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第一章:森の光
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木漏れ日が、まるで祝福の砂のように降る午後のことでした。
わたし、ミレイアが捧げる祈りは、この古い森の奥深くで静かに完結するはずのものでした。周囲を侵食しつつある「灰病(はいびょう)」――すべてを灰色に変え、命の脈動を止めてしまう呪いのような病――からこの小さな聖域を守ること。それが、忘れられた祈り手の一族であるわたしの、たったひとつの役目だったのです。
「……土に還り、芽吹きを待ち、風に歌を託しましょう」
最後の一節を口に馴染ませ、指先を地面に触れさせた瞬間でした。
視界が、ぐにゃりと歪みました。
内側から内臓を焼かれるような、ひどい熱。
祈りを捧げるたび、わたしの内側からは何かが削り取られていくような感覚があります。それを「森の声」に耳を澄ませた代償だと思い込んでいた当時のわたしは、自分の限界がすぐそこまで来ていることに気づいていませんでした。
(あ……、まずいかも……)
膝から力が抜け、視界が真っ白に染まります。
固い地面に叩きつけられる衝撃を覚悟して、わたしはそっと目を閉じました。
けれど、いつまで経っても痛みはやってきませんでした。
代わりに感じたのは、ひんやりとした金属の冷たさと、それを上回るほどの、力強くて温かい「体温」でした。
「おい、しっかりしろ! ……おい!」
鼓膜を震わせる、低くて、少し焦ったような声。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには見たこともないほど端正な、けれどひどく険しい表情をした青年がわたしを覗き込んでいました。
灰銀色の瞳。それは、この森を蝕む病と同じ色のはずなのに、どうしてか冬の朝の空気のように澄んでいて、恐ろしいほどに綺麗でした。
「……あ、の……」
「喋るな。顔色が酷いぞ。……君が、この森の聖なる『祈り手』か?」
彼はわたしの細い肩を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど逃がさないと言わんばかりの強さで抱き止めていました。
銀の甲冑が太陽を反射して眩しい。王都の騎士様でしょうか。こんな辺境の、呪われた森にどうして。
「大丈夫、です……。少し、立ちくらみがしただけで……っ」
強がって立ち上がろうとした拍子に、また世界が回りました。
情けないことに、わたしの体は再び彼の胸の中へと収まってしまいます。密着した胸板から、ドク、ドクと規則正しい鼓動が伝わってきて、自分の心臓まで変なリズムを刻み始めました。
祈りで熱くなった胸が、今度は別の理由で熱を帯びていくのを感じます。
「これのどこが『大丈夫』なんだ。……無茶をさせるな、自分の体に」
彼は呆れたように吐息をつくと、わたしの頬にそっと手を添えました。
革手袋越しではない、剥き出しの指先の熱。それが肌に触れた瞬間、心臓が跳ねました。森の声でも、灰病の侵食でもない。もっと直接的に、魂を揺さぶられるような衝撃。
彼はわたしの乱れた前髪を、驚くほど愛おしそうに、けれどどこか悲しげに指先で整えてくれました。
「……綺麗な髪だ。こんなところで、一人で削られている場合じゃないだろうに」
その言葉の意味を、当時のわたしは測りかねていました。
ただ、自分を抱きしめる彼の腕が微かに震えていること。そして、その瞳が、救いを求める子供のように揺れていることだけが、不思議と胸に焼き付いたのです。
さて、そんな運命的な出会いから数時間後。
わたしの住む質素な小屋の周辺は、およそ似つかわしくない騒動に包まれていました。
「ミレイア様! ミレイア様はいらっしゃいますか! ああっ、この草の根を分けるような隠れ里感! まさに聖女の住まいに相応しい!」
……台無しです。
先程までの、アルディオン様(と、後で名乗ってくれました)とのしっとりとした空気は、この騒がしい御一行の登場によって木端微塵に砕け散りました。
豪華な馬車から降りてきたのは、キラキラと輝く金髪をなびかせた、いかにも「私は物語の主人公です」というオーラを全身から放つ美青年。
