ひきこもりでも恋をしたい

あき

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第4話 停電の夜、壁越しの声

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その夜は、雲が低くて、部屋の明るさまで曇って見えた。
二十二時の一戦を終えて、今日は早めに切り上げる。
いろはは夜勤。
俺は、チェックリストの明日の欄に小さく「敷居、片足」と書き足した。

消灯。
モニターの余熱が薄れていく。
天井の四角が、闇にゆっくり沈んでいく。

その瞬間、音が途切れた。
換気扇が止まり、冷蔵庫の唸りが消える。
部屋の輪郭が、どこかへ置き忘れられた。

停電だ。

胸が一拍、外側に出る。
すぐに二拍、戻ってこない。
暗闇の中で、俺の呼吸音だけが自分を追い越していく。

次の瞬間、玄関の向こうがうっすらと緑に染まった。
非常灯だ。
昼間に見た、小さな楕円の緑。
緑は、闇の端をやわらかく縁取る。
その色に、心拍がゆっくり寄りかかる。

スマホのライトを最低にして、机から飴を一つ取る。
透明な包みの中の光が、闇の中で小さく固まっている。
「声の練習用」
付箋の字が、脳内で浮かぶ。

包みを破る。
舌に冷たい甘さが置かれる。
喉が、少しだけ潤う。

通信は。
Wi-Fiは死んだ。
モバイル回線は辛うじて生きている。
共用アプリは重く、開いては閉じる。
一行打つ間にも、砂のように時間がこぼれる。

廊下の方で、かすかな音がした。
トン。
間。
トトン。

ノックではない。
壁を指先で叩く、小さな符号。
考えるより先に、俺は壁にそっと手を当てた。
返す。
トン、トン。

扉を開ける勇気はない。
でも、壁は薄い。
声は、届く。
届くかもしれない。

喉の奥で、甘さを押す。
一回、息を吐く。
もう一回、吐く。
出ない声を、前へ一歩だけ押す。

「……大丈夫です」

自分の声が、部屋の空気に触れる。
細い糸みたいな声だ。
でも、切れていない。
耳が、その糸を受け取る。

壁の向こうから、同じくらい細い声が返ってきた。

「よかった。
停電、びっくりしましたね」

いろはの声だ。
文字で想像していたより、少し低くて、柔らかい。
音の端が、ところどころで噛む。
それが安心に聞こえる。

「非常灯、ついてます」

「はい。
このマンション、非常灯は別系統らしいです。
……だいじょうぶ、ですか」

言葉の間に、呼吸がある。
呼吸の間に、同じ緊張がある。
俺は、壁に額を寄せて、声を少しだけ太くする。

「だいじょうぶ。
暗いのは、少しだけ……落ち着きます」

「わかります。
病棟も、夜は音が少ないので」

音が少ない夜。
そのイメージに、胸がゆっくり沈む。
不安が、椅子に座る。
立ったまま暴れない。

「……あの、名前、言ってもいいですか」

自分の言葉に、自分が驚く。
けれど、言った。
言ってから、喉が少し軽くなった。

「黒川、透です」

ほんの一秒、向こうが息を飲む気配。
すぐに、真似るように返ってくる。

「春原、いろはです。
あの、いつも、ありがとうございます」

「こちらこそ。
飴、助かりました」

「よかった。
声の……練習、になってますか」

「たぶん」

たぶん、は正直だ。
正直でいられるくらいには、緊張が薄い。
言葉の端が、少しだけ丸くなる。

廊下の奥で、誰かの足音。
エレベーターの扉が、遠くで重く動く。
その音の向こうに、緑の楕円がぼんやり続いている。

「停電、長いかも。
冷蔵庫、心配」

「病院は自家発電ありますけど……。
こっちは、多分一時間くらいで戻るはずです」

「詳しい」

「管理掲示板のバックアップ回線だけ、生きてました。
見えづらいけど」

彼女の声が、少しだけ近づいた気がした。
扉に背を預けているのだろうか。
俺も、扉に背をつける。
屋外で背中を壁につけるのは防御だが、今は支えだ。
支えに、音が生える。

「透さん」

名前で呼ばれて、心臓が一瞬だけこそばゆい。
呼ばれる練習はしていなかった。
声が、名前の輪郭を撫でる。
その手触りが、悪くない。

「はい」

「もし、怖くなったら、三十まで数えましょう。
私が一緒に数えます」

「……お願いします」

彼女が、声で数字を置きはじめる。

「いち」

「に」

「さん」

言葉と言葉の間に、呼吸がある。
呼吸の波に、心拍が寄っていく。
壁の向こうと、こちらで、同じ速度の波が立つ。
十を越えるころには、胸の中の角が少し丸くなっていた。

「さんじゅう」

「ありがとうございました」

「いえ。
私も、こうして誰かと声で数えるの、初めてです」

「噛まなかった」

「えへへ、頑張りました」

笑い声が、木の粒みたいに扉を通り抜けた。
それは、光よりも届きやすい。

短い沈黙。
沈黙の中で、外の雨の匂いに気づく。
雲は低く、たぶん少し降っている。
停電の夜は、匂いまで近づく。

彼女が、ためらいながら言う。

「明るくなったら、顔……合わせてみますか」

心臓が、提案の形を確かめる。
怖い。
でも、ゼロじゃない。
ゼロより大きい数は、進める。

「……はい。
合図、決めましょう」

「合図、ですか」

「ドアの下に、黄色い付箋。
“準備OK”って書いてあったら、十秒だけ開ける」

「わかりました。
十秒、です」

「無理なら、やめる」

「無理なら、やめる。
撤退は成功」

撤退は成功。
そのルールが、胸の真ん中に杭みたいに刺さる。
杭は、揺れを小さくするためにある。

遠くで、低い唸りが戻ってくる。
エアコンが、弱く息を吹き返した。
天井の四角に、薄い明かりが広がる。
停電が、終わった。

非常灯の緑が、壁に溶けていく。
闇の輪郭が、部屋の輪郭に差し替わる。
指先の汗が乾き、喉の甘さが静かに薄まる。

壁の向こうから、最後の一言。

「透さん。
今日は、声、出せてよかったです」

「俺も。
ありがとうございました」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

声が消えると、部屋の静けさが戻ってくる。
でも、静けさの温度が違う。
ひとりの静けさではなく、ふたりが黙っている静けさだ。

机に付箋を一枚用意する。
黄色。
太いペンで、ゆっくりと書く。

「準備OK」

字が少し震れている。
でも、読める。
読めれば、届く。

明日の朝、これをドアの下に滑らせる。
十秒だけの約束のために。
十秒だけのために、今夜はよく眠る。

ベッドに横たわる。
天井の四角が、停電前と同じ形に戻っている。
同じ形なのに、違う部屋みたいだ。
壁一枚向こうに、声の記憶があるからだ。

目を閉じる。
三十まで数える前に、眠りの方が先に来た。
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