ゆめこさん、みえてる。

兎塚クニアキ

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■8/むーこ先輩、応援する。(上)

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 次の日。
 野球部の練習はなかった。グラウンドの狭い我らが定道高校では、その使用権は部活持ち回りだ。野球部の他にグラウンドを使用するのはサッカー部、ハンドボール部、陸上部。これら四つの部活が、一日おきに午前か午後に利用できるというわけだ。

 公立高校らしいといえばそれまでなのだが、我が校の運動部が総じてあまり強くないことにはそういうワケがある。限られた練習時間で活動している定道高校の野球部と、専用のグラウンドが用意されている私立高校の野球部の力量差は、これからも埋まりそうにない。

 練習試合が組まれた時は、近くにある公共のグラウンドで活動することになっているのだから、普段の練習もそうすればいいのに……と僕は常々思っている。

 まぁそんなわけで、今日は一日フリーだ。休みなら休みで、気楽に過ごすことにした。
 とは言っても練習がないというのは、それはそれで落ち着かない。後で待ち合わせしているむーこ先輩の手伝いをするにしても、先に身体を動かしておきたかった。
 午前中に今日の分の宿題は済ませたことだし、本格的に活動する前に自主練することにした。バットケースをかついで自室を出る。

「出かけるのか」

 そこで、同居人の叔父と鉢合わせた。そうか、今日は夜勤なんだ。

「はい、ちょっと練習に出かけようかと」

 叔父はあまり感情を表に出さない。故に、普段から叔父と僕は会話をあまりしなかった。でも今日はどうしたことか、顔を合わせるなり声をかけてくるなんて。
 珍しいこともあるもんだ。不気味ですらある。

「そうか」

 ぶっきらぼうに答えた叔父の目線が、僕の持ち物に向けられた。

「野球、楽しいか」
「……はい、楽しいです」
「そうか」
「……」

 正直に言うと、彼との会話は苦痛だった。互いに無理矢理言葉を探して、弾まない会話の繰り返し。僕に興味がないのは僕も分かっているのだ。それならいっそ放っておいて欲しい。

「もうすぐ定期検診だ。忘れるなよ」

 叔父も僕に声をかけたことを後悔しているのか、早々に切り上げようといつもの話を振ってきた。これが、僕らのコミュニケーションの終わりの合図。


「……それじゃ、行ってきます」

 だから僕もそのつもりで、答えになっていない言葉を返した。いってらっしゃいの挨拶は、今日もなかった。


     ●


「こんにちは、尚理くん」

 玄関を出ると、むーこ先輩がいた。

「——どうしたんですか、こんなとこまで」

 待ち合わせの時間まではまだ余裕がある。わざわざ迎えに来なくても、二時間後には会うはずだった。

「今日も練習するのかと思って学校に行ったんだけど、サッカー部が使ってたから。近くの公園にもいなかったし、どうしてるのかと思って」

「ああ、なるほど……」

 むーこ先輩は元から待ち合わせ時間より前に僕と会うつもりだったのか。今日は部活がないことを伝えておけば良かったと今更ながらに後悔する。

「今日は宿題やってたんですよ。夏休みとはいえだらけてるわけには行かないですから」
「ふーん、でもバット持ってるじゃない」
「先輩と会う前に自主練しておこうと思って……タイミング悪かったですね」

 学校やら公共グラウンドやら、無駄に歩かせてしまった。申し訳ない。

「そんなことないよ、散歩と思えば楽しいから。幽霊やってるの、暇だし。これから練習するならむしろタイミング良かったぐらい。ねぇ、今日も見学していい?」
「それは全然構わないですけど……」

 しかし、毎日素振りを見ていて飽きないのだろうか、先輩は。どうせならバッターボックスに立ったり、ポジションについている所を見せられれば刺激もあるのだろうけど。残念ながらたかが球拾いの僕にそんなチャンスが巡ってくるはずもない。そもそも今日は部活は休み。仮に僕がレギュラーだとしてもチームプレイは見せられないだろう。

「あ」

 ——バッターボックス。

「そうだ」

 なら、別にチーム練習である必要はないじゃないか。昨日、刹樹が教えてくれた場所を思い出して、僕は先輩に提案する。

「むーこ先輩、バッティングセンターって行ったことありますか」
「ないよ?」
「じゃあ、今日は素振りじゃなくてそっちにしましょうか」
「おお! 打つの? ボール打つの?」
「打てるかは分かりませんけど、少なくともボールは飛んできますよ」
「やったー! たくさん打って格好いいところ見せてよね! 目指せホームラン!」
「はは」

