路地裏ポストの三匹便 —ミスケ・あんこ・源さん—

あき

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3匹の不思議な猫

第6話:ふたりの地図と遠回りの道

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路地裏ポストの内側は、紙の匂いで満ちていた。
乾いた日向、鉛筆の芯、手汗の塩。折り目の皺が月の光を細く裂く。

「地図だ」
ミスケがひげを揺らす。

通路の端から、一枚の古い手描き地図がふわりと落ちた。
赤鉛筆の線と、青鉛筆の線が、別々の家から出発して、川沿いの小さな橋でひとつになる。
端には書き込み——『まっすぐじゃなくていい道』。
角に小さな判子、「商店街スタンプラリー」と読める。

「ふたり分のスタンプだ」
あんこが目を細める。

地図の裏に、走り書きが見えた。
『最後にもういちど、遠回りがしたい。——ゆい』
その下に、別の字で小さく『おれは塾。無理。——はやと』が重ねてある。

「匂いは?」
「段ボールとガムテープ……引っ越しの家。洗い立てのシャツの匂いは女の子。インクと消しゴムは男の子。どっちも同じ川に通じてる」
ミスケが顔を上げる。

「会いたいけど、会えない、か」
源さんが尾をぴんと立てた。
「遠回りの背中を押そう」

三匹は地図をくわえ、暮れかけの商店街を抜けた。
まず、赤線の家。玄関には段ボールが積まれ、「明日出発」のマジックペン。
中学生くらいの女の子——結衣(ゆい)が、靴箱の上に力の抜けた鉢植えを置き、ため息をついた。

「最後に、あの橋、渡りたかったな」
あんこは靴箱に跳びのり、地図をそっと滑らせる。
赤線の上に、小さな猫の足跡スタンプ——コペパン堂の空き瓶にあった『OPENのタネ』の印影が、なぜか端に押されている。
結衣は目を丸くし、指でなぞった。

「これ、わたしたちの……」
赤線の途中には、
〈駄菓子屋の角で飴を一個〉
〈踏切でカウントダウン〉
〈土手の草の匂いを嗅ぐ〉
と、子どもの字で寄り道のメモが並んでいた。

次に、青線の家。窓の内側で、男の子——隼人(はやと)が机に向かっている。
参考書を開き、消しゴムの角が丸い。

源さんがベランダの桟(さん)に上がり、換気口から地図の角をひらりと落とした。

青線の上には、写真館の小さなスタンプが押してある。
隼人は拾い上げ、眉をひそめた。

「今さら、遠回り?」
でも、指が勝手に折り目を開く。
青線の途中に、〈神社の公衆電話で“いま何見える?”って言い合う〉とある。
去年の夏、電話越しに花火を数えた記憶が、耳の奥で弾けた。
机の上のペン先が揺れる。

参考書の上の時間と、地図の上の時間が、別々に進んでいたことに、ふと気づく。
三匹は川へ向かった。

夕暮れの土手は、草の穂が風になびき、誰かの自転車が遠くで鈴を鳴らした。
橋の名前は「朝顔橋」。欄干(らんかん)に細い蔓が絡み、まだ固い蕾がいくつか。

「ここで合流する」
ミスケが橋のたもとに地図を広げる。
「でも、ふたりをここへ呼ぶのは、ふたり自身だ」

「合図はどうする?」
源さんが問う。

あんこが空を見上げ、鼻先で風を嗅いだ。
「商店街のスタンプだよ。ふたりが覚えてる印を置いていこう」

三匹は走った。

駄菓子屋の角で、棚の影の古いスタンプ台を見つけ、地図の余白に小さな星印を押す。
踏切では、白いチョークを拾って枕木の先に「→」を描く。
写真館の前に寄って、店主のカード入れから、昔の「港写真店」の角印を、青線の曲がり角にそっと押した。
コペパン堂のシャッターには、あの手書きの「——しばらく休みます」の札がまだ掛かっている。
シャッターの端に、こっそり笑うように『準備中』の小さな判。

「これで、道が匂う」
ミスケが満足げにうなずく。
「ふたりの鼻——記憶が、辿ってくる」

赤線の家では、結衣が靴ひもを結びなおしていた。
母の声が台所からする。
「暗くなるよ」
「すぐ戻る」
結衣は地図をポケットに入れ、玄関を出た。

足は自然に、地図の赤い線の幅で進む。
角で飴を一個、踏切で列車を数え、土手で草の匂いを嗅ぐ。

ひとつひとつ、昔のルールを確かめるように。

青線の家では、隼人がペンを置いた。
「少しだけ、歩いてくる」

父は新聞から顔を上げ、「遠回りか」と笑った。

「うん。まっすぐじゃなくていい道」
隼人は自分で言って、自分で驚いた。

ポケットに地図を押し込み、神社の公衆電話の前で立ち止まる。
受話器の冷たさが、去年の夏を連れてくる。
彼は深呼吸をし、スマホの連絡先から結衣の名前を選んだ。

「いま、どこ見える?」
「土手。草の穂が、猫のしっぽみたいに」
「同じだ」

一拍の沈黙。その先が、急に軽くなる。
ふたりは、話しながら歩いた。
地図の赤と青が、通話の声で少しずつ近づく。

橋の欄干(らんかん)が視界に入るころ、空が紫にほどけた。
朝顔橋のたもとで、結衣が立ち止まり、隼人も反対側に立つ。
受話器はもういらない。

「……おはよう、じゃないか。こんばんは、か」
「また遠回り、してくれる?」
隼人は笑い、結衣も笑った。

言えなかった「がんばれ」や「置いていかないで」の代わりに、笑いが橋を渡る。
三匹は、欄干(らんかん)の影で並んだ。

結衣が地図をひろげ、鉛筆で新しい線を一本描く。
赤と青の間を、ゆっくり蛇行する、薄い灰色の線。

「これは?」
隼人が覗き込む。

「“これからの道”。まっすぐな日も、遠回りの日も、どっちでもいい線」
彼は頷き、自分のペンで灰色の線に小さく橋のマークを足した。
「朝顔が咲いたら集合、って書いとこう」

欄干(らんかん)の蕾が、夜風にかすかに触れて鳴った。

「配達、成功だね」
源さんが尻尾をゆらす。

「わたしたち、何を配達したんだろう」
あんこが地図の上を見つめる。

「寄り道の許可証」
ミスケが答えた。
「急がなくていい、っていう判子」

別れ際、ふたりは地図を半分ずつ折って交換した。

「次に会う条件、決めよう」
「朝顔が一つでも咲いたら、写真を送る。二つ咲いたら、橋で朝ごはん」
「三つ咲いたら?」
「そのとき考える。遠回りして」

川の匂いが、笑い声を押していく。
帰り道、三匹は土手の端で足を止めた。
欄干(らんかん)の蕾のひとつが、夜露を吸って少しだけほどける。


「次は、朝の匂いがする」
あんこが小さくくしゃみをした。

「土と水、そして、線香花火の残り香みたいな」
「『朝顔と最後の練習試合』」
ミスケが目を細める。

「朝が来る前に、少し寝ておこう」
源さんがあくびをした。

路地裏ポストの投函口は、夜の色に静かに溶けていく。
その奥で、紙の朝が、音もなく準備を始めていた。
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