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第九章 優しさの代償
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雪が静かに降り始めた夜でした。
館の灯火は消え、屋敷は深い眠りに包まれていました。
その中で、ただ一人、わたしだけが目を覚ましていました。
眠れなかったのです。
胸の奥で、まだルシアン様の声が響いていました。
“信じた私が、愚かだった”――その言葉が、耳から離れないまま。
息を吐くたび、心まで凍っていくようで。
けれど泣き尽くすこともできず、ただ、白く曇る窓に顔を寄せていました。
雪の向こう、温室の影がぼんやりと見えます。
もう、あそこに行く資格も、わたしにはないのに。
* * *
朝。
屋敷の様子は、明らかに変わっていました。
誰もがわたしを避けるように目を逸らし、無言のまま通り過ぎていく。
いつも優しかったマリーでさえ、どこか怯えた顔をしていました。
「セラフィーナ……様。お……お食事は?」
「いりません。少し外の空気を吸ってきます」
そう答えると、彼女は悲しそうに首を振りました。
やがて、かすれた声でつぶやきます。
「どうか……お気をつけて。ルシアン様は……」
続きは聞き取れませんでした。
でも、きっと分かっていました。
“もう、あなたを信じていない”――それだけは、伝わっていたから。
* * *
吹雪の止んだ午後、温室の前に立ちました。
鍵は開いています。
最後に一度だけ、この場所を見ておきたかった。
中は静かで、息をひそめるように花が咲き誇っていました。
けれど冬の誓花だけは、少し萎れていました。
まるで、わたしの心を映すように。
「ごめんなさい……こんなことになって」
花に指を伸ばすと、ひとひらがはらりと落ちていきます。
それを拾おうとした瞬間、背後から声がしました。
「ここにいたのか」
ルシアン様の声でした。
振り返ると、彼は冷たい瞳で立っていました。
あの夜の温もりなど、どこにも残っていない。
「あなたに……お別れを言わずに去るのは、失礼かと思いました」
「礼儀など要らない。君は、最初から他人だ」
そのあまりの冷たさに、目の前が滲みました。
けれど、泣いても何も変わらないことは分かっています。
わたしは静かに膝を折り、頭を下げました。
「お世話になりました。短い間でしたが……幸せでした」
「幸せ?」
彼が皮肉な笑みを浮かべます。
けれどその表情は、どこか苦しげにも見えました。
「欺かれていた私が、君のどこに幸せを感じられる?」
「それでも、わたしはあなたと過ごした時間を、偽りとは呼びたくありません」
その言葉に、彼の肩がわずかに動きました。
でも、すぐに顔を背けます。
「君は身代わりとして送り込まれただけだ。――情をかけるほど、無駄なことはない」
「そうかもしれません。でも、あなたが見せてくれた笑顔だけは、本物だったと信じたい」
沈黙。
雪解けの滴がガラスを伝う音だけが響く。
やがて彼は、かすかに息をつきました。
「……もう行け。25夜目を迎える資格はない」
「はい。……さようなら、ルシアン様」
その名を呼んだ瞬間、涙がこぼれ落ちました。
彼は動かなかった。
わたしの背を見送ることもなく、ただ立ち尽くしていました。
* * *
吹雪の夜。
凍てつく風を避けながら馬車に揺られる。
辺境の森を抜け、遠くの街明かりが見えたとき、初めて息が漏れました。
「これで……よかったのよね」
そう呟いても、胸の奥は何ひとつ軽くならなかった。
あの人がわたしを責める顔が浮かぶたび、心臓が痛みました。
それでも、戻ることはできない。
(わたしがいなければ、侯爵様は――また笑えるかもしれない)
そう、信じたかった。
* * *
吹雪が弱まった深夜、ルシアン様は温室に一人残っていた。
執事のローレンが呼びに来ても応えず、ただ花に触れもせず立ち尽くしていたという。
冬の誓花は力なくうなだれ、花弁が一枚、また一枚と落ちていく。
「……君は、なぜ泣く」
侯爵の声が震える。
その問いが自分自身に向けられたものであることを、彼自身が一番よく知っていた。
* * *
それから数日。
わたしは辺境の小さな町に身を寄せていました。
屋根裏の部屋を借り、刺繍の仕事を手伝いながら暮らします。
誰もわたしの素性を知らず、ただの流れの娘として受け入れてくれました。
「セラ、と呼んでいい?」と村の子どもが笑う。
わたしも微笑み返しました。
けれど夜になると、窓の外の雪が彼の瞳に似て見えて、胸が締めつけられた。
(あの人は今、何をしているのだろう)
手を胸に当てて祈るように呟きます。
「どうか、彼が幸せでありますように」――それだけが、いまのわたしにできることでした。
* * *
そのころ、侯爵領の館では、別の嵐が吹き荒れていました。
アデルが居座り、裏で伯爵家の影が蠢いていたのです。
密輸と婚姻詐欺の疑惑。証拠を掴んだのは、侯爵の侍従でした。
「旦那様……まさかとは思いますが、あのセラフィーナ様は本当に……」
「もういい」
ルシアン様は低く呟きました。
しかし、その拳は震えていました。
机の上には、一輪の枯れかけた誓花。
彼の視線がその上に落ちると、しばらくしてふっと笑いました。
それは、自嘲にも似た、痛みを含んだ微笑でした。
「君の優しさは、代償を払ってまでも本物だったのかもしれないな」