 先輩が楽しそうでなによりだ。ホームランは打てるか分からないけれど、今までの素振りの成果が出せたらいいな、なんて。はは。


     ●


 相変わらず寂れたバッティングセンターだった。メダル販売機やバットのレンタルなどをする屋内は、壁紙があちこち剥がれていた。中庭に通じている扉を開けると、そこには一〇のバッターボックスが用意されている。屋内に比べると随分と綺麗な印象を受けた。ピッチングマシーンは新しいし、安全のために張られたネットもぴかぴかだ。

 やっぱり寂れてるのは中だけか。変わらないなぁ。

 夏休みということもあって、なかなか盛況だ。バッターボックスは全部埋まっていて、僕らは現在順番待ち。あちこちから金属バットがボールにミートする小気味良い音が聞こえてくる。カキィーン。

 他の客のフォームとかをチェックしているうちに、あっという間に自分の番が回ってきた。
 入店時に購入したメダル——一枚二五〇円、二五球——を機械に投入する。

「ね、ね。尚理くんは何キロに挑戦するの?」
「久々だし、とりあえず八〇キロぐらいから」

 ほどなくして、ブザー音と共にピッチングマシーンのライトが青く点灯した。
 直後、機械の腕が勢いよく振り抜かれる。来た。
 しかし初球は見送る。弾道が低い。ネットに張られたプラスチックボードに球が激突して、乾いた音が後方で響いた。次の送球の合間を縫って、僕は弾道を上げるためにスイッチを連打。そういえばここ、いつも最初は低い球を投げてくるんだった。

 スイッチを操作している間にももう一球吐き出される。残り二三球。

「がんばれーっ」

 後ろでむーこ先輩が声を張り上げた。周りに聞こえてないからいいんだけど、バッティングセンターで声援を受けるのは気恥ずかしい。
 だけど次の球は見逃さない。意識からむーこ先輩を追い出して集中する。回転がかかった球の縫い目が確認出来た。八〇キロの速度で飛んでくるボールは、球威が弱くて徐々に落ちていく。お辞儀するようなそのモーションをじっくり観察して、

「————ッ」

 振った。当たった。手応えが来た瞬間には、ボールは弧を描いて前方に飛んでいた。

「わー! すごいすごい!」

 ごめんなさい凄くないんです……。球のお辞儀を意識しすぎた。球の底面をこするように当ててしまった結果、ボールは見事なピッチャーフライ。ワンナウトー。

 しかしこれで弾道は読めた。機械ゆえにぶれの少ないピッチングをしてくれるおかげで、次は狙える。外すわけない。

「む」

 だけど外した。タイミングが早すぎたようで、バットを振った後にボールが脇をすり抜けていく。
 ストライーク。


 ——メダル一枚目の結果は散々だった。

「むー、中々当たんないね」

 先輩が頬を膨らませてご機嫌斜め。そりゃそうだ。二五球中、まともにあたったのは最初に打ったピッチャーフライだけだった。

「練習不足です。面目ない」
「次は打ってよね、ホームラン!」
「打てるといいですよね……打ちますか……」

 とはいうものの、今ので思いっきり自信がなくなってしまった。チャートにしたら大暴落だ。僕の毎日の素振りはなんだったんだ……。

「それじゃいってみよー!」

 と、むーこ先輩は元気いっぱいに言ってくれるのだが、その前に。

「いや、順番待ちしてる人多いですから。また待ちましょう」
「えー」
「えーじゃないの」

 ふて腐れるむーこ先輩をなだめて、ボックスから出る。次の人はもうネットの外で待っていた。いまの情けないバッティングを見られたかと思うと恥ずかしさがこみ上げてくるが、どうせ知らない人ならあまり気にならない。知らない人だった、なら。

