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第3章「海と大地の箱庭」

58話 影をまとう魔物

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「君は何者だ? 魔物なのか?」
「そう。私は名もなき影。お前の仲間に随分と抵抗されたものだが、これ以上は無駄だ」

 影は僕らを嗤っていた。
 眼の前の魔物はアーケンシェンの戦闘担当に深い傷を負わせた。それだけでも相当な危機であることに変わりないというのに、まとっているオーラはあまりにも闇深い。奥歯を食いしばらずにはいられない。

「クリム。ここは一度、わたしに任せてください」

 睨み合っていた僕の前に、ヴィータが歩み出る。
 彼女の手にあるのは、一冊の銀の本のみだ。恐らく魔導書か何かの類なのだろうが……。

「ちょっと待って、危険すぎる!」
「わたしが姿を消すまで、黙って下がっていなさい」

 語気を強めた彼女は本を開き、影へと一直線に駆け出していく。相手も同じくヴィータへと突撃し、鎌が再び振りかざされようとしていた。

「そこです!」

 手のひらに光のような何かを収束させ、魔弾のような形にして次々と放たれる。相手は鎌で魔弾を破壊していくものの、対処しきれず何度か当たる。
 ヴィータは隙を見て、鎌で斬れぬ場所へ攻撃を撃ち込んでいく。向こうは疲弊することなく動き続けては、ヴィータに向かって鎌を振り下ろす。相手に効いていないように思えた。

「ふん……貴様などに興味はない」
「そうですか。『〈Gerbera Mysteriumガーベラ・ミュステリウム〉』」

 また何やら魔法を使ったヴィータが、空気に溶け込むように姿を消した。
 ────今だ!

「消えろっ、魔物!!」

 惑う影へガラスの刃を突き刺し、真っ二つにした。驚くことにちゃんと実体があり、咆哮とともに黒ずんだ体液が周囲に撒き散らされる。地面に染み込んだことで、魔物のいた場所が灰色に染まっていた。

「くそ……たかが現代神の分際で……!」

 斬り刻んだというのに、まだ生きている。斬撃の跡が再生し、再び一人の影の形となる。
 思った以上に厄介だ。さすが、特級といったところである。

「死ねぇッ!!」

 鎌を大きく振りかざし、こちらへ駆けだしてくる。
 先程、比較的強力な一撃を与えた時から、何か焦っているような気がする。何に大してなのかはわからないが、向こうの動きが乱れているのは明らかだ。

「〈風よ、我が敵を斬り裂け〉!!」
「ぐあああぁぁ────!!」

 風の魔力を剣にまとい、風の刃を生み出す。刃を振るうたびに生まれる風の波動は、空を切りながら影を斬り刻んでいく。
 風で斬られるたび、影が霧散し、液体が撒き散らされる。断末魔は次第に失せ、影をまとった魔物はただの黒い液体へと変貌していった。

「……なるほど。なかなかやりますね」

 倒し終わってしばらくすると、ヴィータが姿を現した。影を討伐するまでずっと隠れていた上、涼しい顔をしている。

「ちょっと、どこに隠れてたの?」
「周囲に姿が見えないように術を使っただけです。何か文句でも?」
「あのねぇ……」
「クリムー! 大丈夫かー!?」

 戦闘の音が止んだことに気づいたティアルが、僕らの元に駆け寄ってきた。怪我はほとんど治ったようで、傷は見当たらない。
 また、先程は見かけなかったトゥリヤの姿もあった。

「トゥリヤ。どこに行ってたの?」
「周囲の魔物の哨戒を行ってました。魔特隊の皆さんも疲弊しきってますし、僕らが積極的に動くしかないでしょうから」
「カルデは怪我人の治療で忙しいしな。それに、私たちアーケンシェンが先んじて動かないと」

 普段、街の外で見られる魔物には特に影響もなく、健在だったようだ。魔特隊の者たちも哨戒にあたっていたようで、そちらに赴いていた者は特級の魔物の脅威にはさらされていなかった。死人が出なかったのが不幸中の幸い、といったところである。
 アーケンシェンは、全部で五人。最年長のアリア、カルデルト、ティアル、トゥリヤ、そして最年少の僕。
 今回の一件からわかるように、僕らが筆頭になって動かなければ、一般神たちは路頭に迷いかねない。それゆえ、僕らは欠けることが許されない。

「とりあえず、一度アイリス様に報告するか……と言いたいところだが、私は魔特隊のみんなのところに行かないと。トゥーリ、任せていいか?」
「あっ、すみません。僕はちょっと用事がありまして。カルデルトさんに頼んでいただけますか? 診療所に戻る途中で会うでしょうし」
「それもそうだな。わかったぜ」

 ティアルが早々に魔特隊の陣地へ向かい、トゥリヤも繁華街にいるアリアの元へ向かおうとする。
 残された僕は、やはり神隠し事件の解決に向けて動き出さなければいけない。

「……やはり、おかしいです」
「何が?」

 ヴィータは納得できない様子であった。まだ何かわからない点があるのだろうか?

「人間たちはどこにいったのです? それに、ここは……」
「箱庭にいますよ。ここには神しかいません」
「箱庭……とは?」

 僕とトゥリヤで、現代の世界事情について最低限の説明をすることにした。
 この世界は複数の箱庭に分かれており、人間たちはここ以外の箱庭に住んでいる。原則、神は箱庭の出入りができず、神と人間は別々の世界で暮らしている。
 僕らの話をじっくり聞いていたヴィータだが、咀嚼に時間がかかっているようだ。

「世界が複数に分かれた……ということなのですか? どうしてそんなことに……」
「ヴィータが眠る前の世界は違ってたの?」
「はい。世界は一つだけで、神も人間も共存できていました。今の時代が始まって、どれだけ経つのでしょうか」
「今年でちょうど三百年ですね。アイリス様の誕生日があと二か月後ですし」

 トゥリヤは体内時計が狂うことがなく、時計がなくてもすぐに時間がわかるらしい。僕には一切ない能力だ。
 それを聞いて、ヴィータは目を細めた。

「では……わたしは三百年近く眠り続けていたということですね。あの出来事が終わって、三百年経った世界なのですね」
「出来事って? トゥリヤ、何のこと?」

 時の神であるトゥリヤは、現代の歴史はほぼすべて把握している。ヴィータは恐らく現代の前、古代から生きている者だ。古代の歴史資料もある程度残されているし、彼なら知っている可能性がある。
 そんな僕の期待とは裏腹に、トゥリヤはあまりよくない顔をしていた。

「すみません。僕には心当たりがありません」
「そうなの?」
「古代となると、資料や記録がほとんど残されていないんです。恐らく、古代から現代へ移り変わる際にほとんど失われたのではないかと……」

 確かに、僕も古代について知っていることは少ない。記録や資料が残されていないだけでなく、古代から生きている者自体がほとんどいないのだ。そのため古代の出来事を探るのは、現代では至難の業である。
 まあ、ヴィータについてわかったことはあったので、今はそれでよしとするしかない。

「とにかく、まずは神隠し事件の解決です。わたしも調べたいことがありますし、早く犯人を捕らえましょう」
「そうですね。解決しないとクリムさんが自由に動けませんし。ひとまず、僕と一緒に来てください」

 トゥリヤは少し得意げになり、そう僕らに提案してくる。
 その提案を飲み込み、彼についていくことにした。
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