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8巻

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 プロローグ


 アウストラ帝国の首都の北方に、ヴィエジャの樹海と呼ばれる魔境がある。山岳に根差す大樹の化身けしん魔獣まじゅうドリアードが数千年治め続け、数多あまたの魔物に加えてエルフまでむ、大森林地帯だ。
 ドリアードは普段、領域全体を把握するため、姿を現さずに意識を拡散させている。この地で生きるものをそのまま受け入れ、見守るにはそれが一番と考えるからだ。
 しかし、例外もある。この日は珍しく、ドリアードは女性の人型を取り、姿を顕現けんげんさせていた。

「またエルフと争ったの?」

 目の前にいる一人の少女に、ドリアードは問う。
 少女は容姿端麗ようしたんれいで銀髪。特徴的なのは、人間ではありえないほど美しい深紅の瞳。そしてローブを羽織はおっているだけで、武装らしい武装は一切していないことである。
 少女は人間ではない。魔物だ。このヴィエジャの樹海は、道のりが悪ければ一国の軍とて半刻で全滅する魔の地。軽装備で出歩けることが人外である何よりの証拠である。
 この地に不釣り合いな身なりの少女は、べっとりと血にれた腕で、初老のエルフの遺体を抱えていた。少女は遺体に視線を落とし、口を開く。

「あの土地は狼の縄張り。そこで狩りをしては駄目と、私は何度も言ってきた。それなのに狩りを続けた。だから殺した」

 遺体は、細身で肉が付きにくいエルフにしては、筋肉質な体だ。そして、若草色の糸で刺繍ししゅうほどこした腕章をつけている。
 ドリアードはこのエルフがどんな身分なのか見当がついた。

「エルフの戦士ね。勇敢な最期さいごだったの?」
「若い者を守って、殿しんがりを務めていた。エルフのことわりを律義に守っていたことは確か」

 少女は目を伏せた。立ち上がった彼女は大樹のそばに遺体を置くと、ぼそぼそと樹に向かってつぶやく。するとその樹はひとりでに動き出し、エルフの遺体を引きずってどこかに消えた。
 それを見送ることなく、少女はドリアードに目を向ける。

「答えて。エルフはこの森にとって、もう異物?」
「今のところ毒でないのは確かね。私は彼らを同じ森にむ隣人だと思っているから、ただ生きる分には何も言わない。拒絶する気もない。けれど、彼らとしてはどうかしら? 彼らにとって私たちはただの隣人ではなく、不倶ふぐ戴天たいてんの敵になっていると思うの」

 魔物と人間が相容あいいれないのと同様、魔物とエルフもまた敵対関係にあるのだ。

「そう」

 ドリアードの言葉にぽつりとつぶやいて、魔物の少女は跳躍した。一回、二回と跳ぶだけで、彼女の目に映る景色は大きく変わる。彼女は緑色の幻光げんこうをまとい、風を起こして跳躍の推進力にしていた。
 そうやって進み続け、彼女は森の中にある広く深い穴に飛び込む。そこには、白い幹の大樹が、穴の入口からそそぐ光を頼りに根差していた。
 少女がその樹の前に立つと、再びそばにドリアードが現れる。意識が届く限りの地において、彼女は自由に姿を現すことができるのだ。
 魔物の少女はドリアードに向かって言う。

「エルフは増えすぎた。このままだといずれ森にとって異物になる。ドリアード、あなたは以前言った。マレビトは本当に今のエルフをどうにかできる?」
「そうできるだけの可能性は秘めているわね。彼は頼られればこたえる優しさも持っているでしょう。けれど、あなたが彼にただすがりたいだけなら、認められない。あの人はこの森にとって、近い将来必要になる人だもの」
「それは問題ない。対価は、求められるままに払う」

 少女は大樹の根本にひざまずくと、おもむろに地面を掘り始めた。
 しばらく掘り進め、彼女は根が深く絡みついた何かを見つける。
 元は人間だったのだろうか。ミイラ化し、根と区別がつきづらいそれであったが、胸についた純白の結晶体だけはくすみ一つない輝きを持っていた。
 少女はそれに手をかけると、ミイラからゆっくり引きがす。ぶちぶち、ぶちぶちと。筋肉や神経を裂くかのような音だ。少女は苦悶くもんの表情を浮かべながら、やがて結晶体を抜き取る。
 どっと疲れた様子の彼女に、ドリアードは語りかける。

