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3匹の不思議な猫
第9話:こわれた目覚ましと始発の風
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路地裏ポストの内側に、金属の油とゼンマイの匂いが満ちていた。
磨きガラス、真鍮の歯車、細いバネがほどける微かな音。
「時計だ」
ミスケがひげを震わせる。
投函口から落ちたのは、小さな紙の修理票。端に青いインクで——『神田時計店 預り』——とあり、鉛筆で震える字が添えてあった。
『目覚ましが動きません。明日の始発で町を出ます。直らなくても、いちどだけ鳴らしてほしい。起きるのが怖いです。——みずき』
三匹が抜け出したのは、商店街のはずれにある古い時計店の前。
ガラス戸の内側で、棚いっぱいの目覚ましが眠っている。
店主の神田は白い作業服にベストを重ね、ルーペを片目に当てたまま、作業台でうとうとしていた。
机の端に、小さな銀色の目覚ましがある。文字盤の八時と九時のあいだがほんの少し欠け、裏蓋に『みずき』の名前。
あんこが修理票をそっと押し出した。源さんが尾で机をとん、と叩く。ミスケがランプの首を押して光を落とす。
神田ははっと目を覚まし、紙を読み、秒針の止まった文字盤に視線を移した。
裏蓋を外すと、細いヒゲぜんまいが歪んでいる。
「無理をしたな」神田は小さく呟く。「でも、まだ行ける」
部品箱から似た形のバネを取り出し、ピンセットで呼吸するみたいに少しずつ整えていく。
店の奥の古い壁時計が時を打つ。コツ、コツ、コツ。
ミスケは作業台の端で、針の影の動きを追い、あんこはゼンマイの音に合わせて喉を鳴らし、源さんはガラス戸の外、空の色を確かめた。夜明けは近い。
「よし」
神田がテスターの針を見て、うなずく。
ゼンマイを軽く巻き、アラーム針を四時半に合わせる。
机の上で目覚ましが息を吹き返し、小さな音でチッチッと歩き始めた。
試しにベルを鳴らす。チリン、ではなく、少し掠れた、でもよく通る音。
「きみの声だ」神田は笑った。「一度でいい、か。じゃあ、本人の耳元で鳴らしてやらないとな」
始発まで、あと一時間。
神田は作業服の上にコートを羽織り、目覚ましを古い革鞄に入れた。
店の札を『準備中』に裏返し、ガラス戸に鍵をかける。
ミスケたちはその足もとにまとわりつき、影のように並んで歩いた。冷たい空気の底から、駅に向かう風だけがぬるく流れてくる。
団地の三階、廊下の角の部屋。
表札に『水城』。ドアポストの隙間から、昨日の夕刊が少し覗いている。
神田は一瞬ためらい、それからポストに小さなメモを差し入れた。
『時計、鳴らしに来ました。すぐ下で』
階段に降りると、部屋の窓は通りに面している。カーテンの隙間に、寝ている影。
神田は目覚ましをベンチに置き、アラームを押した。
——チリリリリ。
朝と夜のあいだの空気が震える。
カーテンが動き、窓が少し開き、寝癖の髪の若い女性が顔を出した。目はまだ眠そうで、でも一度で事情を理解する目だった。
「……時計屋さん?」
「うん。君の“みずき”さんの、目覚まし」
彼女は唇を結び、それから小さく笑った。
「いちどだけ鳴らして、って書いたけど、二度目も鳴ったら嬉しいです」
「じゃあ、駅で」
ホームは薄明るく、始発前の風が線路の上をすべっていく。
売店はまだ閉まっているが、コーヒーの匂いが準備を始めていた。
みずきはマフラーを巻いて現れ、両手で紙コップを抱いた。
「看護学校の実習、向こうで始まるんです。……この町で練習した朝は、寝坊ばっかりだったけど」
神田はベンチに目覚ましを置き、ベルのつまみをもう一度押す。
