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■9/むーこ先輩、応援する。(下)
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二人して屋内の自販機で水を買って、小休止。かなり打ち込んだ。メダル十枚連続投入は流石にキツい。
バッティングセンターも随分と人の数が落ち着いてきた。屋内にいるのは僕らだけだ。
プライベートな話題は今のうちに済ませておこうと、僕は話を切り出した。
「ねぇ、方邊くん。聞きたいことがあるんだけど——」
「なんすか」
ぶっきらぼうに彼は応える。聞いて良いってことだろうな。だよね?
「——あのさ、方邊毅さんって、知ってる?」
だから僕は思いきって聞く。元々、あとでむーこ先輩と方邊くんに会いに行こうとしていたところだった。会葬者リストに載っていた方邊毅のことを、僕らは調べなければならない。
「……そりゃ、俺の爺ちゃんっすけど」
僕の質問に、方邊くんは細い瞼を見開いて答えた。
ビンゴ。やっぱり血縁者。
「なんで先輩が爺ちゃんの名前知ってんすか」
「知り合いの知り合い、だからかな」
「はぁ?」
「なんでもいいじゃないか。とにかく、知り合いが毅さんに聞きたいことがあるんだ。よかったら紹介して欲しい」
「…………」
彼が怪訝そうな顔を僕に向ける。まぁ仕方ない。僕も知り合いにいきなり「祖父を紹介してくれ」なんて言われたら同じ顔をするだろう。
「どういう理由があってそんなこと言ってるのかは分からないっすけど、先輩相当ツラの皮厚いな。よりにもよって部活辞めろなんて言った俺に頼み事するなんて」
「それについては完全に同意。でも、キミにしか聞いてもらえない頼みなんだから仕方ないでしょうよ」
「……わっかんねえなホント」
そりゃこっちの台詞だ。
「で、どうかな」
「ただで教えるのは癪だ」
「……はっきり言うね」
「怪しすぎますから」
「それも同意」
「ふざけてんのかアンタ」
「大真面目」
「だろうよ……、んじゃこうしましょう」
方邊くんは立ち上がって、店内を見渡しながら言う。
「客も丁度減ってきたところだ。ここらで一勝負しましょうよ」
「は」
「はじゃねーって、ルールは簡単すよ。メダル一枚勝負。速度は一一〇。フライとか関係なく、二五球で飛ばした数が多い方の勝ちってことで。先輩が俺に勝ったら聞きたいこと全部答えますよ」
「いやいやいやいや、僕の『は』にルールを説明しろなんて意味は込められてないよ」
なんで野球部レギュラーと敗北が見えてる勝負をしなきゃならないんだ。
「勝てるわけないだろ、僕が」
「だから持ちかけてるんすけど」
「性格悪いな!」
「誰かさんに比べりゃマシだ」
マジで性格悪いな!