「あなたが求めるマレビトは、まもなく帝都を訪れる。私があなたに対してできることはここまでなの。それでもいい?」
「十分。あなたは魔獣まじゅう。私たちに関わりすぎる必要はない」

 彼女は乱れた息を整えて結晶体をふところに納めると、ドリアードに頷きかけた。直後、魔物の少女は再び跳躍でこの場を後にする。

「行ってらっしゃい、ナトゥレル。あなたがよきりどころを見つけられることを祈っているわ」

 彼女を見送ったドリアードは、いつものように意識を拡散させるのだった。




 第一章 貴族のみに流行はやる呪いがあります


 帝国の辺境の街ハイドラのはずれに、五代目マレビト風見心悟かざみしんごの屋敷がある。自然の多いそのあたりは、もうすっかり冬の寒さだ。
 よく冷える朝、リズは屋敷にある風見の部屋で、ナイフをにぎっていた。
 しかしこれで誰かの首を掻っ切るわけでも、狩りをするわけでもない。版画だか木版だか知らないが、文章を大量に刷るための原版を作らされているのだ。
 そんなことを頼んできた人物は、もちろんご主人様の風見である。帝都に向かう旅に出ると言っていたはずが、何故だか内職をさせられるはめになっていた。
 クロエとキュウビもまた手隙だったので、同じように板彫りをさせられている。けれども二人の働きざまはリズと正反対と言っていい。
 風見から頼みごとをされて嬉しいのだろう。クロエは尻尾がついていたら振っていそうな様子だ。そしてキュウビも、自分からは手を出さなかっただろうこの作業を、これも一興とそこそこ楽しんでいるらしい。
 一方のリズはこの二人に共感できない。インドア作業では、心がおどらないのだ。
 けれども当の風見がこの彫刻作業に奮闘しているので、文句は言いづらかった。逃げる口実も見つけられない。リズはひっそりとため息をつく。

(平和なものだよね、本当に)

 去年の冬は隷属騎士として使い捨ての兵隊業務を生業なりわいとしていたのに、今はぬくぬくとした屋敷の中で、こんな作業をしている。
 もっと昔を思い出すと、似た経験はある。けれどその時は、隙間風で凍える部屋だった。奴隷になる以前の、小さな村に住んでいた極貧時代の話である。

(店で人形を買う余裕なんてなくて、その代わりを妹に作ってやったんだっけね)

 どちらが先に産まれたかわからないから、厳密には妹ではなく姉かもしれない。入れ代わっても見分けがつかないほどそっくりな、双子の片割れだ。
〝妹〟はどちらかと言えば手がかかり、自分が世話を焼くことが多かった。そのためリズは自分が姉というつもりでいる。
 妹には可愛げがなかった。木彫りの人形はすぐに壊されたし、その残骸は夕食の鳥を狩る際に小石代わりに投げ捨てられたくらいである。ただ、自分たちを奴隷商に売る商品としか見てくれなかった母に比べれば、まだ家族らしい家族ではあっただろうか。

(妹、か……)

 もはやその存在も忘れたように安穏とした生活を送っている自分を、リズは自覚する。
 人間的には自分以上に妹の方が壊れていると思っていたが、家族を忘れて生きていられる自分の方がよほど人でなしではなかろうか。

「あっ……」

 そんなことを考えていたリズは刃先を滑らせてしまった。板に彫った文字が一つけずれている。これではインクをつけて刷っても文字が抜けてしまうだろう。

「もういい、やめだやめだ。疲れた。なんでこんなことを私がしなければいけないんだか」

 元より文字が苦手な上に、修正の利かない細かな作業である。最初からやり直すのも億劫おっくうだ。リズは木の板を投げ捨て、ふて寝をする。
 床に寝転がっていると、風見が声をかけてきた。

「そう言うなって。これでようやく旅の前準備が終わるんだから、手伝ってくれよ」

 リズは風見に背を向ける。無視を決め込んでやろうかと思ったが、彼がじっと視線を向けているのを背中で感じた。根負けしたリズは、数秒後に寝返りを打って風見を見る。

「要するに、普段シンゴが実践させていることの指示書を、大量に刷ろうとしているんだろう? 竜の巣から帰ってこの方、捕虜ほりょの村づくりやら、農業やらいろいろ始めたくせに、こんな指示書だけで全部の仕事を他人任せにできると?」

