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第三章 彼女の嘘

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「それにしてもさ」
「うん?」
「結衣は俺が言ったこと、信じてくれているんだな」 
「言ったことって?」
「『成り代わり』だよ。『ひのき』じゃ、実際に見ないと信じきれないって言ってただろ」
「ああ、それね」
 結衣は、足下に置いていたベージュのリュックから、ごそごそとスマートフォンを取り出した。
「あんたと別れた後、私なりに色々と調べてみたの。あんたが会ったっていう天使について」
 呆気にとられた雄吾の鼻先に、結衣は人差し指を突きつける。「そうしたら、面白いことがわかってさ」
「面白いこと?」
「あのね。自分の人生で天使に会ったり、天使に助けてもらったことがあるって人、案外多いらしいの」
「勘違いとかじゃなくてか」
 結衣は肯く。「主に海外なんだけど。天使に会った体験談をまとめた本も出てるってくらい、ホットな存在らしいの。日本は天使をゲームやら何やらでフィクションで扱い気味だから、あり得ないとか思われがちなんだけどさ。
 例えば、そうね。結構有名な話じゃ、第一次世界大戦時に起きたモンスの天使事件は有名かも」

 1914年8月23日のことだった。ベルギー軍やフランス軍を助けるために、イギリス軍はドイツ軍と、ベルギーの主要都市であるモンスで交戦していた。しかし状況は劣勢、ドイツ軍の圧倒的な火力と戦法で、イギリス軍は壊滅の危機に扮していた。
 全滅必至。イギリス軍の誰もが絶望に打ちひしがれながらも、心のどこかで天使に祈った。
 天使はキリスト教でいう神の使いであり、同時に人間の願いを神に届ける中継役でもある。彼らに自分らの願い、望みを託し、この危機から救ってほしい、助けてほしいと祈ったそうだ。
 するとどこからともなく、金髪で長身、黄金の鎧を身につけた、天使と言わんばかりの出立ちをした謎の軍が現れた。そして、ドイツ軍に対し、矢を放ち始めたのだ。
 この謎の軍の詳細は、それから百年以上経過した現代においても、未だ解明されていない。フランスの英雄、ジャンヌ・ダルクだった、はたまたカトリックの大天使、ミカエルだった…等々。諸説あるのだという。

「後で分かったことらしいけど、イギリスの小説家が同時期に執筆した小説に、内容が似ていたらしくて」
「つまり嘘だったってこと?」
「まあね。ただ、完全に嘘って言い切れないの。当時の軍隊の記録には、戦場で天使を見たって記されているそうだし。もしかすると、その話に大きな尾ひれをつけたものが、その小説だった。そしてそれが出回ったってことなのかもしれない」
「ということは、目撃情報は真ってことなのかな」
「絶対そうってわけじゃないだろうけどね」
 天使がいる可能性は捨てきれない。そういうことだった。
 その後、彼女は自身が調べたことを彼に話した。
 例えば、ある者は車が猛スピードで自分に突っこんできた瞬間に、ふわりと体が何かに持ち上げられ、最悪の事態を回避できたという。また、癌と肝不全で末期状態だった者は、脈も呼吸も止まったにも関わらず、その数分後にはきちんと話ができる程度まで、回復したのだという。そうした奇跡が起きた者達は皆、こう言ったそうだ。
「天使が助けてくれたって?」
「ええ。天使の存在を頭の中で想像し、救済を求めたらしいの」

 救済、望み。

 雄吾もまた、頭の中で天使の姿形を思い浮かべる。それから「なるほど」と、雄吾は片手をハンドルから離して顎にあてた。
「じゃあ俺に『成り代わり』の力をくれた、悪魔みたいな天使に会ったって奴も、いたりするのかな」
 今回、天使が自分の望みを叶えてくれたこと。それは、彼らが実施するサンプル調査の一環だと話していた。しかしそれとは別に、これまで多くの人間の望みを叶えてきたとも言っていた。

 普段は、地上に降りることも早々無いからな。

 早々無い。つまり、降りることもあるのだ。そうであれば、彼らに会った人間がいたって、おかしい話ではない。
 結衣は眉を寄せて、首を横に振る。
「調べた限りじゃ、見つからなかったけど」
「ネットで何でも載ってるわけじゃないよな」
「そうね。でも」そこで結衣は一度切る。「いくつかの体験談を見るとね。天使の姿形って、どれも異なってんのよ」
 天使と聞いて誰もが想定するのは、純白の翼に純白の衣に身を包んだ、金髪で白人の子供や、美しい容姿をした女性のようなものだろう。今の聖書や宗教画においては、よくそのように描かれるものだが、初期のキリスト教では、翼は持たず、成人男性や青年のような姿であると言われていた。
「容姿は決まってないってこと?」
 結衣は肯いた。「ネットの目撃情報じゃ、驚く程長身な男だったり、貴婦人のようであったり。光り輝く牛だったり、はたまた龍みたいな存在だったりしたらしいよ。
 だから、雄吾が会った天使っていうのも、その天使はそういう容姿をしていたってだけなのかもしれないね」
 自分の前に現れた天使。眼鏡にスーツ、漆黒の男。
「インテリメガネかあ。どうせなら…」
 美人が良かった。そう言おうとしたところで口をつぐむ。天使は常に自分を見ているのだから、悪口なんて口に出すべきではない。
「どうせなら?」
「あ、いや」誤魔化すために首を細かく振る。「なんでもない」
「あ、私みたいな美人だったら良かったとか?」
 心の中を見透かされているかのようで、少々ドキッとするも。誤魔化すように雄吾は小さく、喉の奥を鳴らした。
「美人って自分で言うなよ。本当の美人は…」
「詩音みたいな子のことを言うんだよね」
「えっ」
 彼女は冗談を含んだ言い方だったはずだ。だから、雄吾もそう捉えて返した。それだけに、言葉が詰まった。
「ねえ」訥々とつとつと、結衣は喋る。「やっぱり雄吾は、あの子のことを諦められない?」
「『ひのき』で言ったじゃんか。俺、そんな引きずってないって」雄吾は動揺しつつも、必死に作り笑いを浮かべた。「それに詩音には今、直樹がいるだろ。諦めるとかそんな、何言って…」
「別に結婚したわけじゃないんだよ。今後また、チャンスがあるかもしれないじゃない」
「まあ、そうだけど」
 彼女の言うとおりだった。この先直樹と彼女の仲が悪くなって、別れることも考えられるのだから。

