ひきこもりでも恋をしたい

あき

文字の大きさ
3 / 40

第3話 玄関一歩の攻防

しおりを挟む
朝、カーテンの隙間に白が差している。
空気はまだ冷たく、部屋は安全だ。
玄関の敷居だけが、今日も牙を隠している。

チェックリストを開く。
「二十二時にログイン、訓練一戦」には昨日の達成印。
新しい行を作る。
「玄関の扉を“開ける”」
「靴を“履く”」
「一歩“出す”――できたら」

UIテストの仕様書みたいに、手順を番号で並べる。
書けば、少しだけ怖さが四角に閉じ込められる。
バグ報告欄に、予想される問題も書く。
「想定外のポップアップ:心拍数上昇、耳鳴り、手の震え」
「再現条件:外の足音、エレベーターの到着音、視線の想像」

スマホが震える。
共用アプリの個別メッセージだ。

「いろ:おはようございます。
昼前に一回、廊下が静かになります。
もし“扉を三秒だけ開ける”できそうなら、合図ください」

“三秒”。
いきなり“一歩”じゃなくていい。
基準が小さいほど、怖さは減る。

「くろ:試す」

「いろ:無理なら即撤退で。
成功条件は“開けて閉めた”でOKです」

“開けて閉めた”。
その程度が、成功。
そんな言葉を、昔の俺は必要としなかった。
今は、必要だ。
必要だと、認められることがありがたい。

靴を玄関に寄せる。
左、右。
つま先が揃うように少し回す。
鍵を手の届く範囲に置く。
退路の確保。
それも仕様書に追記。

扉の前に立つ。
ドアスコープの向こうで、昼の光が薄い円になる。
取っ手に指をかけた瞬間、心臓が一拍だけ跳ねた。
耳の奥で、水の中みたいな音がする。

深呼吸。
一つ。
二つ。

ゆっくり、回す。
ラッチが小さく鳴く。
金属の摩擦音が、部屋の静けさを切った。

三センチ。
四センチ。
外気が、紙一枚ぶんだけ侵入する。
膝がわずかに笑う。
視界の端で、緑の光が瞬いた。
廊下の天井に埋め込まれた非常灯。
昼でも点いているのか。
あの緑は、停電でも光るやつだ。
思考が緑へ逃げる。
逃げたまま、三秒。

閉めた。
指の腹に、冷たい取っ手の感触が残る。
肺が、勝手に仕事を再開する。

床に座り込んで、メッセージを打つ。

「くろ:三秒、開けて閉めた」

既読がついて、すぐ返信。

「いろ:大成功です。
できた一歩に、ごほうびを」

“ごほうび”。
子どもの頃、テストで八十点を取ると母が冷蔵庫のゼリーをくれた。
その記憶が、少しだけ喉を甘くする。

「いろ:お昼に、ドアの下に何かを滑らせます。
受け取れるなら、受け取ってください。
タイミングが合わなければ、夕方でも」

「くろ:ありがとう」

昼。
電子レンジの音が部屋を丸くする。
インスタントのスープの湯気が上がる。
廊下は静かだ。
たしかに、彼女の言ったとおり。

扉に耳を近づける。
外から、布の擦れる音。
床をなにかが擦る音。
ドアの隙間に、透明な袋が少し顔を出した。

ドアを開けずに、指でつまんで引き込む。
袋の中には、小さなのど飴が二つと、付箋が一枚。

「“声の練習用”」

手書きの丸い字。
付箋の角が、ほんの少しだけ曲がっている。
どこか慌てて書いたのだろう。
胸の奥が、笑う代わりにほどける。

飴を舌に載せる。
冷たい甘さが、喉を静かに撫でた。
“声の練習用”。
俺は今日、声を出す予定はない。
けれど、言葉を出す器官に、先にごほうびを渡しておくのは悪くない。

