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1.ピリオド

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「君、大丈夫?」

見知らぬ土地で彼女に声をかけたのは、優しい人だった。

「日本人だよね」

「はい」

英語は勉強していたもののスラングばっかりでカフェオレひとつ頼めない。

「何がいいの?」

彼は優しい顔でカフェオレを注文してくれた。

「あの、お金」

「いいよ、これくらい」

大学のカフェテリア。留学りゅうがくしてまだ数日。

既に折れかけていた心に、彼の笑顔はまぶしかった。



咲良さくら!」

見かけると笑顔で駆け寄ってきてくれる彼。

少しでも困っていると、いつもスマートに助けてくれる彼。

そんな彼に惹かれるのも、時間の問題だった。



「ねぇ、咲良。付き合おうか」

彼のその言葉がどんなに嬉しかったか。

この瞬間がどんなに幸せだったか。

今でも思い出せる。

彼女にとって、これが人生の頂点だった。



幸せの絶頂ぜっちょうを感じる彼女の元に、天使が舞い降りた。

「……うそ……」

白紙に浮かんだ赤い線。

まさかと思った。

まだ学生。それも留学中だ。

でも、思い当たる節がないこともない。

翌日には病院に行った。

そして、確信は確定に変わった。

どうしよう。

最初に浮かんだのはその言葉だった。

頼れる人?

いるわけがない。

ここは母国を遠く離れた異国の地。

それに、日本に帰っても、頼れる人はいない。

養護施設ようごしせつ育ちで、高校卒業後、いろんな制度を利用して留学した。

大学を無事に終えたら働いて奨学金しょうがくきんを返していかなければいけないのに。

彼に相談しなければ。

いや、まだいいのでは?

2つの思いが交錯する。

そうだ。

妊娠には安定期というものがある。

産むかいなか。

それまでに決めればいい。

もし否であれば、誰にも伝えなければいい。

「……大丈夫。大丈夫よ」

咲良は両手を握り締めてそう呟いた。



「咲良、最近体調悪そうだね。大丈夫?」

「大丈夫だよ。心配かけてごめんね」

彼の前で笑顔を作るのにも慣れた。

本当は倒れてしまいそうなほど気分が悪いのに。

「無理しないで。今日はお家デートにしようか」

彼は優しい。

いつもさりげなく気遣ってくれる。

そんな彼の優しさが、今は心に刺さる。

ごめんなさい。

何度目かわからない心の言葉は、口から出ることはなかった。



彼とそんな話をした数日後のこと。

大学からの帰り道だった彼女を、とある人物が呼び止めた。

「ちょっといいかしら」

足を止めた彼女の前には、見知らぬ女性が。

高級感溢れる毛皮を身に纏った、マダムといった雰囲気。

「あの……?」

どなたですか?と尋ねるのは失礼だろうか。

と咲良が戸惑っている間に、女性はズカズカと歩み寄ってきて、

「息子と別れてもらえるかしら?」

と一言。

「……え?」

何の前置きもなく伝えられた言葉。

理解するのに時間がかかった。

しばらくして、ようやくこの女性が彼の母親だということに気づく。

「なぜですか?」

不思議と冷静に返せた。

「あなた、妊娠してるでしょ」

ドキリと心臓が跳ねる。

顔には出なかった、はず。

「隠さなくてもいいわ」

手渡された分厚い封筒。

中を見てみると、いくつかの写真があった。

彼と2人で歩く写真が多い中、咲良がひとりで産婦人科に通う姿も収められている。

拓海たくみは知らないようね」

「……まだ、伝えていません」

「そう。よくやったわ。それだけは」

とげとげしい言葉たちは、容赦ようしゃなく突き刺してくる。

「拓海にはね、フィアンセがいるの」

今までで一番のダメージだった。

「あなたなんかとは比べ物にならないくらい、由緒ある家のお嬢さんよ」

やめて。

聞きたくない。

「これ、あげるわ」

どさっと、封筒とは思えない音を立てて地面に叩きつけられたもの。

見なくてもわかる。

これは、ドラマや映画でよく見るやつだ。

「わかっているわよね?」

知らない。

知りたくない。

わかりたくない。

「子どもを守るか捨てるか。あなたに選ばせてあげる」

「……捨てるって……」

「そのための費用は全額あげるわ」

いやだ。

心の底からそう思った。

「守りたいのなら、拓海から離れなさい」

「……っ」

残酷な言葉。

「子どもを諦めるのなら、アメリカにいる間は目をつぶってあげる」

そんなの、あと一年と少しではないか。

2歳上の彼は、もうすぐ卒業。

そのままアメリカで就職すると言っていた。

いや、わからない。

それは果たして本当だったのか。

嘘を吐いていただけではないのか?

だって、咲良は知らなかった。

彼に婚約者がいたことを。

大学内での噂話程度で、家が大金持ちであるというくらいは知っている。

でもそれについて彼の口から語られたことなんて、一度もなかった。

「……子どもを……」

声が震える。

「子どもを、産みます」

選択肢は残されていなかった。

「……そう」

「その代わり」

ただでは引き下がらない。

「お金をください」

たとえ卑しいと言われても。

子どものために引けない一線がある。

「大学を中退して子どもを産み育てるためのお金です」

「案外したたかなのね」

彼の母親はふっと笑った。

「いいわ」

そう言って、カードと通帳を投げ捨てる。

「好きに使って」

咲良が通帳を手に取って中身を確認する。

0の数が多い。

正確にいくら、なんてすぐにはわからない額だ。

「それで?それを受け取るからには、息子との縁は切ってくれるんでしょうね」

「はい」

後悔はない。

といえばうそになる。

が、子どもを産みたいと思った。

彼が愛してくれた証だ。

たとえ嘘でも、一時の遊びでもいい。

初めて心から愛した人の子を産みたい。

一粒の雫が、幸せな人生にピリオドを打った。
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