想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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 それから車内で、コーヒーの話を楽しんだ。お店でもあれこれ説明はしたが、もっと聞きたいと言ってくれ、ついつい熱く語ってしまった。

「本当に亜夜さんはコーヒーのこととなると人が変わったようですね」
「私ばかりお話しして、お恥ずかしいです」
「いえ。いいんですよ。その方が貴女らしい」

 話せば話すほど、大人の男性の余裕を感じてしまう。けれど時々、そこに薫さんに似た影を感じて胸が痛くなってしまう。

(夢を見ているのは、私のほうだ……)

 井上さんには、ほとぼりが冷めるのを待つ、なんて偉そうにいいながら、本当はずっと夢見てしまう。いつか薫さんの横に、また並ぶ日が来ないだろうか、なんて。

(いつか、この傷も癒されて、痛みを忘れる日がくるのかな……)

 棘が刺さったままの心に痛みを感じながら、窓の外を眺め一人息を吐いた。

  保育園は、前に降ろしてもらった公園の先にある。近くのパーキングに車を停めると、井上さんは保育園の外で待つと私に告げた。風香を迎えに行き園を出ると、彼は少し離れた場所で待っていた。すぐ近くにいなかったのは、他の保護者の目に配慮したからなのかも知れない。

「いいところですね」

 過ごしやすい五月中旬の夕方。帰りに通り抜けている公園は、この辺りでは一番大きく、散歩をする人や遊んでいる親子の姿があった。家までの近道のこの公園を一緒に歩きながら、井上さんしみじみとした表情を見せていた。

「はい。この前一緒にいた友だちの地元で。紹介してもらったんです」
「あぁ、彼女の。そう言えば今日はお見かけしませんでしたね」
「早出が多いんで、今日は帰ったあとだったんです」

 たわいもない話をしながら遊具のある場所を通りすがると、見覚えのある男の子が駆け寄って来た。

「ふうちゃんママだ! 今帰るの?」

 同じ園の、確か年中クラスのお兄ちゃん。彼の妹が風香と同じクラスで、迎えの時間が似ている私のことを覚えていたようだ。まだ他の保護者とは顔見知り程度。でも子ども達のほうがよく覚えていて、気軽に話しかけてくれるのはなんだか嬉しい。

「こんにちは。あやとくんは、遊んでたの?」

 前に本人から、得意げに教えてもらった名前を呼んで話しかけると、「うん! 今日はちょっと早いから遊んでいいよって」と笑顔で返してくれた。

「あっ! 綾斗!」

 離れたところで声がして、彼のお母さんが赤ちゃんを抱っこしたまま走って来る。

「ふうちゃんママ! ごめんね。綾斗が」
「いえ。覚えてくれてて、嬉しいです」
「ほんとにもう! 勝手にいっちゃダメでしょ!」

 息子を叱ったあと顔を上げた彼女は、私たちを見て驚いた表情をしていた。

「えっ? 井上さん? ふうちゃんのパパ、井上さんだったんですか?」

 思いも寄らないことを投げかけられ隣を見ると、井上さんは驚く様子もなく笑みを浮かべていた。

「ご無沙汰しています。唐橋からはしさん。お元気そうでなによりです」
「本当に。新会社に移られたとき以来ですよね。それにしても、結婚されたなら教えてくれてもよかったのに!」

 彼女は明るい笑顔で井上さんと話している。内容からして、お仕事の付き合いのある相手のようだ。

「してませんよ、結婚は。彼女は友人です」
「あっ、そうなんですね? すみません、早とちりしちゃって」
 
 唐橋さんは、苦笑いを浮かべて私たちに小さく頭を下げた。

「そう言えば社長はお元気ですか? またうちにも顔見せに来てくださいって伝えてください。他の社員も待ってますから」
「ええ。変わりなく過ごされています。唐橋さんがそう言っていたとお伝えしておきます。きっと社長も喜ぶでしょう」

 穏やかでゆったりした口調で井上さんが返していると、大人たちの会話に飽きたのか、綾斗君が母の手をすり抜け走り出した。

「こら綾斗! すみません、これで失礼します」

 そういって頭を下げると、彼女は忙しなく綾斗君を追いかけ走って行った。

「お知り合い……だったんですね」
「前の職場が一緒だったんです。薫さんの……お父上が経営する会社です」
「やっぱりそうでしたか……」

 話しぶりから、彼女の言う社長が薫さんを指している気はした。こんなに近くに薫さんを知る人がいるなんて、と途端に怖くなる。もし、風香の父が誰なのか知られてしまったら……と。

「大丈夫ですよ。私の友人と薫さんが結び付くはずもないですから」
「そう……ですよね」

 まだ不安はある。それでも井上さんの柔らかな物腰に、気持ちは楽になっていた。

「それよりも。見てください。風香さんがやっとこちらを向いてくれましたよ?」

 人見知りからか、私に抱かれていた風香はずっと彼のほうを見ようとしなかった。けれどやはり気になっていたのか、それとも慣れてきたのか、今はじっと、薄っすらと笑みを浮かべる井上さんを見上げていた。
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