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プロローグ

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「この世界を手に入れて。そうしたらあなたを愛してあげます」

 白い砂が大地を覆うウルド砂漠。今は遠く忘れ去られた古代の神殿。青白い月明かりの下でリリーは確かにそう言った。もはや身を守ってくれる兵隊や権力などない。それなのに、頼みごとのときですら皇女としての威厳と矜持を隠さなかった。

──今だって世界は君のものだ。君の世界に僕はいないのか?

 レインは悲しく、そして虚しかった。リリーを拒絶することもできた。しかし、夜風になびく銀髪、さくら色の薄い唇、破れかかったドレスから覗く白い胸元……リリーのすべてが純粋であろうとするレインを惑わせる。

──君はどこまで傲慢なんだ。いっそ嫌いになれたらどれほど楽だろう……。

 レインは複雑な感情を抱きながら白い砂を踏みしめた。着慣れた甲冑も今はなまりのように重い。辺りを見渡せば、柔らかな月光が砂漠に埋もれた古代神殿を優しく包みこんでいる。月色げっしょくに祝福されたリリーは神殿に舞い降りた女神のようで、魅力に抗うことなどとてもできそうになかった。

「わかった……僕は君のために戦う」
「それは本当ですか?」
「うん……君のためにすべてを手に入れる」

 どれだけ軽薄で青臭い言葉だっただろうか。それでもレインは本気だった。悲しげにまたたく青い瞳に魅入られ、言葉の裏側にある残酷な真意になんて気づかなかった。

「リリー……」
 
 レインは崩れかけた神殿のなかを静かにリリーへ歩みよる。目の前には世界へ反旗をひるがえす皇女の華奢な姿があった。

──僕が味方にならなくてどうするんだ。

 どれだけ想っていてもレインの気持ちがリリーへ届くことはない。多分、それは初めて出会ったときからわかっていたことだった。レインは焦がれる気持ちを必死になって抑えこみ、皇女の従順な戦士であろうとした。

「リリー・ルキウス・グランヒルド・フレイヤ。あなたの『砂漠の狼王ウルデンガルム』は、あなたのために最期まで戦う」
「嬉しい……約束ですよ」

 リリーは微笑みながら右手を伸ばしてそっとレインの頬に触れる。ひんやりとした感触が伝わってくるとレインは身体中の血管が強く脈打ち、胸の奥底が熱くなるのを感じた。その瞬間……。

 月光とは別の淡い緑色の光が神殿内部を照らし出した。レインとリリーは慌てて身構えながら周囲を見回す。すると、半壊した壁面の上空で緑色に輝く光の粒が渦巻いていた。

 光の粒は巨大なつむじ風のように夜空へ伸びていたが、やがて何もない空中に建物や人を形作ってゆく。それらは『巨大な塔』と『塔を目指して歩く人々』、そして『塔へ向かって吠える狼』だった。

 レインとリリーは緑色に煌めく立体的な映像に言葉を失い、ただ茫然と見つめることしかできなかった。少したつと、リリーがレインの隣へ並び、右手でレインの左手を強く握る。

「『昏い静寂の塔アグノス』……」

 リリーは夜空に浮かぶ塔を見つめながらつぶやいた。

「あれは帝都グランゲートにある『昏い静寂の塔アグノス』よ。……これはきっと天啓てんけいいにしえの神々がわたしに『帝都を目指せ』と告げているの。ねえ、レイン。そうは思わない?」

 レインを見上げる青い瞳には冷たい狂気が宿っている。リリーは『わたしが皇女という選ばれた存在だからこそ、人智を超えた現象が起きている』とでも言いたげだった。しかし……。

「……」

 レインは何も答えなかった。険しい顔つきで緑色の光が織りなす世界を睨みつけている。その表情はまるでと会話でもしているかのようだった。

「レイン? どうしたの?」
「ご、ごめん……」

 リリーが不安げに呼びかけるとレインはようやくリリーへ視線を戻す。レインの表情からは険しさが消え、いつもの優しげな青年に戻っていた。リリーは安心したのか、今度はわざとらしく少し頬を膨らませた。

「こんなときに脅かさないで。からかわれるのは嫌いなの」
「からかってなんかいないよ」

 レインは柔らかな笑みを浮かべながら首を振る。かと思えば突然、リリーの肩へ手を回して優しく抱き寄せた。

「君をからかってなんかいない……」

 繰り返された言葉は真剣そのものだった。リリーは鍛え抜かれた腕のなかで青い瞳を大きく見開いた。腕を振りほどこうと思えばできるのに、何故かそうしない。

「レ、レイン……?」

 リリーは動揺を隠せないといった様子で、耳まで真っ赤にさせてゆく。レインはそんなリリーの耳元へ唇を近づけると、湿度のある低い声でささやいた。

「リリー……君に聞いて欲しいことがある」
「え、ちょっと……」

 リリーは戸惑い、切なげに眉を寄せながら首をすくめる。

「ねえ、急にどうしたの? くすぐったいわ……」

 普段のリリーからは想像もできないような、甘く切ない声だった。身体もかすかに強張こわばっている。両手から伝わってくる感触と体温はレインへ静かに覚悟を促した。レインは視線を上げて前を見すえる。涼やかな目元には悲壮な覚悟をにじませていた。
 

「君が光ある明日を生きるなら、僕の命が無限の極夜に尽きてもかまわない」


 決意に偽りなど微塵みじんもない。レインが恐れることはただ一つ。愛する人が世界を憎んだまま、消え去ってしまうことだった。

「『砂漠の狼王ウルデンガルム』は必ず約束を守る……」

 リリーを抱きしめる力が少しだけ強くなる。リリーは気づかなかったが、レインの眼差しはだんだんと鋭くなっていった。視線の先にはやはり、緑色の光を放つ塔がある。その光は、地平線の彼方から太陽が昇るときに見せる一瞬の輝き、緑閃光りょくせんこうに似ていた。
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