「俺から話を引き出したいなら勝負。これは譲りませんよ。どうしますか」
「どうするって言われても、」
どうすることも出来ない。むーこ先輩の知人を探す以上、方邊くんに話を聞くのは必須だ。ならば、
「……勝負するしか、ないじゃないか」
「ふん、まぁ万年球拾いにゃ負ける気しないけどな」
元気いいなぁ……。僕も勝てる気しないぞ。
「あ、俺が勝ったら言うこと一つ聞いて貰いますから」
「はぁ!?」
「先輩も失うもんあった方がやる気でるだろ。んじゃ始めますか」
方邊くんはさっさとバッターボックスに向かって歩き出す。
「待て! キミの言うこと聞くなんて承服してないぞ僕は!」
「なら勝てば」
こ、の、野郎……っ。
●
後ろで見られている時とは、緊張感が全然違う。ネットを隔てた隣のバッターボックスには方邊くんが既に準備を終わらせていた。
僕の後ろではむーこ先輩が目尻を吊り上げて、鼻息も荒く大声を出している。
「尚理くん、ファイトー! オー!」
オーは僕の台詞なんですけど。でもありがとうございます、と僕は頷いた。考えようによってはこっちは二対一。声援がある分、僕の方が有利だと思いたい。
しかし実際に勝つのは恐らく難しい。なぜなら定道高校野球部レギュラー陣において、方邊くんは一番打者だからだ。上位打線の特攻隊長である。
彼の安定した出塁率は、足の速さもさることながら、やはりその安定したバッティングに支えられている。センスがいい、といつもベンチから見ていて思っていた。素人目でセンスがいい思えるということは——多分、本物だ。
野球に詳しくない僕でもそれぐらいわかる。ウチみたいな弱小野球部にも強い人はいるんだ。だからこそ彼は一年生にしてレギュラー入りを果たしているのだと。
「でも、勝たなきゃなぁ……」
方邊くんのことだ。僕が負けても「可哀想だから教えてあげますよ」とはなるまい。
「なぁ先輩」
「なに。もう球くるよ」
「あんた、前に俺に『レギュラーに喧嘩売るほど僕は熱い男じゃない』って言ってたけど、そんなことねーじゃん——よっ!」
「……別に僕は……なっ」
不意打ちのごとく方邊くんが打つ。僕はタイミングを合わせられず完全に空振り。
これで一対〇。いきなり出遅れた。
「精神攻撃は卑怯だ」
「戦いの基本っす。そら、次来ますよ」
「くっ……!」
今度はなんとか当てる。ファールフライだけど、飛んでるから点数だ。方邊くんは当たり前のように安打。二対一……腹立つな。
「方邊くん」
「なんすか」三対二。
「……僕の自主練、たまたま見たって言ったけど」
四対三。
「いつから、知ってたの」
「んなこと、どうだっていいでしょ」五対四。
面白いように当たる。話しながらでも自分が集中できているのがよく分かった。
「キミさ」
「なんすか」六対五。外す気がしない。
「実は僕のこと、好きだろ」
「はぁあああッ!?」六対六。うん、よし。
「追いついた」
「おい、いまのは卑怯だろ!」
「精神攻撃は基本なんだよね」
「……ざってぇ……!」七対七。さすが方邊くん、一球で持ち直してきたな。
「で、どうなの、好きなの」
「大嫌いだよ!」
「奇遇だね、僕も嫌いだよ」
「そりゃ良かったなァ!」八対七——九対七。
「っはは! どうしましたか、もうバテたんすか!」
「……うるさいな」
しまった。久々に球を打ったせいか、左肘が言うことを聞かなくなってきた。ただでさえこの勝負の前にメダル十枚——二五〇球を相手にしてきたのだ。普段のの素振りよりも力を入れてしまっていたのか、負担が大きかったみたいだ。
だけど黙って立っているワケにもいかない。
目一杯の力で振り抜く。
一〇対八。
「キミ、どうして外さないの」
「理由はあんたが一番わかってんじゃねーのか」
「ホント、嫌味の上手い後輩だなぁ……口が減らないっていうか、さッ」十一対九。
こうして方邊くんと一緒にバッティングしていると、僕が野球部に入ったときのことを思い出す。
あの時はみんなの練習についていくのが精一杯で、とてもじゃないがこんな風にボールを打てるような技術はなかった。それでも他の部員と肩を並べて練習することは、僕にとって誇らしいことだった。ハンディキャップのある僕が、人並みにスポーツに取り組む。それだけのことで、本当に楽しかった。
