【完結】氷の侯爵と25夜の約束

朝日みらい

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第八章 偽りの名

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 あの日、彼の心に確かに“炎”が宿ったと感じた。  
 でも、わたしは同時に知っていた。  
 その炎を燃やし続けるには、わたしが抱えている“偽り”が、いつか必ずそれを脅かすことになるのだと。

* * *

 春の兆しを感じさせる陽射しが、雪の屋根を溶かしていた頃。  
 わたしのもとへ、一通の手紙が届きました。

「……これは、王都から?」

 筆跡は見覚えのあるものでした。アデル――わたしの義妹です。  
 震える指で封を開き、書かれた文字を目で追う。

『お姉様、“身代わりの務め”はもう十分です。  
 侯爵閣下の関心が私に戻る前に、静かにお館を出なさい。  
 本物の花嫁であるわたくしが、すぐに行きますから。』

 その瞬間、頭が真っ白になりました。  
 指先が震え、紙がぱらりと音を立てて床に落ちます。  
 外では鳥の声が遠く聞こえていました。けれど、わたしの耳には何も届かない。

(……本物の花嫁、ですって?)

 胸の奥にある秘密が、突然鋭い刃で切り裂かれたような気がしました。  
 “身代わりの花嫁”――その言葉を思い出すたびに、心臓が冷たく沈みます。

「どうして、今になって……」

 彼女は何を狙っているのか。  
 離縁など望まぬほど、わたしは侯爵を……。

 その思いを自覚した瞬間、涙が頬を伝いました。

* * *

 その夜も、ルシアン様はわたしを呼びました。  
 沈む月明かりの下、書斎の窓辺で、彼は静かな微笑を浮かべています。

「今日は少し顔色が悪いな」  
「……いえ、何でもありません」

「嘘だ」  
 彼の瞳がまっすぐにわたしを射抜く。  
 どうしてこの人は、こんなにも簡単に見抜いてしまうのだろう。

「言わぬのなら、無理にとは言わぬ。ただ、私は――」

 ルシアン様が言葉を途切らせました。  
 そのまま一歩近づき、わたしの頬に触れます。  
 その指先がわずかに震えていて、胸が締めつけられました。

「……私は、君が笑っていてくれればそれでいい」

 涙が溢れそうになって、思わず瞼を閉じました。  
 本当は、全部話したい。  
 けれどそれを口にしてしまえば、この温もりも消えてしまう気がして、怖かった。

(もし真実を知ったら、彼はどう思うだろう)

 彼の優しさを裏切ることになる。  
 その罪悪感が、雪よりも重く肩にのしかかっていきました。

* * *

 翌日。侯爵の侍従カイルが、廊下でわたしの名を呼び止めました。  
 彼は人懐こい笑みを浮かべながらも、どこか探るような口調でした。

「奥方様、失礼ですが――王都のご家族とは、最近連絡を取られてますか?」

「……どうして、そのようなことを?」

「いえ。少し気になる報せを耳にしましてね。  
 ロシュフォール家のお嬢様が、侯爵に縁談の礼を述べに赴くとか」

 息が止まりました。  
 胸の奥で心臓が跳ね上がり、血の気が引く。  
 その名を聞くだけで、頭の中が音を立てて崩れていくのが分かりました。

「そ、それは……なにかの間違いです」

「そうですね。きっと勘違いでしょう。ただ……旦那様には、なにかお話しされては?」

「いえっ!」

 カイルは一瞬驚いたあと、寂しそうに笑いました。

「旦那様は、本当に貴女を……」

 最後まで言わずに去っていく彼の背中が、やけに遠く感じられました。

* * *

 数日後。空は厚い雲に覆われ、再び雪が降り始めました。  
 明りの灯る温室で、わたしは冬の誓花を見つめていました。  
 淡い桃色に染まったその花弁が、まるで心の行方を示すように揺れている。

「……どうすればいいのでしょう、母様」

 小さく呟いた声は、花の香りに溶けました。  
 仮初の名前で生き、仮初の妻として過ごす――この偽りの時間。  
 それが終わる日が、もうすぐ来ると感じていました。

* * *

 その夜。  
 雪の中に馬車の音が響きました。  
 執事の声が慌ただしく廊下に響き、使用人たちのざわめきが広がります。

「ルシアン様! お客様が……!」

 扉の向こうで、彼の声が短く応えた。  
 そして次の瞬間、わたしの心を切り裂く声が玄関から響きました。

「――その女は、私の身代わりです!」

 アデル。  
 あの、誰よりも美しく、残酷な義妹の声でした。

 廊下を急ぐと、広間の扉が大きく開きます。  
 白いコートをまとったアデルが立っていました。雪の中でも妖しいほど華やかで、彼女の後ろには伯爵家の執事の姿。  
 ルシアン様がその前に立ち、冷えきった表情で口を開きます。

「どういう意味だ」

「その方、セラフィーナではなく――わたくしの義姉ですの。  
 本来この婚姻の名義は、わたくし。それを父が……“身代わり”として彼女にサインさせたのです」

 広間が凍りついたように静まりました。  
 わたしは声も出せず、ただ立ち尽くしていました。  
 ルシアン様の視線が、ゆっくりとわたしに向けられる。  
 その目が、さっきまでの優しさを完全に失って。

「……真か」

「……ごめんなさい」

 一歩、彼が近づく音が響きました。  
 その足音が雪よりも冷たく、耳に刺さる。

「私を、欺いていたのか」

「最初は……わたしも知らなかったのです。アデルに言われるままに……でも、だんだん――」

「言い訳はいらない」

 その声音が、凍てつく刃のようでした。  
 胸が裂けるように痛く、呼吸すらできない。

「君を信じた私が、愚かだった」

 その言葉で、わたしの世界は崩れました。  
 足元の雪が砕けるような音がして、視界が滲んでいく。  
 けれど彼はもう、わたしを見ていませんでした。  

 冷たい背中を最後に、扉が閉ざされる音だけが残されました。

* * *

 その夜、部屋に一通の書簡が届きました。  
 封を切らずとも、中身が何か分かってしまう。

『契約はここで終了とする。25夜目を迎える資格は、君にはない。』

 震える指が紙を握り締め、涙が紙面を濡らしました。  
 遠くで風の音が鳴り、雪が窓を叩いています。  
 外の世界まで、すべてが凍りついたようでした。

(ああ、終わってしまったんだわ)

 心の中で何度繰り返しても、信じたくなかった。  
 けれど、冷たい現実が容赦なく胸に突き刺さる。  

 わたしは震える肩を抱き、声を押し殺して泣き崩れました。
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