午後はタスクを進めた。
スクリーンショットにピクセル単位で赤枠を付け、矛盾を拾う。
「ボタンの角丸が他画面と2px差」
「フォーカスリングの色が仕様書と不一致」
ディスプレイの中では、俺は強い。
指摘は具体的で、再現可能で、再現手順が書ける。
再現できない怖さはない。
現実は、再現手順が書けない。

夕方。
一度目の成功に味をしめて、二度目を試す。
今度は、靴を履いて、扉を三秒。
目標は“敷居に片足を乗せる”。
失敗しても、仕様書は俺を責めない。

靴を履く。
足の甲に紐を結ぶ感触が、やけに生々しい。
取っ手に触れる。
深呼吸。
回す。
開く。

外気。
緑の非常灯。
遠くで、エレベーターの到着音。
金属の扉が開く、低い空気の唸り。

膝が抜ける。
視界が少しだけ狭まる。
“視線が来る”という想像が、予告なく膨らむ。
だれもいないのに、だれかがいる。
廊下に置かれた消火器の赤が、やけに鮮明に跳ねた。

閉めた。
早すぎる音で、閉めた。
指が白くなるほど、取っ手を握っていた。

床に座り込む。
靴のまま。
靴底のゴムが、玄関マットの毛を押し潰している。
心拍が耳に集まる。
鼓動の音が、誰かのノックみたいだ。

スマホを手探りで取り、いろに送る。

「くろ:二回目は撤退」

すぐには既読がつかない。
彼女はたぶん、勤務の準備をしている。
既読がつくまでの数分が、今日はやけに長い。

既読。
返信。

「いろ:撤退のタイミング、完璧です。
“怖いのに進んだ”が一番消耗するので、今日はここまでで正解」

「くろ:敷居には、足が乗らなかった」

「いろ:敷居は、明日に取っておきましょう。
私は今、“自己紹介を噛まない”の練習をします」

「くろ:成功条件の定義、ありがとう」

「いろ:仕様書は、優しいほど良いです」

仕様書は優しいほど良い。
その文だけで、喉の飴がもう一つ溶ける。

夜。
二十二時のゲームは、一戦だけ。
今日は俺の方から部屋を立てた。
タイトルの横に小さく「練習」と入れる。
彼女は入ってきて、短く「よろしく」と打った。
文字の向こうで、きっと忙しい。
それでも、同じ画面にいる。
一戦だけの連携は、昨日より滑らかだった。
撤退の合図が早く、進む時の一歩が小さい。
小ささが、勝ちを連れてくる。

「いろ:おつかれさまでした。
帰り道、廊下で足音が多いので、今夜は玄関は閉めて休んでください」

「くろ:了解」

ログアウトして、部屋が暗くなる。
モニターの余熱が消えるまでの数十秒が、好きだ。
光が薄くなっていく間、世界も穏やかに薄くなる。

寝る前、ふと思い立って、扉の前に立つ。
開けない。
開けないけれど、そこに立つ。
明日の俺に、場所の記憶を渡すために。

その時、ドアの下がかすかに明るくなった。
廊下の照明が、ほんの少しだけ色を変えたのかと思ったが、違う。
下から、紙が一枚、するりと滑ってきた。

拾う。
付箋。
のど飴の包みがもう一つ、セロテープでくっついている。
丸い字。

「“今日は十分。
また明日、一歩だけ。”」

喉の奥が、あたたかさで詰まる。
あたたかさは、涙と似た手触りを持っている。
でも涙にはならない。
ただ、胸の内側に小さな火が灯る。

ドアに手のひらを当てる。
向こう側に、人がいる。
壁一枚向こうの相棒。
“開けて閉めた”が成功なら、今日の俺は成功者だ。

ベッドに入る前に、チェックリストを更新する。
「扉を三秒開けて閉めた」達成。
「靴を履いた」達成。
「敷居に片足」――保留。
明日の欄に、“非常灯の位置確認”と書き足す。
緑の光は、停電の日の練習になる。
いつか、あの緑を頼りに歩く夜が来る。