練習にまともに参加出来なくても、ボール拾いばかりでも、その気持ちは変わらなかったんだ。だけど、いつしか僕はボールを拾うことに感動を覚えなくなっていた。摩耗した気持ちで、作業のように部活動に参加するようになってしまった。
だけど。
「思ったよりも打ちますね、先輩」
「僕も驚いてるよ」
僕を目の敵にしている後輩と勝負することで、僕は思い出す。
どうして僕が、興味のなかった野球に打ち込むようになったのか。
人並みに何かに参加出来るということが、確かに僕の存在証明になっていたのだと。
それはとても嬉しいことだったんだと。
そんな単純なことを、顔を合わせれば嫌味ばかり言い合ってたあの方邊くんが思い出させてくれた。
彼と打ち解けようなんて気にはならないが、胸の内に湧いてきたこの気持ちは無視できない。とても癪なことだけど、僕は方邊くんに感謝しているんだと気が付いた。
出来れば、こんな時間がこれから先も待っていることを願う。
「……けど」十二対九。
やっぱり、と僕は内心頷く。バッティングは正直だ。調子が落ちてきている。
「……」十三対九——十四対九。三振したことで、自分の限界が近いことを悟る。肘が上手く動かないどころか痛み出した。
「でも、打たなきゃ……!」
打たなきゃ、勝てない。
「……」十五対一〇。痛い。見た目はどうなっているか分からないけど、肘が腫れているのは間違いなさそうだ。完全に油断していた。最近調子が良かっただけに、この状態は予想外。
「……先輩、どうかしましたか」
「なんでもな、い……っ!」
十五体十一。
「どうしたの、外した、けど」
「い、いや……」
「集中しな、よ……!」十六対十二。
とはいえ、こっちも気は抜けない。なにせバットを握る感覚が麻痺してきた。左肘から先が自分の腕じゃないみたいだ。
「……ぐ、う……っ!」
十六対十三。
「追いついて、きた、ね……」
「なぁ、アンタもしかして」
語ることはない。バットを振る。十六対十四。
見たところ、彼はもうバットを振っていない。棒立ちでこっちを見つめていた。眉をひそめて、口を噤んでいる。厳しい表情だった。
十六対十五。あと一球で、追いつける。あと一球だ。打てば僕は彼と、肩を、並べて——。
「————あ、」
十六対十五。
「ああ……っ」
十六対十五。十六対十五。十六対十五。十六対十五。結局、最後まで互いのスコアがそれ以上伸びることはなかった。方邊くんは僕を見ていた。むーこ先輩は僕に駆け寄ってきた。
僕の手には、バットは握られていなかった。
遙か前方に、僕が放ってしまった金属バットが横たわっていた。
二つのピッチャーマシンの青いランプが消灯する。
——ゲームセット、だった。
●
僕は一度、左腕がまるっきり使えなくなったことがある。きっかけは、いうまでもなく両親を亡くしたあの事故だ。奇跡的に一命をとりとめた。それはいい。だけど、僕は左腕をめちゃくちゃにされた。
腕をもう一度自由に動かすために費やした時間は一年間。リハビリをする度に、驚異的な快復力だと医者は言った。でも、完全に治るまでは無理をするなと言われていた。そのために僕は定期的に病院に通い、定期検診を受け、リハビリを続けていた。
僕が野球部に入ったと知ったとき、医者は「良いことです」と喜んでくれた。
適度な運動はリハビリに繋がるらしい。
だが、過度な運動は必ず身を滅ぼすとも教えられた。だから、無茶をするなと。
つまるところ。
僕が野球部でレギュラーを取れない理由はこの怪我だ。野球の知識がないのも、投げる球が遅いのも、ただの後付けの理由でしかない。
どれだけ練習しても、たとえ後輩にバッティングだけは認められようとも。
この爆弾を抱えている限り、僕は絶対に試合に出られない。まともな練習にも参加出来ない。そんな僕をまだ野球部に置いてくれる監督はいい人なんだと思う。
「無理はしないでねって、あれだけ言ったのに」
バッティング勝負のあと、ギリギリ駆け込んだ病院。
僕の腕を見るなり、医者は苦い顔をした。
「……すみません」
「空見さんの身体ですから、そりゃ自由にしていただいて構わないですよ。診察が伸びれば病院にもお金が入ります。だけどね、医者としてお金目当てで『無理をしろ』なんて絶対に言わない。少なくとも私は患者の快復を最優先に考えているつもりです」