 リズは率直な疑問をぶつける。
 そもそも、風見が最近まで旅に出ていたのは資金稼ぎのためだ。魔獣まじゅうアースドラゴンのタマについて調べていたのは、言うなればついでである。
 その資金が手に入った今、新たに大事業でも立ち上げるかと思いきや、彼が始めたのは今まで作ったものの普及など、これまでしてきたことの延長でしかない。しかも刷ろうとしているお触れ書きも、『○○病対策では何々をしましょう』などのごく簡単な指示のみだ。
 風見にできることは幅広いし、右腕であるクロエでさえ、未だに真似まねしきれない。彼の代わりが、たかだか十枚にも満たない注意書きに務まるとは思えなかった。
 そう考えるリズの視線を受けた風見は、「いやいや」と首を振る。続けて彼は立ち上がり、壁際に向かった。そこには『適度に人任せ!』という標語が貼ってある。

「そもそも俺は家畜保健衛生所の職員だ。その仕事は、消毒薬や抗生物質、ワクチンで家畜の病気を防いで、いざ発生したらすみやかに鎮静化させるまで。だからもう、できる仕事があんまりないんだよ。そもそも、流通も人の往来も少ないこの世界だと、しっかり伝染病対策をすれば蔓延まんえんする心配はないしな。畜産業としては、これだけできれば申し分ない。そういうことで、これからは獣医として次のステップに進みたいんだ」
「次のステップ?」

 そういえばそのような話を聞いた覚えがある。リズとしてはまったく興味のない話題だったので記憶が曖昧あいまいだ。確か、治療ではなく防疫ぼうえきが本業だ、と何度か言っていただろうか。
 そんな空気を察したのか、風見は改めて説明してくる。

「まずは大前提となる、動物の保健衛生や、安全な畜産物を作るための公衆衛生を整える。その後は、取りこぼしで病気になっていた大動物の治療が必要とされる。経済が豊かになったら、愛玩動物の治療も求められる。こういう順序だな。つまり、人の食糧事情として重要な畜産業が軌道に乗り始めたから、もっと動物のためになったり、仲を取り持ったりする仕事にも手を伸ばすべきなんじゃないかなと思ったんだよ。アクリスやアルラウネやトレントとの共生やら、スライムの利用とか、ハーピーやアルミラージの治療がいい例だな」
「魔物なんてどれも厄介ものだろうに。そんな取り組みで何を期待しているのやらね」

 考えるのは面倒くさいので、リズはそんなものかなと適当に頷いた。そして、とある事実に気付く。

「つまり、基本の仕事を終えたシンゴはここにいても無駄だから、お呼ばれしている帝都で適当にやれることを探すってわけだね? それなら直近の目標の大雑把さ加減も理解できるよ」

 目を向ける先は風見の横に位置する壁だ。そこには当面の目標――『ドリアードに会いに行く』『人と魔物のいい関係を新たに作る』『皇太子に会いに行く』という三枚の紙が貼り出されていた。
 リズとしては風見をイジるためになんとなく言ってみたことだったが、存外、痛いところをついたらしい。彼はうぐっとうなる。

「いや、ここでだってやれることはあるからな! ただ、帝都は法整備の中心地だし、貴族がごまんといるから、そっちに行った方がいろいろとできそうなことがあるだけだ!」
「はいはい、そういうことにしようか。そんなことより、いい匂いがしてきた。朝餉あさげの準備ができたんじゃないかな?」

 肉やパンが焼ける香りが先程から鼻孔をくすぐっている。リズは風見の言い訳を半ば無視して扉へ向かった。けれどその途中、彼女は思い出したように振り返る。
 風見へのイジリはさっきの一つだけではなかった。トドメの一撃を用意していた彼女は、したり顔で風見を見る。彼は「な、なんだよ」と身構えた。
 こういう顔をした風見に悪戯いたずらをするのは、リズにとって最高の娯楽である。

「帝都に行くにあたってシンゴがよく考えていることはわかったよ。そういう点は私じゃ考えが及ばない。ただね、シンゴはそれ以外では抜けているよ。効率を考えるなら、そもそもこの木版作り自体がいらないんじゃないかなと思う」
「え?」

 風見は不思議そうにキュウビを見て、続けてクロエにも目を向ける。彼女たちはリズが言わんとしていることに勘付いている様子だ。キュウビはリズと一緒になって悪戯いたずらっぽく笑みを浮かべるばかりなので、クロエがためらいがちにその理由を口にする。

