路地裏ポストの三匹便 —ミスケ・あんこ・源さん—

あき

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3匹の不思議な猫

第7話:朝顔と最後の練習試合

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朝の路地裏ポストは、白い粉の匂いがした。
石灰の白線、革のミット、甘いスポーツドリンク、そして——濡れた土と、朝顔の青。

「グラウンドの匂いだ」ミスケがひげを震わせる。
投函口から、細長い紙片がひらりと落ちた。端に丸穴があき、薄いカーボンの跡。

「打順表の切れ端」源さんが目を細める。
紙には震える字が走っていた——『背番号12を、一度だけ、白線の中へ。——言えるかな 野球部マネージャー・陽菜』

「あ……“最後の一歩”が迷ってる匂い」
あんこがそっと紙を撫でた。

三匹が抜け出したのは、商店街の裏手にある中学校のグラウンド。
朝の光に、外野の芝がまだらに濡れている。フェンス際には緑のプランターが並び、朝顔がいくつも星を開いていた。

ベンチ前の黒板にはマグネットの名前。1番、2番、3番——。
〈12 蒼真〉の小さな丸磁石が、欄外でぽつんと転がっている。

陽菜がスコアブックを抱え、ベンチに腰を下ろした。
彼女の手の甲には、黄色い紙テープの跡。
昨日まで貼っていた「氷嚢」の名残り。
遅くまで、投手陣のアイシングを手伝っていたのだろう。

「今日が最後の練習試合」
口に出してみて、声が少しだけ揺れた。

スコアブックの前のページには、一度書いて消した打順表。8番・左翼——12。消しゴムのかすが、朝日で薄く光っている。

蒼真は、控えの外野手だ。足は速いが、打球判断がまだ甘い。
この一年、声を枯らし、ベンチでグラブを叩き、誰よりも早くボールを拾いに走った。

陽菜は知っていた。練習後、一番最後までフェンス沿いの朝顔に水をやっていたのが彼だということも。

——白線の中に、一度だけ立たせたい。

でも、マネージャーの自分が言っていいのか。チームのため、という言葉に、個人的な願いを紛れ込ませていないか。

ミスケが、欄外の〈12〉磁石を前足でちょい、と押した。

コトン。

小さな音に気づいた陽菜が、顔を上げる。

磁石は、黒板の端で止まり、午前の光を受けて点のように光った。
あんこがベンチ裏から、投函の紙片をそっと押し出す。

陽菜はそれを拾い、読む。

『背番号12を、一度だけ、白線の中へ——言えるかな』
自分の字だ。ポストに落としたはずの言葉が、戻ってきた。

「監督」
陽菜は立ち上がっていた。自分でも驚くほどすぐに。
ベンチ脇でノックバットを持つ監督が振り向く。

「最後の回、代走で12を——蒼真を出せませんか。……いえ、もし、状況が許せば、外野の守備でも。一度でいいので、白線の中に」
監督は一瞬、眉を上げ、それから小さく笑った。

「なるほど。おまえが言うなら、理由があるんだろう」
視線が朝顔の列へと流れる。蒼真がホースを巻き、プランターの水受けを空にしている。

「……まずは代走だな。チャンスが来たら、守備も考える」
試合は静かに始まり、静かに進んだ。
白球が空を割り、金属音が夏の終わりを少しずつ削っていく。
五回。こちらが一点を追う。
1塁に走者。ベンチの前で、監督が片手を上げた。

「12、準備」
蒼真が立ち上がる。スパイクの紐をきゅっと締める動作が、ほんの少し震えていた。
フェンス越しの朝顔が、風に揺れる。
紫の花弁が、うすい布みたいに光った。

初球——牽制。

蒼真は帰塁し、指先で一度白線の粉を確かめた。

二球目、打者は見逃し。

ベンチの端で、陽菜がタオルを握りしめる。

三球目、外へ外れる。

「次」
ミスケが低く、短く鳴いた。源さんが尻尾で地面を打つ。あんこが喉を鳴らし、風の方向を嗅いだ。

四球目、投手のモーションがわずかに大きくなる。

——いま。

蒼真のスパイクが白線を蹴った。

土が跳ね、キャッチャーの送球が伸び、ベースの手前でスライディングの砂が花火みたいに散った。

「セーフ!」
塁審の右手が横に払われる。スタンドの端で、小さく歓声が弾けた。

その回、同点。
七回——最後の守り。監督が守備位置のマグネットを入れ替え、左翼の欄に〈12〉を滑らせた。
蒼真は帽子を深くかぶり、白線をまたぐ。
打球は、一度だけ彼のほうへ来た。
前か、後ろか、迷う距離——一年間、何度も練習で迷った打球。
彼は一歩、下がった。風を数えて、前に二歩。
グラブが音を吸い、白球が止まる。

アウト。

ベンチから、陽菜の息がふうと漏れた。朝顔の蔓が細く震えて、ひとつ遅れて拍手が起きた。


試合は引き分けで終わった。

整列が解けると、チームの輪の真ん中で、監督が短く言う。

「良い遠回りをしたな」
意味は人それぞれに落ちていき、土の匂いに混ざった。

陽菜はスコアブックの余白に小さく書く——『12、白線の中へ。代走・守備一回。朝顔5輪』
ページの端に、朝顔のスケッチを描き、栞をはさむ。古い図書室の本から借りてきたままの、小さな木の栞だ。

『返却期限 ——』の印字の下に、鉛筆で『配達済』と書き足す。
ベンチ脇で、蒼真が陽菜に頭を下げた。

「ありがとう」
彼は言葉を選ぶのが苦手だ。だから、言わない分、帽子のつばを深く下げた。

「言ったのは私だけど、走ったのは、あなた」
陽菜は笑って、スコアブックを抱え直した。


「配達、成功だね」
源さんが空を見上げる。

「わたしたち、何を配達したんだろう」
あんこが白線の粉を鼻先につけたまま問う。

「ベンチから白線までの一歩」
ミスケが答える。
「誰にも代わりが利かない、一歩」

グラウンドを離れる頃、日が少し高くなっていた。
校舎の窓の奥で、薄暗い部屋がひとつだけ灯っている。

図書室だ。
古い木の棚、ワックスの床、紙と糊とインクの匂い。
投函口の奥から、布の栞がふわりと舞い、猫の背中にやわらかく落ちた。

「眠らない匂いがする」
あんこが目を細める。

「次は——図書室の栞」
源さんが尻尾で栞を支えた。

三匹は朝顔の陰をくぐり、静かな扉のほうへ歩き出した。

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