「……」
「空見さんはどうです。身体も治らずお金も払い続けるなんてバカみたいだと思いませんか」
その質問に、僕は言葉を返すことも、頷くことも出来なかった。
●
「怪我、治ってたんじゃねえのかよ」
律儀に病院までついてきた方邊くんは、僕の診察が終わるまで病院の外で待っていたらしい。彼は僕の左腕に付けられた三角巾をちらりと見て、不機嫌な顔で出迎えた。
時刻はもう十八時を回っている。
「……なんのことかな」
「とぼけないでくれませんか。刹樹先輩に聞いてるんすよ」
——刹樹め、余計なことを。
「睨みたいのはこっちっす。俺はあんたが全快してると思ったから勝負を持ちかけたんだ。これじゃあ俺のせいで……」
「キミが気にすることじゃないよ、僕自身の責任だから」
「……そうやって、格好付けてれば満足ですか」
「なんだって?」
方邊くんが、僕を睨み返していた。
「アンタが俺を嫌いなのは構わないっすけど——俺も、嫌いですけど——でも、俺から逃げるみたいに一人で背負い込むのは正直ムカつきます」
「……別にムカつかれたところで気にならないし」
それに、
「いいじゃないか。ライバルが減って」
まぁ、僕がレギュラーのライバルだなんて自己評価が高すぎると思うけど。
「……あんたなぁ……ッ!」
視界が揺れる。息苦しい。胸ぐらを掴まれたのだと、少しして理解できた。
方邊くんが怒号を撒き散らす。
「そういうところがムカつくってんだよ! 怪我してるなら怪我してるで、一人で練習してるなら練習してるで、他の部員に相談ぐらいしたらどうなんだ! あぁ!?」
相談か。相談したところで、僕の腕がどうにかなるというのか。野球が上手くなれるのか。
そんなわけないだろ。僕はなにも答えない。
「俺に相談はしたくねえだろうな! だけど、刹樹先輩はずっとあんたのこと心配してんだよ! 同じ野球部なら、少しくらい頼れよ!」
「……痛いよ、方邊くん」
「——っ」
「はぁ」
彼の手が離されて、ようやくまともに呼吸が出来た。
「——同じ野球部、か」
「なんか文句あんのか」
「ないよ。あと、キミは相談しろっていうけど。改めて相談する理由ももうなくなったよ」
僕は彼に背を向けて歩き出す。向こうで、むーこ先輩が濡れた瞳で僕を見つめていた。
「待てよ、理由がないってどういう、」
「——、————」
去り際に、彼に言葉を送る。
「そういう、わけだから」
それを聞いた方邊くんが、無言で近くのゴミ箱を蹴り上げるのが音で分かった。
●
帰り道で、むーこ先輩はなにも喋らないままだった。
僕も、なにも喋らなかった。
●
家に戻ると叔父は先に帰っていて。僕の腕を見ても、彼はなにも言わなかった。
どうせお金のことを考えているんだろう。余計に治療費をかけてしまうことには、僕も罪悪感を覚える。だから一言「ごめんなさい」とだけ伝えて、自室に戻った。
刹樹竜哉から電話がかかってきたのは、それからすぐのことだった。
『——方邊に話は聞いた。監督には俺が伝えとくよ』
「うん、悪いな」
『あと、あいつから空見に伝言があるんだ。内容はあとでメールする』
「……わかった」
方邊くんから伝言ね。なにを言われるんだか。
『……なぁ』
「なに」
『腕、そんなに悪いのか』
「方邊くんに話は聞いたんだろ。その通りだよ」
『…………そう、か』
僕は三角巾に包まれた腕を見ながら、方邊くんに最後に教えたことを思い出す。そしてそれをそのまま、一言一句違わずに刹樹にも伝える。
「医者がリハビリ含めて全治一年間だって。あと、治っても今後一切野球はするなってさ」
『……』
「だから僕はもう野球部じゃない」
相談する必要も、もうない。
「そういう、わけだから」
僕は刹樹の返事を待たずに電話を切る。
うん、そういうわけだ。
●
——僕は、野球を失った。
バッティングセンターも随分と人の数が落ち着いてきた。屋内にいるのは僕らだけだ。
プライベートな話題は今のうちに済ませておこうと、僕は話を切り出した。
「ねぇ、方邊くん。聞きたいことがあるんだけど——」
「なんすか」
ぶっきらぼうに彼は応える。聞いて良いってことだろうな。だよね?
