グレープフルーツムーン

青井さかな

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chapter 1

朝焼けの空に消えた歌

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 あの日からまだ十日程しか経っていないというのに、随分長い間来ていなかったように感じる。

 英理奈さんはまだここに居てくれた。

 彼女の住むマンションを見上げながら、湊のアパートを飛び出してからの事を思い返す。



 雨の中を歩きながら英理奈さんに電話をかけた。コールが繰り返される度、鼓動が激しくなり喉が締めつけられるような息苦しさを感じる。
 やっぱりもう遅かったか、……諦めかけた時、英理奈さんは電話に出てくれた。

『………はい』

 耳に届いたその一声だけで彼女の戸惑いが感じ取れる。

「英理奈さん、今どこ?」

『……家に、いるけど』

「まだこっちにいるの?」

『……うん』

「もう一度だけ、話がしたい。今から会える?」

『………うん』



 意を決して英理奈さんの部屋のインターフォンを押す。

 あの日オレは英理奈さんにかなり酷い事をした。にも関わらず彼女はすんなりとオレを部屋に上げてくれた。 

「……久しぶり」

 部屋の中へ入ると片隅に幾つか段ボールが積み上げられている。もう本当に、いよいよ居なくなってしまうんだという実感が今更湧いてきた。

「ワインでいい?」 

 テーブルには今日も飲みかけのワインとグラスが置いてあった。英理奈さんがオレの分のグラスを持って来てワインを注いでくれる。

「ありがとう。……英理奈さん、あの、この前は酷い事して、ごめん。ちゃんと謝ってなかったと思って」

「あー、ううん、悪いのは全部私だから、ほんとにごめんなさい」

 今の言葉で嫌でも思い知る。
 英理奈さんがオレに対して抱いているのはただの罪悪感だ。期待をしていたわけではない。むしろおかげで少し冷静になれた。

 だけど、話をしに来たはずなのにうまく言葉が出てこない。
 グラスに半分程残っていたワインを一気に飲んで着々と引っ越しの準備が進められている部屋を見渡す。英理奈さんは元々物をあまり持たない人だからすぐに片付くだろう。ただ、レコード類はまだ手付かずの状態のようだった。

「そうだ。オレ、レコードプレイヤー買ったよ」

「そうなんだ」 

 空になったグラスにまたワインを注いでくれる。

「うん、この前のライブのちょっと前に、」

 話題を逸らそうとして墓穴を掘りかけた。また気まずい空気になる前に話を続ける。

「まだレコードは買いに行けてないんだけどね」

「そう」

「どこかおすすめのレコード屋ある?」

「この辺なら駅の反対側のとこ、私はよく行くけど、もし嫌じゃなかったらどれでも、好きなだけ持って帰っていいよ」

「え、何で?」

「引っ越し先には持って行けないから」

 平然と言っているが、明らかに悲しそうだ。

「彼氏が、ダメって?」

「ダメ、とは言われなかったんだけど、あんまり良い反応されなかったのは確かかな」

 意味がわからない。
 音楽は、レコードは英理奈さんの唯一の趣味だって事くらい彼氏なら当然わかっているはずだろ。
 そう言えば、今頃気付いたけど今日はレコードをかけていない。いつもは必ず何かのレコードをかけてオレを迎えてくれていたのに。

「ほんとに良いの?それで、どれも大切な物でしょ」

 英理奈さんのお父さんとの思い出、浅野さんとの思い出、ついでにオレとの思い出も連れて行って欲しい。

「いいの。もう決めたから。……幸せに、なるため、だから」

 そう言って寂しそうに笑う姿に胸が締め付けられる。

 英理奈さんはいつもそうだ。
 その笑顔はどれもつい見惚れてしまう程にキレイだけど、いつもどこか寂しそうだった。オレは英理奈さんが心の底から笑った顔をきっと一度だって見た事が無い。

「……じゃあ、一枚だけ」

 本当は全部持って帰りたい。
 英理奈さんの代わりにオレが全部大切に持っていてあげたい。だけど、英理奈さんの思い出に埋もれて生きていく勇気は、オレには無かった。……あぁ、そうか、だからきっと英理奈さんも置いて行くんだ。
 過去を忘れて、新しい幸せを、手に入れるために。

 レコードは綺麗に揃えられていて、オレはその並びをほとんど覚えているので聞かなくてもお目当てのレコードは見つけられる。
 あるレコードのところで手が止まる。 

「あ、ごめん、それは」

 ビートルズの『リボルバー』英理奈さんが大学生の頃に初めて自分で買って、一番大切にしているレコード。

「だよね。せめてこれは、ちゃんと持って行って」

「………うん」

 良かった。

「じゃあ、これは?」

 トム・ウェイツの『クロージング・タイム』英理奈さんがオレに初めて聴かせてくれたレコードだ。

「………」

「……ダメ?」

「……いいよ」

 少し目が潤んでいるように見えるのはオレの都合の良い幻想かな。


 オレのリクエストでビートルズの『ラバー・ソウル』のレコードをかけてもらった。やっぱり好きな音楽が流れると気持ちが和らぎ、オレも英理奈さんも少しリラックスして話が出来るようになった。
 取り留めもない会話を少しばかりして、オレはずっと気になっていた事を切り出した。