——チリリリリ。
ホームの天井に音が跳ね、眠っていたベンチがひとつずつ目を開けていくみたいだった。
「この音を、連れていきなさい。動かなくなったら、戻ってこい。返却期限は、ない」
みずきは頷き、目覚ましを胸に抱えた。
「こわいのは、起きることじゃなくて、起きたあとに進むことでした」
「進むのは君だ。時計は背中を押すだけだよ」
電光掲示板が時間を切り替え、風がわずかに温度を変える。始発が来る。
ミスケが足もとで丸くなり、あんこが尻尾でベンチの脚をとん、と叩き、源さんがレールの先をじっと見た。
車両が滑り込む。音が遠くから近くへ、そしてまた遠くへ。
みずきは振り返って手を振り、乗り込む。
目覚ましのベルは鳴っていないのに、胸の中で小さく鳴り続けているみたいだった。
神田はホームの端に立ち、コートの襟を立てた。
「さて、店に戻って開けるか」
彼はポケットから小さな紙片を取り出し、ベンチに残した。
『——しばらく休みます』の古い札の裏側に似た紙。そこには新しく、『いつでも調整します』とだけ手書きしてある。
ミスケが紙片を鼻先で押し、あんこが満足げにうなずく。源さんは空の色を確かめ、欠伸をひとつ。
「配達、成功だね」
源さんがレールの向こうの光を見送る。
「わたしたち、何を配達したんだろう」
あんこが目覚ましのベルをそっと指で弾く。
「起床の音じゃない」
ミスケが答えた。
「“起きたあとに進む理由”だよ」
駅を出ると、風がもう昼の匂いを少し含んでいた。
商店街に戻る角で、段ボールの薄い匂いと、インクの湿り気が混ざった。
駄菓子屋の掲示板に、小さな封筒が画鋲で留められている。
宛名はなく、角にかわいい猫のシール。
封の下に子どもの字で——『迷子の手紙』。
「インクが、まだ乾ききってない」
あんこが鼻をひく。
「猫の背中の匂いもする」
源さんが耳を立てる。
「次は——迷子の手紙と猫の背中」
ミスケが微笑む。
三匹は新しい紙の匂いへ、静かに歩き出した。
磨きガラス、真鍮の歯車、細いバネがほどける微かな音。
「時計だ」
ミスケがひげを震わせる。
投函口から落ちたのは、小さな紙の修理票。端に青いインクで——『神田時計店 預り』——とあり、鉛筆で震える字が添えてあった。
『目覚ましが動きません。明日の始発で町を出ます。直らなくても、いちどだけ鳴らしてほしい。起きるのが怖いです。——みずき』
三匹が抜け出したのは、商店街のはずれにある古い時計店の前。
ガラス戸の内側で、棚いっぱいの目覚ましが眠っている。
店主の神田は白い作業服にベストを重ね、ルーペを片目に当てたまま、作業台でうとうとしていた。
机の端に、小さな銀色の目覚ましがある。文字盤の八時と九時のあいだがほんの少し欠け、裏蓋に『みずき』の名前。
あんこが修理票をそっと押し出した。源さんが尾で机をとん、と叩く。ミスケがランプの首を押して光を落とす。
神田ははっと目を覚まし、紙を読み、秒針の止まった文字盤に視線を移した。
裏蓋を外すと、細いヒゲぜんまいが歪んでいる。
「無理をしたな」神田は小さく呟く。「でも、まだ行ける」
部品箱から似た形のバネを取り出し、ピンセットで呼吸するみたいに少しずつ整えていく。
店の奥の古い壁時計が時を打つ。コツ、コツ、コツ。
ミスケは作業台の端で、針の影の動きを追い、あんこはゼンマイの音に合わせて喉を鳴らし、源さんはガラス戸の外、空の色を確かめた。夜明けは近い。
「よし」
神田がテスターの針を見て、うなずく。
ゼンマイを軽く巻き、アラーム針を四時半に合わせる。
机の上で目覚ましが息を吹き返し、小さな音でチッチッと歩き始めた。
試しにベルを鳴らす。チリン、ではなく、少し掠れた、でもよく通る音。
