【完結】氷の侯爵と25夜の約束

朝日みらい

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第九章 優しさの代償

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 雪が静かに降り始めた夜でした。  
 館の灯火は消え、屋敷は深い眠りに包まれていました。  
 その中で、ただ一人、わたしだけが目を覚ましていました。

 眠れなかったのです。  
 胸の奥で、まだルシアン様の声が響いていました。  
 “信じた私が、愚かだった”――その言葉が、耳から離れないまま。

 息を吐くたび、心まで凍っていくようで。  
 けれど泣き尽くすこともできず、ただ、白く曇る窓に顔を寄せていました。  
 雪の向こう、温室の影がぼんやりと見えます。  
 もう、あそこに行く資格も、わたしにはないのに。

* * *

 朝。  
 屋敷の様子は、明らかに変わっていました。  
 誰もがわたしを避けるように目を逸らし、無言のまま通り過ぎていく。  
 いつも優しかったマリーでさえ、どこか怯えた顔をしていました。

「セラフィーナ……様。お……お食事は?」

「いりません。少し外の空気を吸ってきます」

 そう答えると、彼女は悲しそうに首を振りました。  
 やがて、かすれた声でつぶやきます。

「どうか……お気をつけて。ルシアン様は……」

 続きは聞き取れませんでした。  
 でも、きっと分かっていました。  
 “もう、あなたを信じていない”――それだけは、伝わっていたから。

* * *

 吹雪の止んだ午後、温室の前に立ちました。  
 鍵は開いています。  
 最後に一度だけ、この場所を見ておきたかった。

 中は静かで、息をひそめるように花が咲き誇っていました。  
 けれど冬の誓花だけは、少し萎れていました。  
 まるで、わたしの心を映すように。

「ごめんなさい……こんなことになって」

 花に指を伸ばすと、ひとひらがはらりと落ちていきます。  
 それを拾おうとした瞬間、背後から声がしました。

「ここにいたのか」

 ルシアン様の声でした。  
 振り返ると、彼は冷たい瞳で立っていました。  
 あの夜の温もりなど、どこにも残っていない。

「あなたに……お別れを言わずに去るのは、失礼かと思いました」

「礼儀など要らない。君は、最初から他人だ」

 そのあまりの冷たさに、目の前が滲みました。  
 けれど、泣いても何も変わらないことは分かっています。  
 わたしは静かに膝を折り、頭を下げました。

「お世話になりました。短い間でしたが……幸せでした」

「幸せ?」  
 彼が皮肉な笑みを浮かべます。  
 けれどその表情は、どこか苦しげにも見えました。

「欺かれていた私が、君のどこに幸せを感じられる?」

「それでも、わたしはあなたと過ごした時間を、偽りとは呼びたくありません」

 その言葉に、彼の肩がわずかに動きました。  
 でも、すぐに顔を背けます。

「君は身代わりとして送り込まれただけだ。――情をかけるほど、無駄なことはない」

「そうかもしれません。でも、あなたが見せてくれた笑顔だけは、本物だったと信じたい」

 沈黙。  
 雪解けの滴がガラスを伝う音だけが響く。  
 やがて彼は、かすかに息をつきました。

「……もう行け。25夜目を迎える資格はない」

「はい。……さようなら、ルシアン様」

 その名を呼んだ瞬間、涙がこぼれ落ちました。  
 彼は動かなかった。  
 わたしの背を見送ることもなく、ただ立ち尽くしていました。

* * *

 吹雪の夜。  
 凍てつく風を避けながら馬車に揺られる。  
 辺境の森を抜け、遠くの街明かりが見えたとき、初めて息が漏れました。

「これで……よかったのよね」

 そう呟いても、胸の奥は何ひとつ軽くならなかった。  
 あの人がわたしを責める顔が浮かぶたび、心臓が痛みました。  
 それでも、戻ることはできない。

(わたしがいなければ、侯爵様は――また笑えるかもしれない)

 そう、信じたかった。

* * *

 吹雪が弱まった深夜、ルシアン様は温室に一人残っていた。  
 執事のローレンが呼びに来ても応えず、ただ花に触れもせず立ち尽くしていたという。  
 冬の誓花は力なくうなだれ、花弁が一枚、また一枚と落ちていく。

「……君は、なぜ泣く」

 侯爵の声が震える。  
 その問いが自分自身に向けられたものであることを、彼自身が一番よく知っていた。

* * *

 それから数日。  
 わたしは辺境の小さな町に身を寄せていました。  
 屋根裏の部屋を借り、刺繍の仕事を手伝いながら暮らします。  
 誰もわたしの素性を知らず、ただの流れの娘として受け入れてくれました。

「セラ、と呼んでいい?」と村の子どもが笑う。  
 わたしも微笑み返しました。  
 けれど夜になると、窓の外の雪が彼の瞳に似て見えて、胸が締めつけられた。

(あの人は今、何をしているのだろう)

 手を胸に当てて祈るように呟きます。  
 「どうか、彼が幸せでありますように」――それだけが、いまのわたしにできることでした。

* * *

 そのころ、侯爵領の館では、別の嵐が吹き荒れていました。  
 アデルが居座り、裏で伯爵家の影が蠢いていたのです。  
 密輸と婚姻詐欺の疑惑。証拠を掴んだのは、侯爵の侍従でした。

「旦那様……まさかとは思いますが、あのセラフィーナ様は本当に……」

「もういい」  
 ルシアン様は低く呟きました。  
 しかし、その拳は震えていました。

 机の上には、一輪の枯れかけた誓花。  
 彼の視線がその上に落ちると、しばらくしてふっと笑いました。  
 それは、自嘲にも似た、痛みを含んだ微笑でした。

「君の優しさは、代償を払ってまでも本物だったのかもしれないな」

 その声は、誰にも届かぬほどの静けさの中へ溶けていきました。
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