その声は、誰にも届かぬほどの静けさの中へ溶けていきました。
館の灯火は消え、屋敷は深い眠りに包まれていました。
その中で、ただ一人、わたしだけが目を覚ましていました。
眠れなかったのです。
胸の奥で、まだルシアン様の声が響いていました。
“信じた私が、愚かだった”――その言葉が、耳から離れないまま。
息を吐くたび、心まで凍っていくようで。
けれど泣き尽くすこともできず、ただ、白く曇る窓に顔を寄せていました。
雪の向こう、温室の影がぼんやりと見えます。
もう、あそこに行く資格も、わたしにはないのに。
* * *
朝。
屋敷の様子は、明らかに変わっていました。
誰もがわたしを避けるように目を逸らし、無言のまま通り過ぎていく。
いつも優しかったマリーでさえ、どこか怯えた顔をしていました。
「セラフィーナ……様。お……お食事は?」
「いりません。少し外の空気を吸ってきます」
そう答えると、彼女は悲しそうに首を振りました。
やがて、かすれた声でつぶやきます。
「どうか……お気をつけて。ルシアン様は……」
続きは聞き取れませんでした。
でも、きっと分かっていました。
“もう、あなたを信じていない”――それだけは、伝わっていたから。
* * *
吹雪の止んだ午後、温室の前に立ちました。
鍵は開いています。
最後に一度だけ、この場所を見ておきたかった。
中は静かで、息をひそめるように花が咲き誇っていました。
けれど冬の誓花だけは、少し萎れていました。
まるで、わたしの心を映すように。
「ごめんなさい……こんなことになって」
花に指を伸ばすと、ひとひらがはらりと落ちていきます。
それを拾おうとした瞬間、背後から声がしました。
「ここにいたのか」
ルシアン様の声でした。
振り返ると、彼は冷たい瞳で立っていました。
あの夜の温もりなど、どこにも残っていない。
「あなたに……お別れを言わずに去るのは、失礼かと思いました」
「礼儀など要らない。君は、最初から他人だ」
そのあまりの冷たさに、目の前が滲みました。
けれど、泣いても何も変わらないことは分かっています。
わたしは静かに膝を折り、頭を下げました。
「お世話になりました。短い間でしたが……幸せでした」
「幸せ?」
彼が皮肉な笑みを浮かべます。
けれどその表情は、どこか苦しげにも見えました。
「欺かれていた私が、君のどこに幸せを感じられる?」
「それでも、わたしはあなたと過ごした時間を、偽りとは呼びたくありません」
その言葉に、彼の肩がわずかに動きました。
でも、すぐに顔を背けます。
「君は身代わりとして送り込まれただけだ。――情をかけるほど、無駄なことはない」
「そうかもしれません。でも、あなたが見せてくれた笑顔だけは、本物だったと信じたい」
沈黙。
雪解けの滴がガラスを伝う音だけが響く。
やがて彼は、かすかに息をつきました。
「……もう行け。25夜目を迎える資格はない」
「はい。……さようなら、ルシアン様」
その名を呼んだ瞬間、涙がこぼれ落ちました。
彼は動かなかった。
わたしの背を見送ることもなく、ただ立ち尽くしていました。
* * *
吹雪の夜。
凍てつく風を避けながら馬車に揺られる。
辺境の森を抜け、遠くの街明かりが見えたとき、初めて息が漏れました。
「これで……よかったのよね」
そう呟いても、胸の奥は何ひとつ軽くならなかった。
あの人がわたしを責める顔が浮かぶたび、心臓が痛みました。
それでも、戻ることはできない。
(わたしがいなければ、侯爵様は――また笑えるかもしれない)
そう、信じたかった。
* * *
吹雪が弱まった深夜、ルシアン様は温室に一人残っていた。
執事のローレンが呼びに来ても応えず、ただ花に触れもせず立ち尽くしていたという。
冬の誓花は力なくうなだれ、花弁が一枚、また一枚と落ちていく。
「……君は、なぜ泣く」
侯爵の声が震える。
その問いが自分自身に向けられたものであることを、彼自身が一番よく知っていた。
* * *
それから数日。
わたしは辺境の小さな町に身を寄せていました。
屋根裏の部屋を借り、刺繍の仕事を手伝いながら暮らします。
誰もわたしの素性を知らず、ただの流れの娘として受け入れてくれました。
「セラ、と呼んでいい?」と村の子どもが笑う。
わたしも微笑み返しました。
けれど夜になると、窓の外の雪が彼の瞳に似て見えて、胸が締めつけられた。
(あの人は今、何をしているのだろう)
手を胸に当てて祈るように呟きます。
「どうか、彼が幸せでありますように」――それだけが、いまのわたしにできることでした。
* * *
そのころ、侯爵領の館では、別の嵐が吹き荒れていました。
アデルが居座り、裏で伯爵家の影が蠢いていたのです。
密輸と婚姻詐欺の疑惑。証拠を掴んだのは、侯爵の侍従でした。
「旦那様……まさかとは思いますが、あのセラフィーナ様は本当に……」
「もういい」
ルシアン様は低く呟きました。
しかし、その拳は震えていました。
机の上には、一輪の枯れかけた誓花。
彼の視線がその上に落ちると、しばらくしてふっと笑いました。
それは、自嘲にも似た、痛みを含んだ微笑でした。
「君の優しさは、代償を払ってまでも本物だったのかもしれないな」
その声は、誰にも届かぬほどの静けさの中へ溶けていきました。
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