「きみの声だ」神田は笑った。「一度でいい、か。じゃあ、本人の耳元で鳴らしてやらないとな」
始発まで、あと一時間。
神田は作業服の上にコートを羽織り、目覚ましを古い革鞄に入れた。
店の札を『準備中』に裏返し、ガラス戸に鍵をかける。
ミスケたちはその足もとにまとわりつき、影のように並んで歩いた。冷たい空気の底から、駅に向かう風だけがぬるく流れてくる。
団地の三階、廊下の角の部屋。
表札に『水城』。ドアポストの隙間から、昨日の夕刊が少し覗いている。
神田は一瞬ためらい、それからポストに小さなメモを差し入れた。
『時計、鳴らしに来ました。すぐ下で』
階段に降りると、部屋の窓は通りに面している。カーテンの隙間に、寝ている影。
神田は目覚ましをベンチに置き、アラームを押した。
——チリリリリ。
朝と夜のあいだの空気が震える。
カーテンが動き、窓が少し開き、寝癖の髪の若い女性が顔を出した。目はまだ眠そうで、でも一度で事情を理解する目だった。
「……時計屋さん?」
「うん。君の“みずき”さんの、目覚まし」
彼女は唇を結び、それから小さく笑った。
「いちどだけ鳴らして、って書いたけど、二度目も鳴ったら嬉しいです」
「じゃあ、駅で」
ホームは薄明るく、始発前の風が線路の上をすべっていく。
売店はまだ閉まっているが、コーヒーの匂いが準備を始めていた。
みずきはマフラーを巻いて現れ、両手で紙コップを抱いた。
「看護学校の実習、向こうで始まるんです。……この町で練習した朝は、寝坊ばっかりだったけど」
神田はベンチに目覚ましを置き、ベルのつまみをもう一度押す。
——チリリリリ。
ホームの天井に音が跳ね、眠っていたベンチがひとつずつ目を開けていくみたいだった。
「この音を、連れていきなさい。動かなくなったら、戻ってこい。返却期限は、ない」
みずきは頷き、目覚ましを胸に抱えた。
「こわいのは、起きることじゃなくて、起きたあとに進むことでした」
「進むのは君だ。時計は背中を押すだけだよ」
電光掲示板が時間を切り替え、風がわずかに温度を変える。始発が来る。
ミスケが足もとで丸くなり、あんこが尻尾でベンチの脚をとん、と叩き、源さんがレールの先をじっと見た。
車両が滑り込む。音が遠くから近くへ、そしてまた遠くへ。
みずきは振り返って手を振り、乗り込む。
目覚ましのベルは鳴っていないのに、胸の中で小さく鳴り続けているみたいだった。
神田はホームの端に立ち、コートの襟を立てた。
「さて、店に戻って開けるか」
彼はポケットから小さな紙片を取り出し、ベンチに残した。
『——しばらく休みます』の古い札の裏側に似た紙。そこには新しく、『いつでも調整します』とだけ手書きしてある。
ミスケが紙片を鼻先で押し、あんこが満足げにうなずく。源さんは空の色を確かめ、欠伸をひとつ。
「配達、成功だね」
源さんがレールの向こうの光を見送る。
「わたしたち、何を配達したんだろう」
あんこが目覚ましのベルをそっと指で弾く。
「起床の音じゃない」
ミスケが答えた。
「“起きたあとに進む理由”だよ」
駅を出ると、風がもう昼の匂いを少し含んでいた。
商店街に戻る角で、段ボールの薄い匂いと、インクの湿り気が混ざった。
駄菓子屋の掲示板に、小さな封筒が画鋲で留められている。
宛名はなく、角にかわいい猫のシール。
封の下に子どもの字で——『迷子の手紙』。
「インクが、まだ乾ききってない」
あんこが鼻をひく。
「猫の背中の匂いもする」
源さんが耳を立てる。
「次は——迷子の手紙と猫の背中」
ミスケが微笑む。
三匹は新しい紙の匂いへ、静かに歩き出した。
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