「……英理奈さん、どうして雨がダメなのか、聞いてもいい?」

 今日雨が降り出さなければもしかしたらオレはここへは来ていなかったかも知れない。

「あー、うん」

「言いたくなかったらいいけど、今日、雨降り出したし大丈夫かなって、思ったから」

「……もしかして、それで来てくれたの?」

「うん、まぁ」

「……ありがとう。……そうだね、きっかけは、お父さんが亡くなった日。雨でスリップした車の事故に巻き込まれて……、知らせを受けてお母さんと一緒に病院へ向かった夜の事とか、どうしても思い出してしまって。その後もいろいろあったんだけど、その、……浅野さんが、亡くなったって電話があったのも、夜に雨の中を一人で家に帰ってる途中で。雨の音とか、匂いとか、光の反射とか、どうしても記憶が全部繋がってしまって、一人でいると頭痛くなったり、どうしようもなく苦しくなる事があるの」

 本当に苦しそうに話してくれた。 

「ごめん、デリケートな話、無理にさせて」

「……大丈夫」

「けど、英理奈さんはもう、一人じゃないよ」

 英理奈さんがオレの顔を真っ直ぐ見る。
 今日はじめてまともにオレの顔を見てくれたような気がする。

「一人で苦しむ事なんて無いから、何でも言えば良いんだよ。良い事も、嫌な事でも全部、英理奈さんの本当の気持ちを。我慢なんてする必要無いんだから」 

 夜に降る雨が苦手な理由が簡単な事では無いだろうとは何となく予想していた。だからこそ、吐き出して少しでも楽になって欲しかった。オレがアイツらにそうしてもらったように。
 オレの言葉になんて何の力もないけど。

「……何でも?」

「そうだよ。辛い時とか苦しい時とか、寂しいとかそばに居てほしいとか、言えばいいんだよ。……きっとわかってくれるよ」

「…………」

 グラスに残っていたワインを飲み干す。
 本当は、英理奈さんの本音も我儘も、本当に何でもいいからオレがずっとそばに居て一番に聞いてあげたかった。

「……いつ、引っ越すの?」

「え、あぁ、来週」

「そっか。……幸せに、なるんでしょ?」

「………そうだね」

 相変わらず、英理奈さんは寂しそうに笑う。



 
 明け方、英理奈さんはまだ眠っていた。

 英理奈さんおすすめのレコードショップのビニール袋に入れてくれたトム・ウェイツのレコードを手に玄関へ向かうと、靴を履いて、いつもと同じ場所に置いてある部屋の鍵を手に取る。オレが早い時間に彼女の部屋を出る時は必ず鍵を閉めてドアのポストに入れておくようにしていた。

 鍵を握り締め、もう一度だけ振り返ってみる。

 玄関を上がってすぐのキッチンでは料理を作ってくれている英理奈さんにじゃれついて邪魔をして怒られたっけ。あの冷蔵庫にはオレが買って来たビールがまだ残っているかもしれない。あぁ、そういえば歯ブラシ置いたままだな。まぁいいか、あれは確か英理奈さんが自分用に買っていたのをオレに使わせてくれただけだ。

 ここに来るようになってからはまだ二ヶ月も経っていない。それでも、彼女と過ごした日々を思い出すときりがなかった。

 ドアノブに手を掛ける。
 音を立てないようゆっくりとドアを開くと足下で何かが倒れる音がした。
 昨夜ここへ来る時に使ったオレの折り畳み傘だ。手に取ろうとして、やめた。傘を置いたまま、部屋を出て鍵を閉め、その鍵をポストに入れた。


 これで、オレはもうこの部屋に入る事は出来ない……。



 
 駅へ向かう歩きなれた道。
 雨はついさっきまで降っていたのか、地面はまだ濡れている。

 駅まであと少しというところでスマホが鳴った。
 昨日ほったらかしにしてきたアイツらのうちの誰かだろうか。みんなあんなに親身になって話を聞いてくれてそれぞれ意見も言ってくれたのに、結局オレは肝心な事は何一つ言えず、英理奈さんも何も言ってはくれなくて、オレから聞く事も出来なかった。
 それでも最後にもう一度だけ会えて、話が出来て、この前別れた時より気持ちは随分とスッキリしているように思える。

 立ち止まってスマホを確認する。

【傘忘れてるよ】

 英理奈さんからだった。
 起きていたのか。
 いつからだ、最初からか、オレが傘を倒した時か、玄関のドアを閉めた時か。
 オレが出て行ってすぐにベッドから抜け出し玄関へ向かい傘を見つけてくれた英理奈さんを思い浮かべると、どうしようもなく抱き締めたくなる……。


 今更でもいい、伝えたい言葉がある。


 振り返ってオレは走り出した。走って、まだ彼女の居るマンションが見えるところまで戻った。
 昨夜と同じようにマンションを見上げる。
 東の空が明るくなり始め、英理奈さんの居るマンションが朝焼けに包まれて行く。

 あぁ、そうだ。英理奈さんにはあの光のような温かくて明るい未来が、待っているんだ。

 握り締めたままだったスマホの画面を開く。

【捨てていいよ】

 サヨナラの代わりに、そう返事をした。

 もう一度、駅へ向かうため英理奈さんの居るマンションに背を向ける。

 夜が明けていく。

 光に満たされていく空を見上げて、溜め息をついた……。















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