「そ、そうですね。プロの彫り師に頼んでしまえばよかったかなと思います。てっきり風見様はこの作業を楽しんでいたのかと思いました……」
「シンゴ様は常人の理解が及ばないことをよくしますし、わたくしとしても特に困ることではなさそうだったので、なるようになればいいかなと見守らせていただきましたわ」

 女狐めぎつねらしく微笑むキュウビに、風見は今日も今日とて遊ばれている。

「頼むからそういう時は一言教えてくれ。俺、異世界人だからな!? 常識を持ちたくても、知らないことが多いんだからな!?」

 夕刻ならリズもそこに加わってからかうところだったが、朝はそこまでテンションが上がらない。くぁぁぁと大きなあくびをみ殺すと、先に食堂に向かうのだった。


    †


 木版作りを切り上げた風見らが一階の食堂に下りると、クイナが一仕事終えたいい顔で待っていた。朝食の配膳はすでに終わっている。

「お待たせ。朝から準備ありがとう、クイナ。それと、クライスも」
「もったいないお言葉で。下僕として、当然の務めでございます」

 クライスはテーブル横で執事然として言った。
 彼は執事風のけったいな格好をしているが、元は皇族直属の特別な騎士である。今は任務で、風見付きの執事をしているのだ。
 これから風見たちは、クライスが本来仕えている皇太子がいる帝都に向かう予定である。その話が出て以来、彼は常駐する辺境伯ドニ・アスト・ラヴァンの城から風見の屋敷まで、ちょくちょく世話を焼きに来てくれていた。
 風見らは、食事が冷めないうちにいただくことにする。
 朝食を頬張りいくらか空腹感が落ち着いたところで、風見は改めて口を開いた。

「みんなに聞いておきたいことがある。俺は帝都に行ってからドリアードがいる魔境に寄る。その後にレッドドラゴンの皮膚病の往診に行って、ハイドラに帰ってくるつもりなんだけど、みんなはどうする?」

 これらをぐるりとめぐるとなると、一週間では済まないだろう。それについてこられるかどうか、面々に一応確認しておきたかった。

「私はもちろん風見様についていきます!」

 クロエがそう言い、リズもすんなりと頷く。

「他にすることもないしね。シンゴが行くならついていくよ」

 彼女らがついてこないことは風見としても想定していない。いつも通りに答えてくれたことにひとまず安心し、風見は次に目を向ける。対象はクライスとキュウビだ。

「無論、お供いたしましょう。帝都の案内はお任せを」
「シンゴ様といなければ退屈してしまいますわ。わたくしもご一緒します」

 二人も続けて頷く。彼らの返事も予想通りだ。
 そもそもこの質問は、クイナ一人に向けたものと言ってもいいくらいである。
 クイナは元々隷属騎士団員だったが、先日風見がもらい受けて奴隷の身分から解放された。もういつでも親元に戻れる一般市民である。彼女の父フレッドがいずれ行商でこのハイドラの街まで来た時、そのまま一緒に故郷へ帰ることもできるのだ。どうするかは問わなければいけない。
 彼女の答えを、風見らは待つ。

「行くっ!」

 思いのほか早く、クイナは宣言した。食卓に身を乗り出すその勢いに、風見は目を丸くする。

「でも危ないぞ?」

 風見は気を遣ったつもりだったが、彼女はなんでそんなことを聞かれるのかと憤慨した様子だ。

「やっ。わたしもついてく! わたし、前よりもっと戦えるもん」

 クイナの言葉には力がこもっている。身振り手振りやたんたんと踏み鳴らす地団太じだんだで、言葉足らずなところを補おうとしているようだ。

「確かにシンゴはノーラを死なせた原因の一つだった。だからわたしはあの頃、シンゴが嫌いだった。でも、シンゴはわたしのことを助けてくれた。ケガした時も、不安になった時も、父さまとのことで泣いていた時も! あの時は、本当に温かかった」

 クイナが言うとおり、風見と彼女の関係はそういう始まりだった。
 クイナの同僚だったノーラを助けられなかったことは、風見にとって大きな意味を持っている。奴隷身分の隷属騎士や、街の農民やスラムの人々を助けるために風見が行動し始めたのも、彼女のことがあったからだと言っていい。
 クロエは過去を静かに振り返ってうんうんと頷いている。
 リズはが事でも思い出したのか、言葉にしにくそうな様子でそっぽを向いていた。
 それを見つめるキュウビとクライスは真逆だ。片やその情景を想像して微笑み、片や機械のように耳に入れて記憶している。

