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第5話 初対面未遂
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朝いちばんで、黄色い付箋をドアの下に滑らせた。
「準備OK」
ペンの線は少し震えている。
でも、読める。
読めれば、届く。
数分もしないうちに、スマホが震えた。
「いろ:確認しました。
十一時五分、廊下が静かになるはずです」
「くろ:その時間で」
「いろ:成功条件は“十秒開けて閉める”。
顔は……無理しないで」
“顔は無理しないで”。
その一文が、胸の硬さを半分くらい減らしてくれる。
チェックリストに追記する。
「十秒の扉。
開→呼吸→閉」
「撤退=成功」
十一時まで、机に向かった。
UIテストのバグ票を三件書く。
「入力欄のフォーカス色が仕様と不一致」
「戻るボタンの挙動が画面Aのみ例外」
「モーダルのスクロール禁止が機能していない」
具体的に書けることは、怖くない。
十秒の扉も、具体にしてしまえば、少しは怖くなくなる。
十一時三分。
靴は履かない。
今日は敷居を越えない。
扉の前に立つ。
取っ手に指をかける。
心拍の音が、耳の裏側まで満ちてくる。
十一時四分。
スマホに一行。
「いろ:ドアの前にいます。
三十数えたら、開けます」
「くろ:了解」
数字が、頭の中で生まれては消える。
十九、二十。
二十七、二十八。
二十九。
ラッチが、向こうとこちらで同時に鳴った。
開く。
五センチ。
十センチ。
白い廊下の光が、部屋の床に細い帯を作る。
帯に、粉塵が踊る。
覗き穴をのぞく。
魚眼の向こうに、ドアとドアのあいだの空間。
隣の扉も、少しだけ開いている。
影が二つ。
こちらと向こうの、影。
「……」
声は、出ない。
出さなくていいルールにしたのだから、出なくても成功だ。
視界の端。
白いスニーカーのつま先が、隣の敷居に触れている。
明るい色の靴下。
ボーダー。
そこまでで、目が勝手に止まる。
顔は見ない。
見ないで、十秒を数える。
三。
四。
五。
廊下の空調が、低く唸る。
それだけの音が、大きくなる。
手のひらに汗。
呼吸は浅く、数える声だけが喉の奥で動く。
六。
七。
隣の扉の隙間が、ほんの少し広がる。
覗き穴の円が、彼女の肩の線を歪めて見せる。
布の色は、淡い。
病院で見るような、落ち着いたブルー。
息が止まる。
八。
「……」
喉の奥で何かが動いた。
言葉の手前の音。
でも、音はまだ胎児のまま生まれない。
九。
取っ手に力を足す。
早く閉めたい、という衝動と、もう一秒だけ、という願いが指で押し合う。
十。
扉を閉めた。
向こうのラッチも、ほとんど同時に鳴った。
成功。
仕様書どおり。
成功だ。
その場で膝が抜けるみたいに座り込みそうになり、壁に背中を預ける。
背中に木の冷たさ。
呼吸が、ゆっくり戻ってくる。
スマホ。
「くろ:十秒。
開けて閉めた」
既読がすぐ付く。
「いろ:大成功です。
わ、私も、閉める手が震えました」
「くろ:震えたままで、できた」
「いろ:震えたままで、できますね」
短い行が行って帰ってくる間に、胸の内側が少しずつ整う。
机の角に肘を置いて、深呼吸をもう一度。
十分ほどして、またメッセージ。
「いろ:いきなりでごめんなさい。
ドアの下に、ひとつだけ置かせてください」
「くろ:どうぞ」
布が擦れる音。
ドアの下に影が差す。
覗き穴をのぞく勇気は、今はない。
でも、隙間の向こうに彼女がいると、身体が知っている。
紙が滑る音。
セロハンの小さな擦れ。
何かが差し込まれてくる。
透明の袋。
小さな絆創膏が二枚と、付箋。
丸い字。
「“指、冷たかったら。
角で切らないように”」
指を見た。
扉の角を押さえたせいか、親指の腹に薄い赤い線ができている。
痛いほどではない。
でも、見つけてもらった気がした。
袋を手に持ち、もう一度だけ扉に触れる。
開けない。
触れるだけ。
木の温度の向こうに、人がいる。
その時だ。
隣の扉の向こうで、何かが小さく落ちる音がした。
カサ、という軽い音。
覗き穴に目を当てる。
彼女のドアの足元。