「——あのさ、方邊毅さんって、知ってる?」
だから僕は思いきって聞く。元々、あとでむーこ先輩と方邊くんに会いに行こうとしていたところだった。会葬者リストに載っていた方邊毅のことを、僕らは調べなければならない。
「……そりゃ、俺の爺ちゃんっすけど」
僕の質問に、方邊くんは細い瞼を見開いて答えた。
ビンゴ。やっぱり血縁者。
「なんで先輩が爺ちゃんの名前知ってんすか」
「知り合いの知り合い、だからかな」
「はぁ?」
「なんでもいいじゃないか。とにかく、知り合いが毅さんに聞きたいことがあるんだ。よかったら紹介して欲しい」
「…………」
彼が怪訝そうな顔を僕に向ける。まぁ仕方ない。僕も知り合いにいきなり「祖父を紹介してくれ」なんて言われたら同じ顔をするだろう。
「どういう理由があってそんなこと言ってるのかは分からないっすけど、先輩相当ツラの皮厚いな。よりにもよって部活辞めろなんて言った俺に頼み事するなんて」
「それについては完全に同意。でも、キミにしか聞いてもらえない頼みなんだから仕方ないでしょうよ」
「……わっかんねえなホント」
そりゃこっちの台詞だ。
「で、どうかな」
「ただで教えるのは癪だ」
「……はっきり言うね」
「怪しすぎますから」
「それも同意」
「ふざけてんのかアンタ」
「大真面目」
「だろうよ……、んじゃこうしましょう」
方邊くんは立ち上がって、店内を見渡しながら言う。
「客も丁度減ってきたところだ。ここらで一勝負しましょうよ」
「は」
「はじゃねーって、ルールは簡単すよ。メダル一枚勝負。速度は一一〇。フライとか関係なく、二五球で飛ばした数が多い方の勝ちってことで。先輩が俺に勝ったら聞きたいこと全部答えますよ」
「いやいやいやいや、僕の『は』にルールを説明しろなんて意味は込められてないよ」
なんで野球部レギュラーと敗北が見えてる勝負をしなきゃならないんだ。
「勝てるわけないだろ、僕が」
「だから持ちかけてるんすけど」
「性格悪いな!」
「誰かさんに比べりゃマシだ」
マジで性格悪いな!
「俺から話を引き出したいなら勝負。これは譲りませんよ。どうしますか」
「どうするって言われても、」
どうすることも出来ない。むーこ先輩の知人を探す以上、方邊くんに話を聞くのは必須だ。ならば、
「……勝負するしか、ないじゃないか」
「ふん、まぁ万年球拾いにゃ負ける気しないけどな」
元気いいなぁ……。僕も勝てる気しないぞ。
「あ、俺が勝ったら言うこと一つ聞いて貰いますから」
「はぁ!?」
「先輩も失うもんあった方がやる気でるだろ。んじゃ始めますか」
方邊くんはさっさとバッターボックスに向かって歩き出す。
「待て! キミの言うこと聞くなんて承服してないぞ僕は!」
「なら勝てば」
こ、の、野郎……っ。
●
後ろで見られている時とは、緊張感が全然違う。ネットを隔てた隣のバッターボックスには方邊くんが既に準備を終わらせていた。
僕の後ろではむーこ先輩が目尻を吊り上げて、鼻息も荒く大声を出している。
「尚理くん、ファイトー! オー!」
オーは僕の台詞なんですけど。でもありがとうございます、と僕は頷いた。考えようによってはこっちは二対一。声援がある分、僕の方が有利だと思いたい。
しかし実際に勝つのは恐らく難しい。なぜなら定道高校野球部レギュラー陣において、方邊くんは一番打者だからだ。上位打線の特攻隊長である。
彼の安定した出塁率は、足の速さもさることながら、やはりその安定したバッティングに支えられている。センスがいい、といつもベンチから見ていて思っていた。素人目でセンスがいい思えるということは——多分、本物だ。
野球に詳しくない僕でもそれぐらいわかる。ウチみたいな弱小野球部にも強い人はいるんだ。だからこそ彼は一年生にしてレギュラー入りを果たしているのだと。