この国の第一王子、セドリック・ヴァルセリア殿下その人でした。
「初めまして、森の愛し子。君を探していたんだ。この枯れゆく王国を救う、真の『光』をね!」
殿下はわたしの手を取り、情熱的に(というよりは、劇的に)跪きました。
その背後で、アルディオン様が「……殿下、少しは落ち着いてください。彼女は今さっき倒れたばかりなんです」と、眉間に深いシワを寄せて控えています。
「アルディオン、君は相変わらず情緒がないね! 運命の出会いには相応しい演出が必要だよ」
「演出よりも休息です。ミレイア殿の顔色がまだ戻っていません」
アルディオン様の視線が、一瞬だけわたしの唇に落ちました。
ほんの一瞬。けれど、熱い。
彼は殿下の影に隠れるようにして立ちながらも、その鋭い双眸でずっとわたしを見守ってくれていました。
殿下は、わたしのことを「国を救う象徴」として見ている。
けれど、このぶっきらぼうな騎士様は、わたしのことを「今にも壊れそうな一人の人間」として見ている。
その違いが、わたしの心に小さな、けれど消えない波紋を広げました。
「ミレイア、君を王都へ連れて行きたい。君の祈りが、この国を再生させる鍵なんだ。……いや、君という存在そのものが、私の、そして国民の希望になる」
殿下の言葉は甘く、理想に満ちていました。
でも、どうしてでしょう。その言葉を聞くほどに、わたしの体温は冷えていくような気がします。
「……私は、ただの祈り手です。期待されるような力があるかどうか……」
「謙遜はいらないよ。さあ、共に行こう。君を待つ白亜の城へ!」
強引に手を取られようとしたその時。
横から、無造作に、けれど確かな意志を持った手が、殿下の動きを遮りました。
「――お言葉ですが、殿下。移動の準備は私が整えます。彼女には、せめて一晩の休息を」
アルディオン様の低い声。
彼はわたしの前に立ち、その広い背中で殿下の熱狂的な視線を遮ってくれました。
振り返った彼と、一瞬だけ視線が重なります。
彼は何も言いませんでしたが、その灰銀の瞳は、静かに私に問いかけているようでした。
(――君は、本当にそれでいいのか?)
わたしは、自分の胸に手を当てました。
そこにはまだ、彼に抱き止められた時の熱が残っています。
わたし、ミレイアが捧げる祈りは、この古い森の奥深くで静かに完結するはずのものでした。周囲を侵食しつつある「灰病(はいびょう)」――すべてを灰色に変え、命の脈動を止めてしまう呪いのような病――からこの小さな聖域を守ること。それが、忘れられた祈り手の一族であるわたしの、たったひとつの役目だったのです。
「……土に還り、芽吹きを待ち、風に歌を託しましょう」
最後の一節を口に馴染ませ、指先を地面に触れさせた瞬間でした。
視界が、ぐにゃりと歪みました。
内側から内臓を焼かれるような、ひどい熱。
祈りを捧げるたび、わたしの内側からは何かが削り取られていくような感覚があります。それを「森の声」に耳を澄ませた代償だと思い込んでいた当時のわたしは、自分の限界がすぐそこまで来ていることに気づいていませんでした。
(あ……、まずいかも……)
膝から力が抜け、視界が真っ白に染まります。
固い地面に叩きつけられる衝撃を覚悟して、わたしはそっと目を閉じました。
けれど、いつまで経っても痛みはやってきませんでした。
代わりに感じたのは、ひんやりとした金属の冷たさと、それを上回るほどの、力強くて温かい「体温」でした。
「おい、しっかりしろ! ……おい!」
鼓膜を震わせる、低くて、少し焦ったような声。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには見たこともないほど端正な、けれどひどく険しい表情をした青年がわたしを覗き込んでいました。
灰銀色の瞳。それは、この森を蝕む病と同じ色のはずなのに、どうしてか冬の朝の空気のように澄んでいて、恐ろしいほどに綺麗でした。
「……あ、の……」
「喋るな。顔色が酷いぞ。……君が、この森の聖なる『祈り手』か?」
彼はわたしの細い肩を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど逃がさないと言わんばかりの強さで抱き止めていました。