白いスニーカーの横に、同じ絆創膏の袋が一枚。
床に、落ちている。
手から滑ったのだろう。
彼女は気づかず、すでに数歩、奥に下がっている影。
喉の奥が、うずいた。
声を出せば、呼べる。
「落ちましたよ」と。
でも、声は、さっき十秒のルールの外側にある。
さっきの成功を、別の挑戦で上書きしたくない。
今日の成功は、今日のままにしたい。
「くろ:ありがとうございます。
受け取りました」
メッセージだけ送る。
向こうから、すぐ返ってくる。
「いろ:よかった。
……その。
落とし物があれば、後で拾います」
彼女も気づいている。
でも、今は拾わない。
今は、無理をしない。
床に落ちた小さな四角を、覗き穴越しに見る。
四角は、今日と明日の境界に見えた。
今日の俺は拾えない。
明日の俺なら、拾えるかもしれない。
午後。
作業に戻る。
さっきよりも、画面の中の線がまっすぐに見える。
角丸の半径は、仕様書どおりに修正されるべきだ。
角が丸いと、触れても痛くない。
人も、UIも、同じだ。
夕方。
もう一度だけ、扉の前に立つ。
覗き穴の向こう、小さな四角はまだそこにある。
廊下は静か。
足音はない。
取っ手を握る。
開けて、拾うだけ。
一秒でできる。
けれど、その一秒は、今はまだ十秒より難しい。
仕様書に「後日」と書き込む。
先送りではなく、計画に組み込む。
夜。
ゲームは短い訓練を一戦。
チャット欄に、彼女の一行。
「いろ:今日の十秒、ありがとうございました」
「くろ:こちらこそ」
「いろ:明日は、廊下五歩の作戦を書いてみてもいいですか」
「くろ:お願いします」
“廊下五歩”。
言葉だけで、足の裏が少しむずむずする。
でも、むずむずは嫌な予感ではない。
準備運動の合図。
ログアウトして、部屋が暗くなる。
モニターの余熱が、窓の外の夜と混ざる。
寝る前に、もう一度だけ覗き穴をのぞく。
廊下は、やっぱり静かだ。
床には、小さな絆創膏の袋が一枚。
拾えなかった四角。
明日のための、目印。
ドアに手のひらを当てる。
向こう側に、人がいる。
今日の十秒は、たしかに届いた。
だから、明日の五歩も、たぶん届く。
目を閉じた。
数える前に、眠りの方が先に来た。
「準備OK」
ペンの線は少し震えている。
でも、読める。
読めれば、届く。
数分もしないうちに、スマホが震えた。
「いろ:確認しました。
十一時五分、廊下が静かになるはずです」
「くろ:その時間で」
「いろ:成功条件は“十秒開けて閉める”。
顔は……無理しないで」
“顔は無理しないで”。
その一文が、胸の硬さを半分くらい減らしてくれる。
チェックリストに追記する。
「十秒の扉。
開→呼吸→閉」
「撤退=成功」
十一時まで、机に向かった。
UIテストのバグ票を三件書く。
「入力欄のフォーカス色が仕様と不一致」
「戻るボタンの挙動が画面Aのみ例外」
「モーダルのスクロール禁止が機能していない」
具体的に書けることは、怖くない。
十秒の扉も、具体にしてしまえば、少しは怖くなくなる。
十一時三分。
靴は履かない。
今日は敷居を越えない。
扉の前に立つ。
取っ手に指をかける。
心拍の音が、耳の裏側まで満ちてくる。
十一時四分。
スマホに一行。
「いろ:ドアの前にいます。
三十数えたら、開けます」
「くろ:了解」
数字が、頭の中で生まれては消える。
十九、二十。
二十七、二十八。
二十九。
ラッチが、向こうとこちらで同時に鳴った。
開く。
五センチ。
十センチ。
白い廊下の光が、部屋の床に細い帯を作る。
帯に、粉塵が踊る。
覗き穴をのぞく。
魚眼の向こうに、ドアとドアのあいだの空間。
隣の扉も、少しだけ開いている。
影が二つ。
こちらと向こうの、影。
「……」
声は、出ない。
出さなくていいルールにしたのだから、出なくても成功だ。
視界の端。
白いスニーカーのつま先が、隣の敷居に触れている。
明るい色の靴下。
ボーダー。
そこまでで、目が勝手に止まる。
顔は見ない。
見ないで、十秒を数える。
三。
四。
五。
廊下の空調が、低く唸る。
それだけの音が、大きくなる。
手のひらに汗。
呼吸は浅く、数える声だけが喉の奥で動く。
六。
七。
隣の扉の隙間が、ほんの少し広がる。
