ひきこもりでも恋をしたい

あき

文字の大きさ
5 / 40

第5話 初対面未遂

しおりを挟む
朝いちばんで、黄色い付箋をドアの下に滑らせた。

「準備OK」

ペンの線は少し震えている。
でも、読める。
読めれば、届く。

数分もしないうちに、スマホが震えた。

「いろ:確認しました。
十一時五分、廊下が静かになるはずです」

「くろ:その時間で」

「いろ:成功条件は“十秒開けて閉める”。
顔は……無理しないで」

“顔は無理しないで”。
その一文が、胸の硬さを半分くらい減らしてくれる。

チェックリストに追記する。
「十秒の扉。
開→呼吸→閉」
「撤退=成功」

十一時まで、机に向かった。
UIテストのバグ票を三件書く。
「入力欄のフォーカス色が仕様と不一致」
「戻るボタンの挙動が画面Aのみ例外」
「モーダルのスクロール禁止が機能していない」
具体的に書けることは、怖くない。
十秒の扉も、具体にしてしまえば、少しは怖くなくなる。

十一時三分。
靴は履かない。
今日は敷居を越えない。
扉の前に立つ。
取っ手に指をかける。
心拍の音が、耳の裏側まで満ちてくる。

十一時四分。
スマホに一行。

「いろ:ドアの前にいます。
三十数えたら、開けます」

「くろ:了解」

数字が、頭の中で生まれては消える。
十九、二十。
二十七、二十八。
二十九。

ラッチが、向こうとこちらで同時に鳴った。

開く。
五センチ。
十センチ。
白い廊下の光が、部屋の床に細い帯を作る。
帯に、粉塵が踊る。

覗き穴をのぞく。
魚眼の向こうに、ドアとドアのあいだの空間。
隣の扉も、少しだけ開いている。
影が二つ。
こちらと向こうの、影。

「……」

声は、出ない。
出さなくていいルールにしたのだから、出なくても成功だ。

視界の端。
白いスニーカーのつま先が、隣の敷居に触れている。
明るい色の靴下。
ボーダー。
そこまでで、目が勝手に止まる。
顔は見ない。
見ないで、十秒を数える。

三。
四。
五。

廊下の空調が、低く唸る。
それだけの音が、大きくなる。
手のひらに汗。
呼吸は浅く、数える声だけが喉の奥で動く。

六。
七。

隣の扉の隙間が、ほんの少し広がる。
覗き穴の円が、彼女の肩の線を歪めて見せる。
布の色は、淡い。
病院で見るような、落ち着いたブルー。
息が止まる。

八。

「……」

喉の奥で何かが動いた。
言葉の手前の音。
でも、音はまだ胎児のまま生まれない。

九。

取っ手に力を足す。
早く閉めたい、という衝動と、もう一秒だけ、という願いが指で押し合う。

十。

扉を閉めた。
向こうのラッチも、ほとんど同時に鳴った。

成功。
仕様書どおり。
成功だ。

その場で膝が抜けるみたいに座り込みそうになり、壁に背中を預ける。
背中に木の冷たさ。
呼吸が、ゆっくり戻ってくる。

スマホ。

「くろ:十秒。
開けて閉めた」

既読がすぐ付く。

「いろ:大成功です。
わ、私も、閉める手が震えました」

「くろ:震えたままで、できた」

「いろ:震えたままで、できますね」

短い行が行って帰ってくる間に、胸の内側が少しずつ整う。
机の角に肘を置いて、深呼吸をもう一度。

十分ほどして、またメッセージ。

「いろ:いきなりでごめんなさい。
ドアの下に、ひとつだけ置かせてください」

「くろ:どうぞ」

布が擦れる音。
ドアの下に影が差す。
覗き穴をのぞく勇気は、今はない。
でも、隙間の向こうに彼女がいると、身体が知っている。

紙が滑る音。
セロハンの小さな擦れ。
何かが差し込まれてくる。

透明の袋。
小さな絆創膏が二枚と、付箋。
丸い字。

「“指、冷たかったら。
角で切らないように”」

指を見た。
扉の角を押さえたせいか、親指の腹に薄い赤い線ができている。
痛いほどではない。
でも、見つけてもらった気がした。

袋を手に持ち、もう一度だけ扉に触れる。
開けない。
触れるだけ。
木の温度の向こうに、人がいる。

その時だ。
隣の扉の向こうで、何かが小さく落ちる音がした。
カサ、という軽い音。
覗き穴に目を当てる。

彼女のドアの足元。
白いスニーカーの横に、同じ絆創膏の袋が一枚。
床に、落ちている。
手から滑ったのだろう。
彼女は気づかず、すでに数歩、奥に下がっている影。

喉の奥が、うずいた。
声を出せば、呼べる。
「落ちましたよ」と。
でも、声は、さっき十秒のルールの外側にある。
さっきの成功を、別の挑戦で上書きしたくない。
今日の成功は、今日のままにしたい。