「でも、勝たなきゃなぁ……」
方邊くんのことだ。僕が負けても「可哀想だから教えてあげますよ」とはなるまい。
「なぁ先輩」
「なに。もう球くるよ」
「あんた、前に俺に『レギュラーに喧嘩売るほど僕は熱い男じゃない』って言ってたけど、そんなことねーじゃん——よっ!」
「……別に僕は……なっ」
不意打ちのごとく方邊くんが打つ。僕はタイミングを合わせられず完全に空振り。
これで一対〇。いきなり出遅れた。
「精神攻撃は卑怯だ」
「戦いの基本っす。そら、次来ますよ」
「くっ……!」
今度はなんとか当てる。ファールフライだけど、飛んでるから点数だ。方邊くんは当たり前のように安打。二対一……腹立つな。
「方邊くん」
「なんすか」三対二。
「……僕の自主練、たまたま見たって言ったけど」
四対三。
「いつから、知ってたの」
「んなこと、どうだっていいでしょ」五対四。
面白いように当たる。話しながらでも自分が集中できているのがよく分かった。
「キミさ」
「なんすか」六対五。外す気がしない。
「実は僕のこと、好きだろ」
「はぁあああッ!?」六対六。うん、よし。
「追いついた」
「おい、いまのは卑怯だろ!」
「精神攻撃は基本なんだよね」
「……ざってぇ……!」七対七。さすが方邊くん、一球で持ち直してきたな。
「で、どうなの、好きなの」
「大嫌いだよ!」
「奇遇だね、僕も嫌いだよ」
「そりゃ良かったなァ!」八対七——九対七。
「っはは! どうしましたか、もうバテたんすか!」
「……うるさいな」
しまった。久々に球を打ったせいか、左肘が言うことを聞かなくなってきた。ただでさえこの勝負の前にメダル十枚——二五〇球を相手にしてきたのだ。普段のの素振りよりも力を入れてしまっていたのか、負担が大きかったみたいだ。
だけど黙って立っているワケにもいかない。
目一杯の力で振り抜く。
一〇対八。
「キミ、どうして外さないの」
「理由はあんたが一番わかってんじゃねーのか」
「ホント、嫌味の上手い後輩だなぁ……口が減らないっていうか、さッ」十一対九。
こうして方邊くんと一緒にバッティングしていると、僕が野球部に入ったときのことを思い出す。
あの時はみんなの練習についていくのが精一杯で、とてもじゃないがこんな風にボールを打てるような技術はなかった。それでも他の部員と肩を並べて練習することは、僕にとって誇らしいことだった。ハンディキャップのある僕が、人並みにスポーツに取り組む。それだけのことで、本当に楽しかった。
練習にまともに参加出来なくても、ボール拾いばかりでも、その気持ちは変わらなかったんだ。だけど、いつしか僕はボールを拾うことに感動を覚えなくなっていた。摩耗した気持ちで、作業のように部活動に参加するようになってしまった。
だけど。
「思ったよりも打ちますね、先輩」
「僕も驚いてるよ」
僕を目の敵にしている後輩と勝負することで、僕は思い出す。
どうして僕が、興味のなかった野球に打ち込むようになったのか。
人並みに何かに参加出来るということが、確かに僕の存在証明になっていたのだと。
それはとても嬉しいことだったんだと。
そんな単純なことを、顔を合わせれば嫌味ばかり言い合ってたあの方邊くんが思い出させてくれた。
彼と打ち解けようなんて気にはならないが、胸の内に湧いてきたこの気持ちは無視できない。とても癪なことだけど、僕は方邊くんに感謝しているんだと気が付いた。
出来れば、こんな時間がこれから先も待っていることを願う。
「……けど」十二対九。
やっぱり、と僕は内心頷く。バッティングは正直だ。調子が落ちてきている。
「……」十三対九——十四対九。三振したことで、自分の限界が近いことを悟る。肘が上手く動かないどころか痛み出した。