覗き穴の円が、彼女の肩の線を歪めて見せる。
布の色は、淡い。
病院で見るような、落ち着いたブルー。
息が止まる。
八。
「……」
喉の奥で何かが動いた。
言葉の手前の音。
でも、音はまだ胎児のまま生まれない。
九。
取っ手に力を足す。
早く閉めたい、という衝動と、もう一秒だけ、という願いが指で押し合う。
十。
扉を閉めた。
向こうのラッチも、ほとんど同時に鳴った。
成功。
仕様書どおり。
成功だ。
その場で膝が抜けるみたいに座り込みそうになり、壁に背中を預ける。
背中に木の冷たさ。
呼吸が、ゆっくり戻ってくる。
スマホ。
「くろ:十秒。
開けて閉めた」
既読がすぐ付く。
「いろ:大成功です。
わ、私も、閉める手が震えました」
「くろ:震えたままで、できた」
「いろ:震えたままで、できますね」
短い行が行って帰ってくる間に、胸の内側が少しずつ整う。
机の角に肘を置いて、深呼吸をもう一度。
十分ほどして、またメッセージ。
「いろ:いきなりでごめんなさい。
ドアの下に、ひとつだけ置かせてください」
「くろ:どうぞ」
布が擦れる音。
ドアの下に影が差す。
覗き穴をのぞく勇気は、今はない。
でも、隙間の向こうに彼女がいると、身体が知っている。
紙が滑る音。
セロハンの小さな擦れ。
何かが差し込まれてくる。
透明の袋。
小さな絆創膏が二枚と、付箋。
丸い字。
「“指、冷たかったら。
角で切らないように”」
指を見た。
扉の角を押さえたせいか、親指の腹に薄い赤い線ができている。
痛いほどではない。
でも、見つけてもらった気がした。
袋を手に持ち、もう一度だけ扉に触れる。
開けない。
触れるだけ。
木の温度の向こうに、人がいる。
その時だ。
隣の扉の向こうで、何かが小さく落ちる音がした。
カサ、という軽い音。
覗き穴に目を当てる。
彼女のドアの足元。
白いスニーカーの横に、同じ絆創膏の袋が一枚。
床に、落ちている。
手から滑ったのだろう。
彼女は気づかず、すでに数歩、奥に下がっている影。
喉の奥が、うずいた。
声を出せば、呼べる。
「落ちましたよ」と。
でも、声は、さっき十秒のルールの外側にある。
さっきの成功を、別の挑戦で上書きしたくない。
今日の成功は、今日のままにしたい。
「くろ:ありがとうございます。
受け取りました」
メッセージだけ送る。
向こうから、すぐ返ってくる。
「いろ:よかった。
……その。
落とし物があれば、後で拾います」
彼女も気づいている。
でも、今は拾わない。
今は、無理をしない。
床に落ちた小さな四角を、覗き穴越しに見る。
四角は、今日と明日の境界に見えた。
今日の俺は拾えない。
明日の俺なら、拾えるかもしれない。
午後。
作業に戻る。
さっきよりも、画面の中の線がまっすぐに見える。
角丸の半径は、仕様書どおりに修正されるべきだ。
角が丸いと、触れても痛くない。
人も、UIも、同じだ。
夕方。
もう一度だけ、扉の前に立つ。
覗き穴の向こう、小さな四角はまだそこにある。
廊下は静か。
足音はない。
取っ手を握る。
開けて、拾うだけ。
一秒でできる。
けれど、その一秒は、今はまだ十秒より難しい。
仕様書に「後日」と書き込む。
先送りではなく、計画に組み込む。
夜。
ゲームは短い訓練を一戦。
チャット欄に、彼女の一行。
「いろ:今日の十秒、ありがとうございました」
「くろ:こちらこそ」
「いろ:明日は、廊下五歩の作戦を書いてみてもいいですか」
「くろ:お願いします」
“廊下五歩”。
言葉だけで、足の裏が少しむずむずする。
でも、むずむずは嫌な予感ではない。
準備運動の合図。
ログアウトして、部屋が暗くなる。
モニターの余熱が、窓の外の夜と混ざる。
寝る前に、もう一度だけ覗き穴をのぞく。
廊下は、やっぱり静かだ。
床には、小さな絆創膏の袋が一枚。
拾えなかった四角。
明日のための、目印。
ドアに手のひらを当てる。
向こう側に、人がいる。
今日の十秒は、たしかに届いた。
だから、明日の五歩も、たぶん届く。
目を閉じた。
数える前に、眠りの方が先に来た。
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