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第6章 秘密の婚約
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その日の夕刻。商会の奥には静かな気配が流れていました。
人の往来が絶えた閉店後の時間、ミシンの横に並んだ仕立て布の匂い。私にとって一番落ち着ける空間です。
でも今夜は――心臓の鼓動が落ち着きませんでした。
なぜなら、そこにダリオがいたからです。
「……クラリッサ」
琥珀色の瞳に見つめられて、私は針を止めてしまいました。
ああ、また胸が痛む。どうして彼の声一つでこうも苦しくなるのでしょう。
「クラリッサ、君は……まだ婚約して離れた俺を恨んでる?」
彼は正面に座り、真正面からそんな風に問いました。
正直に言えば、長い時間の中で恨んだりもしました。泣いた夜も数えきれません。
でも。
「……恨んではおりません。ただ……信じるのが怖いだけ」
絞り出すように答えた私の声に、ダリオはゆっくり頷きました。
「怖がらなくていい。今度こそ――俺は君を離さないから」
彼の指がすっと伸び、私の手を取ります。
温かさに驚いて、とっさに逃げようとしましたが、彼はそっと包むように握りました。
「クラリッサ……」
名前を呼ぶ声が甘く胸に響く。
私は視線を逸らしながら、それでも手を振りほどけませんでした。
「ひゃっ……!」
気づいたら、彼の両腕に引き寄せられていました。
香りや体温が一気に押し寄せて、頭が真っ白になります。
「君を失ってから……どれほど後悔したか分からない……!」
「……ダリオさま……」
耳元に落ちる声と、頬に触れる指先の感覚。
それだけで、今まで積み重ねたはずの冷静さが崩れていくのです。
「……おやめくださいませ。わたくしは……」
「わたしは?」
問い返されて、喉が詰まります。
私は、まだ完全には彼を許せていません。
けれど――目の前のダリオは真剣そのもの。
「クラリッサ、信じなくてもいい。ただ……これだけは聞いてほしいんだ。君と離れたくない」
そう言って、彼はわずかに私の髪を撫でました。
その優しい仕草が、涙を誘いました。
「……泣かせるなんて、最低の騎士ですよ?」
冗談めかして返してみれば、彼は苦笑しました。
「騎士? いや、君に対してだけはただの情けない男だよ」
その顔があまりに真顔なので、思わず笑ってしまいました。
くすぐったい空気に、胸の痛みが少し溶けていきます。
「クラリッサ――俺と婚約してほしいんだ」
直球すぎる言葉に、心臓が跳ねました。
「わたくしと……?」
「もちろん、まだ秘密にする。セレーネやご両親にも、今は知らせない。だが、必ず君を迎えに行く。その誓いとして」
彼はそう言って、静かに膝を折り、私の手に口づけを落としました。
「っ……!」
頬が真っ赤になってしまい、声も出ない。
でも……。
「……わ、分かりましたわ。これも……遊びでなければ」
「遊び? 君相手にだけは誓ってもいい。これは命よりも大切な約束だ」
その熱に押されながらも、私はそっと彼の手を握り返しました。
胸の奥ではまだ迷いも不安も渦巻いています。
けれど――。
「……これで、少しは前に進めるのかしら……」
呟けば、彼は静かに笑い、私を軽く抱き寄せました。
「君が望む限り、どこまでも」
人の往来が絶えた閉店後の時間、ミシンの横に並んだ仕立て布の匂い。私にとって一番落ち着ける空間です。
でも今夜は――心臓の鼓動が落ち着きませんでした。
なぜなら、そこにダリオがいたからです。
「……クラリッサ」
琥珀色の瞳に見つめられて、私は針を止めてしまいました。
ああ、また胸が痛む。どうして彼の声一つでこうも苦しくなるのでしょう。
「クラリッサ、君は……まだ婚約して離れた俺を恨んでる?」
彼は正面に座り、真正面からそんな風に問いました。
正直に言えば、長い時間の中で恨んだりもしました。泣いた夜も数えきれません。
でも。
「……恨んではおりません。ただ……信じるのが怖いだけ」
絞り出すように答えた私の声に、ダリオはゆっくり頷きました。
「怖がらなくていい。今度こそ――俺は君を離さないから」
彼の指がすっと伸び、私の手を取ります。
温かさに驚いて、とっさに逃げようとしましたが、彼はそっと包むように握りました。
「クラリッサ……」
名前を呼ぶ声が甘く胸に響く。
私は視線を逸らしながら、それでも手を振りほどけませんでした。
「ひゃっ……!」
気づいたら、彼の両腕に引き寄せられていました。
香りや体温が一気に押し寄せて、頭が真っ白になります。
「君を失ってから……どれほど後悔したか分からない……!」
「……ダリオさま……」
耳元に落ちる声と、頬に触れる指先の感覚。
それだけで、今まで積み重ねたはずの冷静さが崩れていくのです。
「……おやめくださいませ。わたくしは……」
「わたしは?」
問い返されて、喉が詰まります。
私は、まだ完全には彼を許せていません。
けれど――目の前のダリオは真剣そのもの。
「クラリッサ、信じなくてもいい。ただ……これだけは聞いてほしいんだ。君と離れたくない」
そう言って、彼はわずかに私の髪を撫でました。
その優しい仕草が、涙を誘いました。
「……泣かせるなんて、最低の騎士ですよ?」
冗談めかして返してみれば、彼は苦笑しました。
「騎士? いや、君に対してだけはただの情けない男だよ」
その顔があまりに真顔なので、思わず笑ってしまいました。
くすぐったい空気に、胸の痛みが少し溶けていきます。
「クラリッサ――俺と婚約してほしいんだ」
直球すぎる言葉に、心臓が跳ねました。
「わたくしと……?」
「もちろん、まだ秘密にする。セレーネやご両親にも、今は知らせない。だが、必ず君を迎えに行く。その誓いとして」
彼はそう言って、静かに膝を折り、私の手に口づけを落としました。
「っ……!」
頬が真っ赤になってしまい、声も出ない。
でも……。
「……わ、分かりましたわ。これも……遊びでなければ」
「遊び? 君相手にだけは誓ってもいい。これは命よりも大切な約束だ」
その熱に押されながらも、私はそっと彼の手を握り返しました。
胸の奥ではまだ迷いも不安も渦巻いています。
けれど――。
「……これで、少しは前に進めるのかしら……」
呟けば、彼は静かに笑い、私を軽く抱き寄せました。
「君が望む限り、どこまでも」
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