【完結】氷の侯爵と25夜の約束

朝日みらい

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第七章 凍った心に灯る炎

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 “冬の誓花”が再び色を取り戻してからというもの、館の空気が変わりました。  
 長い間閉ざされていた扉が少しずつ開き、人々の表情にも明るさが戻ってきたように思えます。  
 凍りついていた時間が、ゆっくりと溶けていく。そんな日々でした。

 けれど――。  
 変わらないことも、一つだけありました。  
 夜になると必ず、あの方がわたしを呼ぶのです。

* * *

「入ってくれ」

 低く響くその声に、わたしの心臓は今も変わらず跳ねます。  
 書斎の奥では、暖炉の火が静かに燃え、ルシアン様が椅子に腰掛けていました。  
 彼の手元には、読みかけの本。けれどページを開いたまま、視線はわたしに向けられていました。

「もう夜更けです。こんな時間にお呼びとは……」

「ただの習慣だ。君と過ごす時間がなければ、夜が長く感じる」

「習慣、ですか?」  
「そうだ。25夜の日課だ」

 そう言われるたび、少し照れてしまいます。  
 でも、きっとそれはわたしだけではありません。  
 彼の視線にもほんのかすかな熱が宿っていて、それが何よりもまぶしかったのです。

「セラフィーナ」  
「はい?」  
「笑っていないときの君も、悪くないな」

「……それは、どういう意味ですか?」  
「疲れたとき、迷っているような顔をする。だがそれも人間らしくて――いい」

 思わぬ言葉に、胸が詰まりました。  
 この人が、こんな優しい目で誰かを見るなんて。  
 知らなかった彼の一面に触れるたび、心が少しずつ溶けていくのを感じました。

* * *

 ある日の午後。  
 外では久しぶりに大きな吹雪が荒れ狂っていました。  
 館中が白い霧に包まれるようで、外の景色さえわからないほど。  
 そんな中、マリーがわたしの部屋に飛び込んできたのです。

「セラフィーナ様っ、ケガをされたと――!」

「誰が……?」

「侯爵様です!」

 思わず針山を落としました。  
 胸がざわめいて、一瞬にして血の気が引きます。  
 居ても立ってもいられず、マントも羽織らぬまま扉を飛び出しました。

* * *

 中庭の方角から、短いうめき声が聞こえました。  
 雪の中に膝をついている侯爵の姿――その腕から、赤いものが滲んでいます。  
 駆け寄って、彼の手を掴みました。

「ルシアン様! しっかりしてください!」

「大したことは……ない。剣の手入れをしていて、少し切っただけだ」

「少し、ではありません!」

 冷たい風が吹きすさぶ中、わたしは慌てて布を裂き、彼の腕に巻きつけました。  
 彼は黙って見ていましたが、やがて微かに息をつきました。

「君は……いつも無茶をするな」

「あなたこそ、です。どうしてそんなに自分を傷つけるのですか」

 彼はしばらく黙っていました。  
 そしてようやく、小さな声で言いました。

「傷つくほうが、誰かを傷つけるより楽だからだ」

「そんなの……違います」

 気づけば、涙が零れていました。  
 寒さで頬が痛いのか、心が痛いのか、もう分かりません。  
 でも次の瞬間、彼の手がわたしの涙を拭い取りました。

「泣くな。……君の涙は、胸に刺さる」

 その言葉があまりにも優しくて、息が止まりました。  
 指が、頬をなぞる。  
 わたしの唇が微かに震えて、視線がぶつかります。  
 お互い、言葉を失ったまま、ただ雪の中で見つめ合いました。

 世界が白く霞むほどの吹雪の中で、彼の瞳だけが、はっきりと見えました。  
 氷の色をした瞳に灯る、小さな炎のような光。  
 それを見た瞬間、わたしは確信しました――この人は決して冷たい人ではない、と。

「……戻りましょう。凍えてしまいます」

「ああ」

 彼の手がわたしの手を包み、そのまま引かれて歩きました。  
 体温の伝わるぬくもりが、寒さよりも確かに存在していました。

* * *

 館に戻り、火を起こして彼を座らせると、侍医がやってきて怪我の処置をしました。  
 手当のあいだ、ルシアン様はずっと無言でした。  
 けれど、わたしが包帯を巻き直すときだけ、小さな声で言いました。

「君の手は、不思議だな。触れられると、痛みが消える」

「そんなこと……」

 笑おうとしたのに、声が震えました。  
 彼の手を取り、そっと握り返します。

「それなら、何度でも包みます。あなたの痛みが消えるまで」

 彼の瞳が揺れて、かすかに微笑みました。  
 その笑みは、以前よりずっと温かく、柔らかく――春の陽射しのようでした。

* * *

 それから数日、侯爵の傷はすぐに癒えました。  
 以前にも増して執務室にこもることが減り、館の人々ともよく言葉を交わすようになったのです。  
 使用人たちは驚きながらも、どこか嬉しそうでした。

「旦那様、少し温かみが増しましたな」  
「奥様のおかげですよ、きっと!」

 皆のそんな囁きに、わたしは顔を赤くしながら逃げるように温室へ向かいました。  
 でも、そこでも彼が先に待っていたのです。

「逃げるとは、らしくないな」  
「……聞かれていましたか」

「館中の噂を聞かぬはずがない。だが、悪い気はしなかった」

「もう……やめてください。からかわないでください」

 そう言いながらも、心はどこかくすぐったく、温かさがこみ上げます。  
 ルシアン様は笑い、手にした小さな花を差し出しました。

「春を見たいなら、これを」

「……この花、庭の?」

「あの日、君が雪の中で拾った種が芽を出した。私は毎朝それを見るのが楽しみになった」

 白い小花の茎を、彼の指先がわたしの指へとそっと渡しました。  
 触れた瞬間、あの日と同じぬくもりが広がっていく。

「ありがとう……ルシアン様」

「礼を言うのは私だ。君が来てから、この館は暖かくなった」

 その言葉に、胸が熱くなって、思わず視線を伏せました。  
 けれど次の瞬間、頭に軽い感触。  
 彼が、そっとわたしの髪に触れていたのです。

「……この光、春の日差しみたいだな」

「や、やめてください……!」

 肩まで真っ赤になってしまい、言葉がまとまりません。  
 彼は小さく笑い、指を離しました。  
 その笑顔がずるいほど優しく、心臓が痛いくらいに高鳴ります。

* * *

 夜になっても、その笑顔が頭から離れませんでした。  
 枕を抱えてごろごろ転がっても、眠れないのです。

(もう、どうしてこんなに……)

 思い出すたび胸が苦しくなって、けれど嬉しくて。  
 これが恋なのだと、わたしにもわかってしまいました。

 窓の外を見ると、雪はもう止んでいます。  
 冬の夜空に星が輝き、その中央で月が淡く光っていました。

「あなたは孤独じゃない。――もう、ひとりではないのです」

 ガラス越しにつぶやいたその言葉は、ゆっくりと白く溶けて消えていきました。  
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