「……空見先輩、なにぶつくさ独りで喋ってるんすか」

 僕の後ろで順番待ちをしていたのは、方邊くんだった。やべ。


     ●


 方邊くんは流石だった。僕が使っていたピッチングマシーンで、最高速度である一一〇キロの球を難なく打っていく。結果で言えば、二五球中フライが五、空振りが四、内野安打が一〇、長打が六といったところだろうか。機械の癖を読み切った見事なバッティングだ。
 ボックスの後ろで方邊くんのバッティングを見学していた僕とむーこ先輩はその迫力に圧倒されていた。

「……凄いね、この人」
「野球部のレギュラーですからね」

 人間相手だったらこうは行かないだろうけど、それでも凄い。

「また独り言っすか」

 ネットをくぐって出てきた方邊くんに白い目を向けられる。そうだった、彼にはむーこ先輩は見えていないのだ。彼女との会話はとりあえず控えておいた方が良さそうだ。

「根暗に見えますよ」
「元々根暗だよ、僕は」
「そうでしたね」

 ぐう、相変わらず失礼な後輩だ。分かっちゃいるけど尊敬されてないよなぁ。

「で。なんすか、さっきのバッティング」
「え、僕の?」
「……他に誰がいるんだよ」

 むーこ先輩がいるけど。彼女はバットを握れないし、まぁ僕しかいないか。
 そういえば、先輩は自転車に座ったり電車に乗ったり、それこそ普通に道を歩いていたりするけれど、物は掴めないのか。そもそも先輩に会うまで僕は幽霊は空を飛ぶものだとばかり思っていた。幽霊という存在がどこまで物理法則に従わなきゃいけないのかよく分からない。感覚的な問題なのだろうか。意外と適当だよね、そこら辺。

 閑話休題。

「で、僕のバッティングがどうしたって?」
「野球部員のくせにさんざんな結果だってことぐらい、わかってますよね」
「……それは、まぁ」

 ほとんど空振りだったし。返す言葉もございません。

「八〇の球が打てないのは流石にやばいだろ。先輩、どれだけ球打ってなかったんすか」

 えーと、最後に球を打ったのはいつだったっけ。そうだそうだ、新入部員のピッチング練習の数あわせにバッターボックスに立って以来だから、

「大体三ヶ月とか四ヶ月ぶりじゃない?」

 他は球拾いだったし。一人で自主練している時なんかは、ノックを打つ要領で自分で球を上に放ってミート練習をやってたりしたけど。あれは「打った」には入らないだろう。

「……ほんと、よく続けてるよな先輩。俺だったらやめてるわ」
「根暗だけどしぶといからね」
「ゴキブリかよ」
「あのねキミ、流石に言い過ぎだと思うよ」

 後輩にゴキブリ呼ばわりされる日が来ようとはおもわなんだ。隣ではむーこ先輩が、方邊くんに見えないのをいいことにあっかんべーしている。やめなさい。

「——ったく、ホントになんで野球続けてんだか」

 方邊くんが独り言のように呟いた。独り言なら聞こえないところでやれ。

「そんなに辞めて欲しいのか、僕に」

 つい口調が喧嘩腰になってしまう。おかしいな、僕ってこんなキャラだったか。頭の奥は冷静なのに。口が脳に追いついていない。

「この際だからはっきり言うけど、キミにお願いされたところで僕は辞めるつもりないよ」
「……あん時は言い過ぎました。すんません」

 しかし方邊くんは目線を逸らして謝ってくる。意外すぎる返事に思わず面食らってしまった。

「ず、随分素直だね。やる気のない僕が嫌いなんだろ」

 どうして僕が突っかかっていくんだろう。これじゃあ、前回の言い合いの時と立場がまるで逆だ。僕は彼を怒らせたいのか?

「——フォーム」
「は」
「だから、フォームだよ。前見たときと大違いだ。流石に毎日部活終わった後にも素振りしてるだけはありますね」
「……っ、方邊くんまさか」

 目の奥がカッと熱くなるのが分かった。どうして彼が自主練のことを知っているんだ。

「まさか、刹樹に聞いたのか」

 だとしたら、なんてことを言ってくれたのだ。なんで、よりにもよって方邊くんに。僕を目の敵にしている彼に。方邊くんだけには知られたくなかった。
 知られたら、鼻で嗤われるに決まっている。その証拠に、彼はいま口元を歪めて腹の立つ微笑を浮かべているじゃないか。恨むぞ、刹樹。