「でも、打たなきゃ……!」
打たなきゃ、勝てない。
「……」十五対一〇。痛い。見た目はどうなっているか分からないけど、肘が腫れているのは間違いなさそうだ。完全に油断していた。最近調子が良かっただけに、この状態は予想外。
「……先輩、どうかしましたか」
「なんでもな、い……っ!」
十五体十一。
「どうしたの、外した、けど」
「い、いや……」
「集中しな、よ……!」十六対十二。
とはいえ、こっちも気は抜けない。なにせバットを握る感覚が麻痺してきた。左肘から先が自分の腕じゃないみたいだ。
「……ぐ、う……っ!」
十六対十三。
「追いついて、きた、ね……」
「なぁ、アンタもしかして」
語ることはない。バットを振る。十六対十四。
見たところ、彼はもうバットを振っていない。棒立ちでこっちを見つめていた。眉をひそめて、口を噤んでいる。厳しい表情だった。
十六対十五。あと一球で、追いつける。あと一球だ。打てば僕は彼と、肩を、並べて——。
「————あ、」
十六対十五。
「ああ……っ」
十六対十五。十六対十五。十六対十五。十六対十五。結局、最後まで互いのスコアがそれ以上伸びることはなかった。方邊くんは僕を見ていた。むーこ先輩は僕に駆け寄ってきた。
僕の手には、バットは握られていなかった。
遙か前方に、僕が放ってしまった金属バットが横たわっていた。
二つのピッチャーマシンの青いランプが消灯する。
——ゲームセット、だった。
●
僕は一度、左腕がまるっきり使えなくなったことがある。きっかけは、いうまでもなく両親を亡くしたあの事故だ。奇跡的に一命をとりとめた。それはいい。だけど、僕は左腕をめちゃくちゃにされた。
腕をもう一度自由に動かすために費やした時間は一年間。リハビリをする度に、驚異的な快復力だと医者は言った。でも、完全に治るまでは無理をするなと言われていた。そのために僕は定期的に病院に通い、定期検診を受け、リハビリを続けていた。
僕が野球部に入ったと知ったとき、医者は「良いことです」と喜んでくれた。
適度な運動はリハビリに繋がるらしい。
だが、過度な運動は必ず身を滅ぼすとも教えられた。だから、無茶をするなと。
つまるところ。
僕が野球部でレギュラーを取れない理由はこの怪我だ。野球の知識がないのも、投げる球が遅いのも、ただの後付けの理由でしかない。
どれだけ練習しても、たとえ後輩にバッティングだけは認められようとも。
この爆弾を抱えている限り、僕は絶対に試合に出られない。まともな練習にも参加出来ない。そんな僕をまだ野球部に置いてくれる監督はいい人なんだと思う。
「無理はしないでねって、あれだけ言ったのに」
バッティング勝負のあと、ギリギリ駆け込んだ病院。
僕の腕を見るなり、医者は苦い顔をした。
「……すみません」
「空見さんの身体ですから、そりゃ自由にしていただいて構わないですよ。診察が伸びれば病院にもお金が入ります。だけどね、医者としてお金目当てで『無理をしろ』なんて絶対に言わない。少なくとも私は患者の快復を最優先に考えているつもりです」
「……」
「空見さんはどうです。身体も治らずお金も払い続けるなんてバカみたいだと思いませんか」
その質問に、僕は言葉を返すことも、頷くことも出来なかった。
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「怪我、治ってたんじゃねえのかよ」
律儀に病院までついてきた方邊くんは、僕の診察が終わるまで病院の外で待っていたらしい。彼は僕の左腕に付けられた三角巾をちらりと見て、不機嫌な顔で出迎えた。
時刻はもう十八時を回っている。
「……なんのことかな」
「とぼけないでくれませんか。刹樹先輩に聞いてるんすよ」