「くろ:ありがとうございます。
受け取りました」

メッセージだけ送る。
向こうから、すぐ返ってくる。

「いろ:よかった。
……その。
落とし物があれば、後で拾います」

彼女も気づいている。
でも、今は拾わない。
今は、無理をしない。

床に落ちた小さな四角を、覗き穴越しに見る。
四角は、今日と明日の境界に見えた。
今日の俺は拾えない。
明日の俺なら、拾えるかもしれない。

午後。
作業に戻る。
さっきよりも、画面の中の線がまっすぐに見える。
角丸の半径は、仕様書どおりに修正されるべきだ。
角が丸いと、触れても痛くない。
人も、UIも、同じだ。

夕方。
もう一度だけ、扉の前に立つ。
覗き穴の向こう、小さな四角はまだそこにある。
廊下は静か。
足音はない。

取っ手を握る。
開けて、拾うだけ。
一秒でできる。
けれど、その一秒は、今はまだ十秒より難しい。
仕様書に「後日」と書き込む。
先送りではなく、計画に組み込む。

夜。
ゲームは短い訓練を一戦。
チャット欄に、彼女の一行。

「いろ:今日の十秒、ありがとうございました」

「くろ:こちらこそ」

「いろ:明日は、廊下五歩の作戦を書いてみてもいいですか」

「くろ:お願いします」

“廊下五歩”。
言葉だけで、足の裏が少しむずむずする。
でも、むずむずは嫌な予感ではない。
準備運動の合図。

ログアウトして、部屋が暗くなる。
モニターの余熱が、窓の外の夜と混ざる。

寝る前に、もう一度だけ覗き穴をのぞく。
廊下は、やっぱり静かだ。
床には、小さな絆創膏の袋が一枚。
拾えなかった四角。
明日のための、目印。

ドアに手のひらを当てる。
向こう側に、人がいる。
今日の十秒は、たしかに届いた。
だから、明日の五歩も、たぶん届く。

目を閉じた。
数える前に、眠りの方が先に来た。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚活に疲れたアラサーOLの私、癒やし的存在の弟分(高校生)に「もう待てない」と外堀を埋められています ~10年分の執着は、甘すぎて重すぎる~

ダルい
恋愛
「29歳? 子供産むならもっと若い子がよかったな」  中堅企業で働く早川結衣(29)は、婚活市場における年齢の壁と、デリカシーのない男たちにすり減らされる日々を送っていた。  そんな結衣の唯一の癒やしは、マンションの隣に住む幼馴染の高校生・瀬戸湊(16)。  両親が共働きの彼に代わって、幼い頃はお世話をしてあげていた……はずが、いつの間にか立場は逆転。 手料理を振る舞われ、愚痴を聞かれ、マッサージまでされる始末。「湊がお嫁さんならいいのに」なんて冗談を言っていたけれど。 「今の結衣姉が一番綺麗だよ。……早く、誰も手出しできない『おばさん』になってくれればいいのに」  可愛い弟分だと思っていた彼が、時折見せる『オス』の顔。 16歳の高校生と、もうすぐ30歳のアラサー。  13歳差の常識と理性に抗いながら、生意気な年下男子に外堀を埋められていく、甘くて重い現状維持(ラブストーリー)。 「俺が大人になるまで、誰とも結婚しないで」 癒やされたいすべての女性に贈る、最強の年下幼馴染による溺愛包囲網、開始。

記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】

かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。 名前も年齢も住んでた町も覚えてません。 ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。 プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。 小説家になろう様にも公開してます。

嘘コクのゆくえ

キムラましゅろう
恋愛
アニーは奨学金とバイトで稼いだお金で魔法学校に通う苦学生。 生活は困窮、他の学生みたいに愛だの恋だのに現を抜かしている暇などない生活を送っていた。 そんな中、とある教授の研究室で何らかの罰としてアニー=メイスンに告白して来いと教授が学生に命じているのを偶然耳にしてしまう。 アニーとは自分のこと、そして告白するように言われていた学生は密かに思いを寄せる同級生のロンド=ハミルトンで…… 次の日、さっそくその命令に従ってアニーに嘘の告白、嘘コクをしてきたロンドにアニーは…… 完全ご都合主義、ノーリアリティノークオリティのお話です。 誤字脱字が罠のように点在するお話です。菩薩の如き広いお心でお読みいただけますと幸いです。 作者は元サヤハピエン主義を掲げております。 アンチ元サヤの方は回れ右をお勧めいたします。 小説家になろうさんにも時差投稿します。

これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー

小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。 でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。 もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……? 表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。 全年齢作品です。 ベリーズカフェ公開日 2022/09/21 アルファポリス公開日 2025/06/19 作品の無断転載はご遠慮ください。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい

隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫 ◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。 ◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。 ◼︎超高速展開、サクッと読めます。

悪役令嬢は断罪イベントから逃げ出してのんびり暮らしたい

花見 有
恋愛
乙女ゲームの断罪エンドしかない悪役令嬢リスティアに転生してしまった。どうにか断罪イベントを回避すべく努力したが、それも無駄でどうやら断罪イベントは決行される模様。 仕方がないので最終手段として断罪イベントから逃げ出します!

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

処理中です...