「いや、刹樹先輩には俺が教えました」
「…………なんだって」
「たまたま見たもんで。先輩の自主練」
「…………」
「だから、あんたにやる気があるのは知ってる。なのに、いざ部活になると球拾いに甘んじてる先輩に腹が立ったんすよ。でも言い過ぎた」

 だから、すいませんでした。今度は頭を下げて、謝ってくる。

「……やめろよ、そういうの」

 キミは僕を嫌ってるはずだろ。機会があればつっかかってくる、いけすかない後輩だろ。そしてキミにとっての僕は、向上心のない冴えない奴なんだろ。

「謝らないでよ、今更」

 僕が——僕だけがガキみたいじゃないか。

「ま、あんたと俺は犬猿の仲がお似合いだとは自分でも思いますけど」
「ならどうして」

 どうして、そんな風に言うんだ。

「同じ野球部だろ。言いっ放しは嫌だったんで」
「………………」
「あんたが俺をどう思おうと勝手っすよ。俺の言葉を聞きたくないなら別にこれからも適当にあしらってくれていい」

 この野郎。

「ただ、どうせならライバルは欲しいところっすよね」

 いきなり現れて、いきなり謝ってきて、挙げ句の果てにはライバルが欲しい? 僕に言うなよ。他にもいるだろ、野球部員。

「他のライトは気の抜けた奴ばっかすからね」

 僕の思考を読むように、彼はそんな風に言う。いやいや、抜けた奴ばっかじゃないから。

「僕を過大評価しすぎだろ」
「さぁ、どうすかね」

 ——やめよう、もう。なにを言っても暖簾に腕押しだ。これじゃホントに、僕はただのかっこ悪い奴だ。


     ●


 もう一度見せてみろと方邊くんがいうもんだから、僕は彼の目の前でもう一度バッターボックスに入る。彼の言いなりになるのは癪だったが、あれ以上つっかかるとますます僕が面倒くさい奴に思われそうなので素直に従うことにした。
 メダルを入れる。球速は八〇キロ。マシンのライトが点灯した。
 球に合わせて思い切りバットを叩き付ける。空振りだった。

「先輩、フォームはマジでいいっすね」
「……またそれかよ」

 来る。振る。ツーストライク。

「投げの方は見られたもんじゃないけど、打つ方は問題ないんじゃないすか」
「たかだか八〇の球が打てない僕にいう言葉とは思えない、ね……っ」

 振る。球は僕をあざ笑うかのように後ろのネットに突き刺さった。
 スリーストライク。バッターアウト。

「八〇だから打てないんじゃねーの」

 そりゃどういう意味だ。六〇や七〇だったら打てるっていうのか。

「……なっ」

 瞬間、僕は目を疑った。
 いままでとは段違いの速度の球が、白い軌跡を描いて僕の目の前を通過したのだ。
 これは恐らくこのピッチングマシーンの最大速度——一一〇キロ。

「なに勝手に速度を変えてるんだよ、ブランクがあるって言ったじゃないか。僕にこんな速い球打てるはずが、」
「いいから振ってみろって」

 バスンッ。言い合いしている間にも球は飛んでくる。これで二球見送り。

「振ってみろって言うけどね……ッ」

 マシンに次の球が装填されるのを見計らって集中——振った。
 バットに硬い手応え。甲高い金属音がボックスに響く。
 前に飛んだ。内野安打だ。

「……ど、どうして」

 信じられない。この僕に一一〇キロなんて打てるはずないだろ。
 でも、打った。打てた。今日出した初めてのヒットに、鼓動が速くなる。

「ウチの野球部、弱いつってもピッチャーは一二〇ぐらい出してきますよ。八〇なんてぬるい球投げる奴はいねーっす。先輩の目に慣れてるのはそんぐらいの速度ってことだ」
「……」

 もう一度振る。ミート。ジャストタイミングで振り抜いた。ボールが斜め上に飛んでいく。サードの頭は越えただろう。

「なにより、お辞儀する遅い球よか真っ直ぐ飛んでくるこっちの方が打ちやすいっすよね」

 ……悔しいけど、方邊くんの言うとおりだ。八〇の球より断然軌道が掴みやすい。ボールがバットに吸い込まれるように飛んでくる。
 楽しい——うん、やっぱり野球は楽しい。
 ボールを打つ感触で、僕はそんな当たり前の楽しさを取り戻した気がした。
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