「わたしはシンゴのことが大好き! だから、してもらっただけでさよならなんてやだ。こんなに早くさよならなんて、やだっ」
「で、でもお父さんがここに来た時はいいのか?」

 風見の舌がもつれた。困惑しているわけではない。クイナの一生懸命さがあまりに嬉しくて、動揺しているのである。

「伝言を頼むからいい。今のわたしをここまで大切にしてくれたのは、シンゴだもん。だから、今はシンゴがわたしの父さまみたいなもの。独り立ちは、孝行してから!」
「お、おお……」

 それまでは離れたくないし、離さない。クイナは席を立ち、それを示すように風見にぎゅっと抱きついた。
 こうして一生懸命にしがみついてくれるくらいに、自分は彼女に何かをしてやれたらしい。風見は思わず涙ぐみそうになる。金銭よりもずっと得難い対価をもらえた気がした。

「……ありがとな、クイナ」

 あまりに大切すぎて抱きしめ返すこともできず、風見はたっぷりと打ち震えた末にそう返した。
 クイナは何故そう言われたのか理解していないようだったが、関係ない。彼女がそう言ってくれるなら、クイナは風見にとって大切な愛娘まなむすめだった。


 風見らは朝食を終えると、隷属騎士団兵舎の団長室を訪れた。しばらくここハイドラの地を離れることを伝えるためだ。
 お目当てはグレンである。彼はリズが隷属騎士団長だった時、副団長を任されていた人物だ。彼は風見付きにされた今でも、暇さえあれば後輩育成のためにここで指南をしている。
 団長室に入ると、グレンは大きな図体を机に収め、現団長の書類の不備を指摘していた。

「おお、これは猊下げいか殿。一同揃い踏みで、一体どういったご用件ですかな?」
「ちょっと話があってな」
猊下げいか殿絡みの話はいいことばかりだから歓迎いたしますぞ。そこのクイナをドニ殿からもらわれた話もそうですな。奴隷身分から元の暮らしに戻れたというのは、ワシとしても大変喜ばしい」

 強面こわもてににんまりと笑みを浮かべたグレンは、クイナに目線を合わせて中腰になる。特に大柄な彼と年端もいかない彼女では、本当に人と猫ほどの差があるように見えた。
 そんな彼女の頭に、グレンは大きな手を伸ばす。

「あふっ、にゃあっ。副、団長。頭、痛いですっ……!」
「ぬ? おお、すまんすまん」

 グレンは親戚のおじさんのような気軽さで、わしわしと大雑把にクイナの頭をでる。やられる方は大変だ。クイナは涙を浮かべて逃げてきて、風見の後ろに隠れた。
 グレンはそんな様子も、目じりにしわを作りながら見守る。

「男性恐怖症で、ワシや一部以外の男には近寄りもしなかった子がよくなついたものです。それもひとえに猊下げいか殿の人柄ゆえですかな」
「シンゴの周囲の空気は緩みきっているからね。私もそばにいると眠くなるよ」

 グレンの言葉に頷いたのはリズだ。風見はすかさず彼女にツッコミを入れる。

「いや、お前は訓練で体を動かしているか、寝ているかの二択しかないだろ」
「はっは。なんだシンゴ、私のこともよく見ているね?」

 リズは風見の研究には興味がないので、警護として彼の部屋にいる間は、もっぱらベッドで丸くなっている。風見が声をかけても、彼女はあくびをみ殺して「どうでもいい」としか言わない。
 もう少し有能な警護になってくれないものか。そうお小言をこぼすと、彼女は肩をすくめておどける。

「ふむ。ならここは斬新ざんしんにベッドで体を動かそうか?」
「許しません」

 そう口を挟んだのは、もちろんクロエである。彼女は綺麗な表情のまま、どことなく腹黒さをただよわせ、えてもう一度「許しません」と繰り返した。
 全員が彼女の黒いオーラをガン見していても、動じる気配すらない。そのままクロエがリズに視線を突き刺して詰め寄り始めたので、二人を放っておいて風見はグレンに向き直る。

「本題に入る前に、この手紙を見てくれ。皇太子のユーリスにくみすると思われると、面倒が舞い込みそうだ。その対処のために、一度帝都に行こうと思っているんだけど、グレンはどう思う?」
「ふむ、……なるほど」

 皇太子からもらった手紙を渡し、現状と展望をかいつまんで説明する。
 手紙には、帝都に戻るようにと書かれていた。その理由は書かれていなかったが、グレンはすぐに状況を把握してくれたようだ。

