葉を続けると、いったん間を置く。

「……知ってしまったからには、放っておくことはできないと思ったんです。亜夜さんは、私たちの会社の恩人です。その恩人がもし困っているなら、今度はそれに手を差し伸べたい。そう思っただけです」
「恩人なんて……大袈裟です」
「そんなことはありません」

 そして彼の口から、ローマでのその後の出来事が語られた。婚約者としての私を気に入ってくれたエドが、薫さんの会社と契約してくれたこと。そしてあの、アルテミスを任されていること。

「じゃあ……皆さんがあのお店を?」
「ええ。最初は経営まで任される予定ではなくて。苦労はしましたが、いい店になったと思います」
 
 とても柔らかな口調で言う井上さんは、少し笑みを浮かべている。店のことが大切だと伝わってくるようだ。

「とても……素敵なお店でした。イタリアにいるんじゃないかって錯覚するほど。それに……。コーヒーを愛しているんだなって、伝わってきました」

 たった一度だけ立ち寄ったその店を思い浮かべる。雰囲気のあるバンコ、緑豊かで癒されるテラス席。ずっとここにいたいと思えるような場所だった。

「ありがとうございます。アルテミスは、初めての一大プロジェクトなんです。食材だけを卸すはずが経営まで任され、一年と少しのあいだ、開店に向け情熱を傾けました」

 そう語る横顔は、とても満足そうだった。大変なことはたくさんあっただろう。何も無いところから、あれだけの店を作り上げるのは、並大抵のことではなかったはずだ。けれど今は、その努力が実ったと実感しているのかも知れない。何かを思い起こすように、井上さんは話を続ける。

「私も薫さんも、この一年半、何度も何度もイタリアを行き来しました。特に最初の半年は日本にいる時間のほうが短かったくらい。日本に落ち着いていられるようになったのは、今年に入ってからです」
「とても……お忙しかったんですね」
「えぇ。人生で一番働いたと思います」

 ハンドルを握り、前を向いたまま彼は笑みを浮かべる。その穏やかな口調に、いつのまにか緊張も解けていた。
 気がつけば雨は止んでいて、ワイパーの音も消えていた。だんだんとくっきりと見え始めたガラスの向こう側は、見覚えのある景色に変わっていた。

「あ、あの公園の見える辺りで降ろしていただければ……」

 すぐにそこに辿り着くと井上さんはウィンカーを出し、車を停めてこちらを向いた。

「最後に一つだけ、いいでしょうか」
「……なんでしょうか」
「薫さんは亜夜さんのこと、忘れていませんよ」

 柔らかな優しい口調と表情。私のためだろうその言葉に、胸の奥にズキリと痛みが走っていた。
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