 でも。それは、ただの大学生の恋愛だったらの話である。雄吾の中での、彼女の印象は、もはやこれまでと同じとは言い難いほどに変容していた。
「無理だよ」
 無理。口にしたその言葉は、ブーメランのように自身の心に突き刺さる。
「どうして?」
「え、うん。だって、あの子は人を殺したんだ。好きだとか、付き合いたいとか。もうそんなこと、考えられないよ」
「まだ、完全にそうとは決まった訳じゃないでしょ」
 雄吾はすぐに言葉を返さず、前方の道路をじっと見つめた。心なしか、高速道路上を走る車が少なくなったように思えた。「今、こうして向かっているのは、あいつらの犯した罪の確認作業。そうだろ」
 『成り代わり』で見た事実を証拠にしても、二人も警察も、説得することはできないのだから。
「これも『ひのき』で話したけどさ、二人がどんな理由で永塚さんを殺したか、わかっていないじゃない。永塚さんのアプローチ論は、あんた違うって思うんでしょ」
「え?ああ」
 永塚の過度なアプローチに我慢できず、詩音が彼を殺害した。そう、結衣は言っただろうか。確かに可能性が0と言い切ることはできない。しかしそれは雄吾の中で、しっくりきていなかった。
 彼がなぜ殺されたか、それには理由があるのだ。殺されて然るべき、理由が。
「正当防衛ってことも、あり得るのかな。性欲を抑えられなかった永塚さんが、偶然近くにいた詩音に襲いかかったとか」
「無くはないけど、あるともいえないな」
 曖昧な返しをしてしまう。しかし結局のところ、今の情報だけでは、彼女や直樹が何故永塚を殺害したのか。その点は不明瞭なまま。そういうことだった。
 雄吾は車のモニター、デジタル時計に目をやる。「でもさ。もうすぐ0時だ。天使の話じゃ、0時を過ぎたら『成り代わり』の使用回数はリセットされるっていうから」
 直樹に『成り代わり』をするといったように、分かることがあるかもしれない。ひとまず、今は彼らの痕跡を辿っていくしかなかった。

 それからしばしの間、二人無言になる。加速する車のエンジン音が耳に慣れてきたところで、また結衣が口を開いた。
「あのさ」
「うん?」
「雄吾の中で、完全にあの子のことが割り切れたら」
 数秒の間を空けた後に、結衣は小さな声でぼそりと呟く。「私のことも考える余地、出てくるかな」
 思わず彼女へと顔を向ける。が、すぐに彼女の両手で、雄吾は己の顔を前方に戻される。しかし雄吾は確かに見た。彼女の頬が、赤くなっていた。それは道路灯のせいではないことを、彼も分かった。
「危ないよ」
「わ、悪い」
 慌ててハンドルを両手で握り直す。いつの間にか、走行車線はがらんどうになっていた。まるで今、この瞬間、この世界に、結衣と自分の二人だけになったかのような錯覚に、雄吾は囚われた。
「ごめん」
 結衣が、ぽつりと呟く。雄吾は冷静に努めて、いやと頭を掻く。「そんな謝ることじゃ」
「良いの。今の、忘れ」そこで結衣はぶんぶんと首を横に振る。「…いや、忘れないで。私、そういうことだから」
 そういうこと。詳しく言われずとも、それがどういうことなのかは、理解できた。
「今はとりあえず、永塚さんの件。ね?」
「あ。ああ」
 結衣の口ぶりに、雄吾は身体が熱くなるのを感じた。横目で結衣を見るも、彼女は助手席の窓に目を移していた。
 スピードを少しだけ落として、彼もまた、運転席側の窓の情景を視界の片隅に置いた。外は真っ暗闇だ。風景を楽しめるような時間帯でも無い。等間隔で並ぶ道路灯の光が速度の遅いストロボみたく視界に入ってきて、目がチカチカとする。常夜灯を「オンオフ、オンオフ」と点けたり消したりふざけていた子どもの頃をぼんやりと思い浮かべた。

 今の結衣の言葉は…

 彼女が言うように、今、根掘り葉掘り聞くのは野暮なのだろう。雄吾は心に渦巻く混乱と緊張、これから先にある不安に苛まれながらも、ハンドルを持つ両手を、更に強く握った。
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