——刹樹め、余計なことを。
「睨みたいのはこっちっす。俺はあんたが全快してると思ったから勝負を持ちかけたんだ。これじゃあ俺のせいで……」
「キミが気にすることじゃないよ、僕自身の責任だから」
「……そうやって、格好付けてれば満足ですか」
「なんだって?」
方邊くんが、僕を睨み返していた。
「アンタが俺を嫌いなのは構わないっすけど——俺も、嫌いですけど——でも、俺から逃げるみたいに一人で背負い込むのは正直ムカつきます」
「……別にムカつかれたところで気にならないし」
それに、
「いいじゃないか。ライバルが減って」
まぁ、僕がレギュラーのライバルだなんて自己評価が高すぎると思うけど。
「……あんたなぁ……ッ!」
視界が揺れる。息苦しい。胸ぐらを掴まれたのだと、少しして理解できた。
方邊くんが怒号を撒き散らす。
「そういうところがムカつくってんだよ! 怪我してるなら怪我してるで、一人で練習してるなら練習してるで、他の部員に相談ぐらいしたらどうなんだ! あぁ!?」
相談か。相談したところで、僕の腕がどうにかなるというのか。野球が上手くなれるのか。
そんなわけないだろ。僕はなにも答えない。
「俺に相談はしたくねえだろうな! だけど、刹樹先輩はずっとあんたのこと心配してんだよ! 同じ野球部なら、少しくらい頼れよ!」
「……痛いよ、方邊くん」
「——っ」
「はぁ」
彼の手が離されて、ようやくまともに呼吸が出来た。
「——同じ野球部、か」
「なんか文句あんのか」
「ないよ。あと、キミは相談しろっていうけど。改めて相談する理由ももうなくなったよ」
僕は彼に背を向けて歩き出す。向こうで、むーこ先輩が濡れた瞳で僕を見つめていた。
「待てよ、理由がないってどういう、」
「——、————」
去り際に、彼に言葉を送る。
「そういう、わけだから」
それを聞いた方邊くんが、無言で近くのゴミ箱を蹴り上げるのが音で分かった。
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帰り道で、むーこ先輩はなにも喋らないままだった。
僕も、なにも喋らなかった。
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家に戻ると叔父は先に帰っていて。僕の腕を見ても、彼はなにも言わなかった。
どうせお金のことを考えているんだろう。余計に治療費をかけてしまうことには、僕も罪悪感を覚える。だから一言「ごめんなさい」とだけ伝えて、自室に戻った。
刹樹竜哉から電話がかかってきたのは、それからすぐのことだった。
『——方邊に話は聞いた。監督には俺が伝えとくよ』
「うん、悪いな」
『あと、あいつから空見に伝言があるんだ。内容はあとでメールする』
「……わかった」
方邊くんから伝言ね。なにを言われるんだか。
『……なぁ』
「なに」
『腕、そんなに悪いのか』
「方邊くんに話は聞いたんだろ。その通りだよ」
『…………そう、か』
僕は三角巾に包まれた腕を見ながら、方邊くんに最後に教えたことを思い出す。そしてそれをそのまま、一言一句違わずに刹樹にも伝える。
「医者がリハビリ含めて全治一年間だって。あと、治っても今後一切野球はするなってさ」
『……』
「だから僕はもう野球部じゃない」
相談する必要も、もうない。
「そういう、わけだから」
僕は刹樹の返事を待たずに電話を切る。
うん、そういうわけだ。
●
——僕は、野球を失った。
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※初出2024年7月
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