蛇のおよずれ

深山なずな

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番外編 ある女の話

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 私は必死に走った。降りしきる雨の中、足元を泥まみれにしながら。ただ、愛おしいこの子を守るために。
 走って、走って。この山を下れば、あの人が待ってくれているはずだから。
 しばらく走って、ちょうど車道へ出ようとした時、目の前に、何か大きな影が見えた。直感で人ではないことがわかった。影は黒く、渦巻いている。

 ふと、その影と目が合う。ゾワっと悪寒が走った。

 ああ、いけない。ついに遭ってしまった。決して見てはいけないあの影と。

***

 私は可笑しなしきたりを持つ家に生まれた。なんでも龍神様信仰を強くしている家で、私も小さい頃から祖母と共に龍神様にお祈りをした。
 祖母から、いつも聞かされた話がある。遠い時代の、昔話。その話は、紅姫と呼ばれる姫の話だった。

「紅姫はね、私たちの先祖なんだよ」

「へぇー」

 特段興味もなかった。だから、いつも適当に相槌を打って聞き流していた。

「この家は龍神様に特別守られているんだ。そして、いつか紅姫の生まれ変わりがこの家に生まれてくるときは、その肩に蛇の噛み跡がついているらしくてねぇ」

 祖母はいつもその話を繰り返した。飽きずに何度も。私の家は、こんな御伽話を本気で信じているような家だった。生まれ変わりとか、バカバカしい。

「龍神様は紅姫を待っているんだよ。お前もいつか大人になって子どもができたら、この家の伝えを守っていくんだよ」

 いつも最後にはそう言ってその話を終わらせた。
 私が成人してしばらくした時、愛する人と結婚をした。人生で最も幸せな瞬間だった。やっとこの家から離れられるという開放感もあった。
 私はすぐに子どもを身篭った。性別は女の子らしい。きっと彼に似て可愛いだろうとか、そんな呑気なことを考えて過ごした。
 そして、紅葉の美しい時期に、その子は生まれた。名前は青葉と名付けた。彼女は珍しいことに、青がかった美しい瞳を持つ子だったからだ。彼と私の子どもに出逢えて、本当に幸せだった。

 しかし、その幸せはすぐに消えて無くなった。

 彼女の右肩に、蛇の噛み跡のような痣があったのだ。

「紅姫様の生まれ変わりだ……」

 父はそう言って喜んだ。そんなはずはない。あんなのはただの御伽話だ。痣は偶々ついていただけなのに。
 なのに、私の家族は誰一人としてそう思ってはくれなかった。
 狂ってる。私の子どもが取られてしまう。この子は青葉だ。紅姫などではない。私は家の掟を裏切り、夫と逃げることにした。
 決行の日はあいにくの天気だった。土砂降りで、雷まで鳴っている。しかし、全く気にならなかった。
 夫は誰にも気づかれないように、この山を下ったところに車で待っていてくれるはずだ。
 私は必死に走った。降りしきる雨の中、足元を泥まみれにしながら。ただ、愛おしいこの子を守るために。
 走って、走って。この山を下れば、あの人が待ってくれているはずだから。
 しばらく走って、ちょうど車道へ出ようとした時、目の前に、何か大きな影が見えた。直感で人ではないことがわかった。影は黒く、渦巻いている。

 ふと、その影と目が合う。ゾワっと悪寒が走った。

 ああ、いけない。ついに遭ってしまった。決して見てはいけないあの影と。

「あ……あ」

 恐怖で声が出ない。体がガタガタと震える。御伽話のはずなのに。あんなモノが、この世にいるわけがないのに。
 そう自分に言い聞かせるが、目の前のソレは確実にそこにいる。私は恐怖と不安に支配され、身動きができなくなった。

「女、そなたは紅姫を生んでくれた。殺しはせん。さあ、その子を我に渡せ」

 そう言って影は白い美しい手を差し伸べてくる。体の震えが止まらない。

「……渡さない。この子は紅姫なんかじゃない!痣は偶々で……この子は青葉っていう名前の普通の女の子なのよ!」

 混乱してそう言い放つ。しかし、その影は笑みを称えるだけで、微動だにしない。

「青葉……?彼女の名は紅こそ相応しい。紅葉のような紅の似合う美しき鬼なのだ」

 その影が何を言っているか理解できなかった。

「大人しく彼女を引き渡さぬと言うならば、そなたもあの男のように殺してしまうぞ」

「あの……男?」

 誰のことか、すでに正解に辿り着いている。でも、頭がそれを理解することを拒んでいた。

「そなたの番のことだ」

「どう……して」

「生かしておく必要もない。今頃、山の中で果てておろうよ」

 その場で地面に膝をつく。涙がいくつも溢れたが、全て雨にかき消される。

「さあ、その子を渡せ」

 渡すはずがなかった。

「……渡さない。この子は、私とあの人の大切な子だから……」

 青葉をギュッと抱きしめる。私はじきに殺されるのだろう。それでも、たとえ死んでも、この子を渡したくなかった。

「ならば仕方ない」

 影がそういうと、影から1匹の大きな蛇が現れ、私の首に噛みつく。途端、意識が歪み始めた。

「ああ……あ」

 意識が遠のいていく。影が私から青葉を取り上げるのがわかった。
 あの子の泣き声が聞こえる……。青葉……あなたを守れなくてごめんなさい。
 そこで私の意識は途切れた。

***

 女はしばらくすると息絶えた。大人しく従えば殺す気は無かったのだが、残念でならない。
 しかし、ようやく……ようやく、紅姫を手に入れた。それだけで十分だ。

 降りしきる雨の中、倒れた女を残して、影とその子どもは闇に消えていった。
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