その“いつか”は、まだ遠い。
けれど、付箋は言った。
“また明日、一歩だけ”。

スマホが一度だけ震える。
彼女から、短い一行。

「いろ:おやすみなさい」

「くろ:おやすみ」

目を閉じる。
飴の甘さが、ゆっくりと喉を降りていく。
その甘さが、声になる日を想像する。
想像は、怖くない。
むしろ、少しだけ待ち遠しい。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚活に疲れたアラサーOLの私、癒やし的存在の弟分(高校生)に「もう待てない」と外堀を埋められています ~10年分の執着は、甘すぎて重すぎる~

ダルい
恋愛
「29歳? 子供産むならもっと若い子がよかったな」  中堅企業で働く早川結衣(29)は、婚活市場における年齢の壁と、デリカシーのない男たちにすり減らされる日々を送っていた。  そんな結衣の唯一の癒やしは、マンションの隣に住む幼馴染の高校生・瀬戸湊(16)。  両親が共働きの彼に代わって、幼い頃はお世話をしてあげていた……はずが、いつの間にか立場は逆転。 手料理を振る舞われ、愚痴を聞かれ、マッサージまでされる始末。「湊がお嫁さんならいいのに」なんて冗談を言っていたけれど。 「今の結衣姉が一番綺麗だよ。……早く、誰も手出しできない『おばさん』になってくれればいいのに」  可愛い弟分だと思っていた彼が、時折見せる『オス』の顔。 16歳の高校生と、もうすぐ30歳のアラサー。  13歳差の常識と理性に抗いながら、生意気な年下男子に外堀を埋められていく、甘くて重い現状維持(ラブストーリー)。 「俺が大人になるまで、誰とも結婚しないで」 癒やされたいすべての女性に贈る、最強の年下幼馴染による溺愛包囲網、開始。

記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】

かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。 名前も年齢も住んでた町も覚えてません。 ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。 プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。 小説家になろう様にも公開してます。

嘘コクのゆくえ

キムラましゅろう
恋愛
アニーは奨学金とバイトで稼いだお金で魔法学校に通う苦学生。 生活は困窮、他の学生みたいに愛だの恋だのに現を抜かしている暇などない生活を送っていた。 そんな中、とある教授の研究室で何らかの罰としてアニー=メイスンに告白して来いと教授が学生に命じているのを偶然耳にしてしまう。 アニーとは自分のこと、そして告白するように言われていた学生は密かに思いを寄せる同級生のロンド=ハミルトンで…… 次の日、さっそくその命令に従ってアニーに嘘の告白、嘘コクをしてきたロンドにアニーは…… 完全ご都合主義、ノーリアリティノークオリティのお話です。 誤字脱字が罠のように点在するお話です。菩薩の如き広いお心でお読みいただけますと幸いです。 作者は元サヤハピエン主義を掲げております。 アンチ元サヤの方は回れ右をお勧めいたします。 小説家になろうさんにも時差投稿します。

これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー

小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。 でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。 もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……? 表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。 全年齢作品です。 ベリーズカフェ公開日 2022/09/21 アルファポリス公開日 2025/06/19 作品の無断転載はご遠慮ください。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい

隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫 ◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。 ◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。 ◼︎超高速展開、サクッと読めます。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

御曹司との交際0日婚なんて、聞いてません!──10年の恋に疲れた私が、突然プロポーズされました【完結】

日下奈緒
恋愛
10年付き合った恋人と別れ、恋に臆病になっていた30歳の千尋。そんな彼女に、取引先で出会った御曹司・神楽木律が突然のプロポーズ。「交際0日で結婚しよう」なんて冗談でしょ?──戸惑いながら始まった新婚生活。冷めた仮面夫婦のはずが、律の一途な想いに千尋の心は少しずつほどけていく。

処理中です...