「正直、判断しにくいですな。現皇帝は衰渇すいかつやまいの兆候があり、代替わりを考えていると聞きます。だから皇太子は今のうちに猊下げいか殿を配下にして、自分の功績にしたいのでしょう。歩み寄ってきているなら、逃げる方がややこしいことになるかと。ただし、そういう相手は将来、面倒事も引き込んでくる恐れがあります。実際、歴代猊下げいかもそんなまつりごとの争いに巻き込まれたそうですからな」
衰渇すいかつやまい……?」

 風見が首をかしげると、グレンは説明してくれる。
 のどが渇き、おとろえていくという特徴がある、貴族特有のやまいだそうだ。
 しかし風見はいまいち話に集中できない。その理由は背景で繰り広げられるリズとクロエのやりとりのせいだ。

「(ク、クロエ。今のはいつも通り、私のおふざけだよ? ただの冗談じゃないか……)」
「(その素行自体が問題です。大体、リズは最近、風見様のベッドで何をしているのですか)」
「(な、何って私はただ眠っているだけで、別に何も……)」
「(本当にそうですか?)」

 リズは心身共に圧迫されながら、クロエに壁際まで追いやられていた。

「おーい。頼むから、もうちょっと存在感を薄めて会話してくれるか?」

 背後で何をやっているんだと言いたくなったが、あちらには声が届いていないようだ。仕方なく見ていないことにする。

「グレンの話はよくわかった。要するに、皇太子がこれから急成長する部下をねたんだり、下剋上げこくじょうを恐れて暗殺をくわだてたりすることがあるかもしれないってことだな?」

 どこの世界にもありそうなことだけに、風見の理解は早い。
 また悩みの種になりそうな話だ。風見としては、ゆったりと青年海外協力隊的な協力をした後は、こちらと元の世界を簡単に行き来する術でも研究しようかと思っていた。もしそれが叶わないのなら、この世界で人のためになることをしつつ、リズやクロエらと暮らして骨をうずめる老後で十分である。ただの平凡な男の人生としてなら、これ以上のことはないだろう。
 と、考え事をしている間に、クロエの詰問きつもんは終了したようだ。彼女はいつもの穏やかな顔で話に入ってくる。

「心配ありません。そうなればハドリア教の総本山へ行きましょう。あそこは国同士が不可侵としている場所なので、安心です。ハドリアを敵に回すということは、大陸全土のたみを敵にすることになりますから」
「転勤族でもなかった俺が、異世界では国単位の移動か。こんな運命は想像だにしなかったなぁ」

 はぁと息を吐く風見に、グレンもうなる。

「ワシもです。猊下げいかと出会うことで運命がここまで変わるものだとは、思いませんでしたな」
「どういうことだ?」

 問いかけると、グレンはクイナに視線を向けた。いで窓に近づき、遠くに見える街を指差す。

「まず隷属騎士団員の目が変わりましたな。明日について考えるようになった。それから、スラムの人々は少しずつ仕事と希望を見つけ、動き出している。猊下げいか殿の技術を盗み見た者は、自分もと思い思いの商品をたずさえ、市場に粗末な売り台を並べ始めた。東国の捕虜ほりょは、猊下げいかから教えてもらった農業技術を指導しつつ、街人とも積極的に触れ合って街を盛り上げている。――なんというか、温かな変化ですな。王や勇者が先導するあり方とは、まったく違う変わりようかと」

 正面切って称賛されるのは面映おもはゆくもあるが、風見にも多少の自覚はある。街の変化はグレンが言ったとおりな上に、このメンバー内にも変化を感じていた。抜身のやいばを思わせていたリズは柔らかな物腰になったし、クイナは言わずもがなだ。
 そんな数々の努力が、こうして穏やかに見守ってくれるグレンや、面白がって寄りついてくれたキュウビという結果に繋がったのだ。
 ただし、起こるのはいいことばかりではない。国から回ってくる面倒事もなるべくして起こった、避けられないものなのだろう。

「困ったことがあったら、ハトでも飛ばしてくだされ。猊下げいか殿なら自分の力でどうにかできるでしょうが、ワシにもできることがありましたら」
「ああ、グレンのことは頼りにしてる」
「ありがとうございます。ワシもその期待にこたえられるよう、一層精進いたしましょう」

 がははと豪快に笑いながらグレンは、風見らを旅路に送り出すのだった。


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