路地裏ポストの三匹便 —ミスケ・あんこ・源さん—

あき

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3匹の不思議な猫

第8話:眠らない図書室の栞

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路地裏ポストの内側は、ワックスの床と紙と糊の匂いで満ちていた。
静けさは毛布みたいに厚く、でもどこかで小さな灯りがずっと点いている気配がする。

「眠らない部屋の匂いだ」ミスケがひげをふるわせる。
投函口から、細い木の札がすべり落ちた。角に丸い穴、片面に焼き印で『返却期限』、その下は——空白。

「栞だね」
あんこが指でなぞる。
「でも、期限がない」

「“いつでもおいで”の匂いがする」
源さんが尾を立てた。

三匹が抜け出したのは、中学校の図書室の前だった。
朝と昼の隙間みたいな時間。鍵のかかったガラス戸の奥で、机の上のスタンドだけが灯っている。

司書の山根先生が、貸出カードの束を指で揃え、印鑑の蓋を外したまま、目をこすっている。

返却ポストの口から、小さな音。古い児童書が一冊、するりと落ちた。

『星を追う猫』——背表紙の角がすり減っている。
山根先生は本を開き、貸出カードを確かめて、ふうと短く息を漏らした。

「なお……くん」
カードの名前に、優しい皺が寄る。

「ずっと来てなかったけど」
ページの間から、小さな紙切れが出てきた。

『返せなくて、来づらくなりました。落書きもしてしまいました。ごめんなさい。——なお』
鉛筆の薄い線で、星の横に猫の耳が描き足してある。
山根先生は笑って、引き出しから消しゴムを取り出した。
落書きには触れず、封筒を一枚。

『返してくれてありがとう。落書きは、物語と友だちになった印。ここは眠らないから、いつでもおいで。——図書室』
封を閉じて、栞を一緒に入れる。『返却期限』の下は、やはり空白のまま。

「届けよう」
ミスケが封筒をくわえ、あんこと源さんが続く。

“なお”の匂いは、インクと消しゴムと、乾いたランドセルの革。
商店街を抜け、団地の三階へ。

郵便受けの隙間から封筒を押し入れると、しばらくしてドアが開いた。
出てきたのは、背の少し伸びた男の子。寝癖の髪、首元の体操着。
封筒を見て、肩がすとんと落ちる。

『いつでもおいで』の文字を、何度か指でなぞった。
机の上には、まだ返しきれていない気持ちみたいに、もう一冊の本が伏せてある。
——家で読んだ図書室の本。
彼はページをめくり、自分の落書きに気づいて顔を赤くした。消しゴムに手を伸ばすが、途中で止める。

「……行こう」
立ち上がる声は小さかったが、靴ひもの結び目は固かった。
図書室のガラス戸の前。
開館まで、まだ少し時間がある。

なおは迷った。返却ポストに本を入れて逃げることだってできる。
けれど、机の上のスタンドが、灯台みたいに点いたままなのが見えた。

ミスケが爪先でガラスをとん、と叩く。
あんこは足元で丸くなり、源さんは返却ポストの口の前にぴたりと座る。

「最後の一歩」
声にはならないけれど、呼吸があわせられる。

カチャ。

中から鍵の音。
山根先生がガラス戸を開けた。

「おはよう」
なおは固まって、それから本を差し出した。

「すみません。……落書き、しちゃって」

「うん、見たよ」
叱るかわりに、先生は本の同じページを開いて、鉛筆を手に取った。
星の横の猫耳に、もう一筆だけ、髭を足す。

「これで、図書室の仕事にもなった」
なおの目が、意外、という形に広がる。

「ここは、眠らないよ。あなたが読んだ場所の匂いは、ページが覚えてる。返却期限は本の都合。あなたの期限は、ここから先」
先生は封筒を渡し、もう一枚、小さな紙を差し出した。

『朝読書カード ——“いまの自分に似た言葉”を10文字で』

「書いていく?」
なおは少し考えて、カードに鉛筆をすべらせた。

『眠ってるふりの灯り』
自分で書いて、自分で笑った。図書室の空気が、ふっと軽くなる。
棚の奥から、古い本の匂いがした。

背に『商店街文庫』の印。——この町の古い貸本屋から寄贈された、手ざわりの柔らかい紙。
ページの間に、別の誰かの短いメモが挟まっている。

『いつか返しに来ます』
日付は何年も前。名前はない。
山根先生はそっとメモを戻し、背表紙を撫でた。

「眠らない、ってね、灯りのことだけじゃないの。待ってるってことでもあるの」
なおは頷き、机の端にランドセルを置いた。

読みかけのページを開くと、栞がことんと落ちた。『返却期限』の下は、やっぱり空白だ。
先生が微笑む。
「それ、君に預ける。また来たら、返して」

三匹は窓辺の陽だまりで、のびをした。
時計の針が、ほんの少し音を立てる。
なおの鉛筆の動く音、読み上げない声、ページの擦れる音。
眠らない図書室は、目を開けたまま、静かに呼吸を続けている。


「配達、成功だね」
源さんが尻尾で机の脚をとん、と叩く。

「わたしたち、何を配達したんだろう」
あんこが栞の穴を覗き込む。

「灯りの場所」ミスケが答えた。
「戸を開ける手の、行き先」

外に出ると、風が少しひんやりしていた。
商店街の端で、古道具屋の時計が回る音が、かすかに漏れてくる。
金属のゼンマイ、油の匂い、ガラスの冷たさ。

「壊れた目覚ましの匂いがする」
あんこが鼻をすんと鳴らす。

「始発の風も混じってる」
源さんが耳を立てる。

「次は——こわれた目覚ましと始発の風」
三匹は影を伸ばし、朝の色へ歩いていった。
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