銀の甲冑が太陽を反射して眩しい。王都の騎士様でしょうか。こんな辺境の、呪われた森にどうして。
「大丈夫、です……。少し、立ちくらみがしただけで……っ」
強がって立ち上がろうとした拍子に、また世界が回りました。
情けないことに、わたしの体は再び彼の胸の中へと収まってしまいます。密着した胸板から、ドク、ドクと規則正しい鼓動が伝わってきて、自分の心臓まで変なリズムを刻み始めました。
祈りで熱くなった胸が、今度は別の理由で熱を帯びていくのを感じます。
「これのどこが『大丈夫』なんだ。……無茶をさせるな、自分の体に」
彼は呆れたように吐息をつくと、わたしの頬にそっと手を添えました。
革手袋越しではない、剥き出しの指先の熱。それが肌に触れた瞬間、心臓が跳ねました。森の声でも、灰病の侵食でもない。もっと直接的に、魂を揺さぶられるような衝撃。
彼はわたしの乱れた前髪を、驚くほど愛おしそうに、けれどどこか悲しげに指先で整えてくれました。
「……綺麗な髪だ。こんなところで、一人で削られている場合じゃないだろうに」
その言葉の意味を、当時のわたしは測りかねていました。
ただ、自分を抱きしめる彼の腕が微かに震えていること。そして、その瞳が、救いを求める子供のように揺れていることだけが、不思議と胸に焼き付いたのです。
さて、そんな運命的な出会いから数時間後。
わたしの住む質素な小屋の周辺は、およそ似つかわしくない騒動に包まれていました。
「ミレイア様! ミレイア様はいらっしゃいますか! ああっ、この草の根を分けるような隠れ里感! まさに聖女の住まいに相応しい!」
……台無しです。
先程までの、アルディオン様(と、後で名乗ってくれました)とのしっとりとした空気は、この騒がしい御一行の登場によって木端微塵に砕け散りました。
豪華な馬車から降りてきたのは、キラキラと輝く金髪をなびかせた、いかにも「私は物語の主人公です」というオーラを全身から放つ美青年。
この国の第一王子、セドリック・ヴァルセリア殿下その人でした。
「初めまして、森の愛し子。君を探していたんだ。この枯れゆく王国を救う、真の『光』をね!」
殿下はわたしの手を取り、情熱的に(というよりは、劇的に)跪きました。
その背後で、アルディオン様が「……殿下、少しは落ち着いてください。彼女は今さっき倒れたばかりなんです」と、眉間に深いシワを寄せて控えています。
「アルディオン、君は相変わらず情緒がないね! 運命の出会いには相応しい演出が必要だよ」
「演出よりも休息です。ミレイア殿の顔色がまだ戻っていません」
アルディオン様の視線が、一瞬だけわたしの唇に落ちました。
ほんの一瞬。けれど、熱い。
彼は殿下の影に隠れるようにして立ちながらも、その鋭い双眸でずっとわたしを見守ってくれていました。
殿下は、わたしのことを「国を救う象徴」として見ている。
けれど、このぶっきらぼうな騎士様は、わたしのことを「今にも壊れそうな一人の人間」として見ている。
その違いが、わたしの心に小さな、けれど消えない波紋を広げました。
「ミレイア、君を王都へ連れて行きたい。君の祈りが、この国を再生させる鍵なんだ。……いや、君という存在そのものが、私の、そして国民の希望になる」
殿下の言葉は甘く、理想に満ちていました。
でも、どうしてでしょう。その言葉を聞くほどに、わたしの体温は冷えていくような気がします。
「……私は、ただの祈り手です。期待されるような力があるかどうか……」
「謙遜はいらないよ。さあ、共に行こう。君を待つ白亜の城へ!」
強引に手を取られようとしたその時。
横から、無造作に、けれど確かな意志を持った手が、殿下の動きを遮りました。
「――お言葉ですが、殿下。移動の準備は私が整えます。彼女には、せめて一晩の休息を」
アルディオン様の低い声。
彼はわたしの前に立ち、その広い背中で殿下の熱狂的な視線を遮ってくれました。
振り返った彼と、一瞬だけ視線が重なります。
彼は何も言いませんでしたが、その灰銀の瞳は、静かに私に問いかけているようでした。
(――君は、本当にそれでいいのか?)
わたしは、自分の胸に手を当てました。
そこにはまだ、彼に抱き止められた時の熱が残っています。
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