ひきこもりでも恋をしたい

あき

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第6話 Wi-Fi救援

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朝、覗き穴の向こうに小さな四角がまだ見えた。
昨日、拾えなかった絆創膏の袋。
今日の俺は、まだ拾わない。
“後日”を、ちゃんと予定にする。

机に座ると、メッセージが届いていた。

「いろ:おはようございます。
“廊下五歩作戦 v0.1”置きます」

続けて、箇条書きが落ちてくる。

「・時間帯:十時五十分~十一時十分(廊下静か)
・装備:スニーカー、スマホ(ストップウォッチ)
・目線:非常灯→床→足の甲(視線を人に近づけない)
・呼吸:深呼吸×3→四歩目で一回止める→五歩目で吐く
・撤退条件:足音が近い/心拍が速い
・撤退は成功
・ごほうび:スタンプ一個」

仕様書みたいで、読みやすい。
俺は笑いながら、スクショを保存した。
その直後、ネットのページが止まる。
読み込みの丸が、固まった雪だるまみたいに回らない。

回線が、切れた。

UIテストのアップロードが途中で凍る。
胸が一瞬、内側に折れる。
画面の中のルールが、消えるのがいちばん怖い。

ルーターに目をやる。
ランプが、いつもと違う点滅をしている。
電源は生きているが、インターネットランプが赤い。

深呼吸。
一つ。
二つ。
スマホに切り替えて、いろに送る。

「くろ:回線が落ちた。
ランプ赤。
心拍は橙」

「いろ:了解。
まず、電源を“ルーター→ONU”の順に落として、二分置いて“ONU→ルーター”の順に入れ直してください」

二分が長い。
長いけれど、数え方は知っている。
非常灯を見つめて、三十まで三回。
緑は、待つのを助けてくれる。

通電。
ランプが一度全部光り、必要な色だけが残る。
緑、緑、……赤。

「くろ:赤のまま」

「いろ:OK、次の手。
スマホをテザリングにして、ルーターの管理画面を開けますか?
背面に“192.168…”の数字が貼ってあるはずです」

背面の小さなラベル。
指先で触れて、数字を読む。
管理画面に入る。
UIは古いけれど、構造は素直だ。

「くろ:PPPoE未接続。
ユーザー名とパスが飛んでる」

「いろ:停電の後に飛ぶやつですね。
控えありますか」

「くろ:メールを遡る……見つけた」

文字を写す。
指が震えるけれど、誤字はしない。
適用、接続。
数秒。
……赤。

「いろ:DNSを手動にしましょう。
“1.1.1.1/8.8.8.8”を入れて、保存→再起動」

入れる。
保存。
再起動のバーが、ゆっくり満ちる。
非常灯を一度見て、それから画面を見る。
緑、緑、緑――緑。

繋がった。

机に落ちていた肩が、浮力を取り戻す。
背中の骨が、一本ずつ元の位置に戻る感じがした。

「くろ:復旧。
ありがとうございます」

「いろ:よかった。
これで“廊下五歩作戦”の資料も送れます」

「くろ:今朝の箇条書き、完璧だった。
笑った」

「いろ:仕様書は、優しいほど良いので」

ふと、Wi-Fiの一覧を開く。
同じ名前が二つ並んでいる。
“HOME-5G”。
信号の強さが、ほぼ同じ。

「くろ:一覧に“HOME-5G”が二つある。
どっちが俺の?」

「いろ:あ、それ、たぶん私のと透さんのが同名です。
初期設定のまま……。
混線しやすいので、変えましょうか」

「くろ:変える。
“kuro-5G”にする」

「いろ:じゃあ私は“iro-5G”にします」

数十秒後、一覧に“iro-5G”が現れる。
ひらがなじゃなくローマ字の“iro”。
画面の中なのに、部屋が少し明るくなったみたいだ。

「くろ:見えた」

「いろ:こちらも“kuro-5G”、見えました」

同じ回線の、隣の名前。
電波という見えない糸が、壁の両側でさりげなく絡まっている。
その絵を想像して、胸が少しだけ温かい。

「いろ:念のため、ルーターの背面ボタンの写真、ドアの下に置きます。
再起動の順番メモ付き」

「くろ:助かる」

紙の擦れる音。
覗き穴はのぞかない。
のぞかない約束のまま、紙を指で引き込む。
手描きの配線図が、几帳面で可愛い。
角に、小さな絵。
丸い頭のキャラクターが、ヘッドライトをつけて親指を立てている。

「くろ:絵がいる」

「いろ:職業柄、絵で説明する癖が」

看護師見習い。
そうだ、彼女には“説明して安心させる”の言葉が根付いている。
紙の線の一本一本が、それを証明する。

午後、止まっていたアップロードを再開する。
数字が前へ進む。
前へ進む数字は、呼吸を整える。

合間に、彼女から画像がもう一枚。
チェックリストのテンプレート。
“毎週一歩”の欄が、薄いグレーで十個並んでいる。
欄の右端には、小さな星。
達成した日にだけ、星が黄色くなる仕掛けだ。

「いろ:もしよければ、これ共有しませんか。
“互助条約”みたいな。
私も、オフで噛まない練習リストを作ります」

“互助条約”。
言葉が、胸の真ん中に静かに落ちた。
落ちて、丸い波紋が広がる。
誰かと約束を結ぶことが、怖くないと思えたのは久しぶりだ。

「くろ:結ぼう。
“毎週一歩”と“撤退は成功”」

「いろ:署名は、スタンプで」

「くろ:飴の絵にする」

「いろ:私は絆創膏にします」

笑う。
笑って、ふと思い出す。
廊下の小さな四角は、まだそこにある。
彼女の分の、絆創膏。

夕方、アップロードが終わる。
モニターの余熱が、机の木目に薄く残る。
ドアの方へ行って、耳を当てる。
廊下は静かだ。
今なら拾える。
拾えるけれど、今日は拾わない。
“廊下五歩作戦 v0.1”に、拾うタイミングを入れたい。
“成功したら拾う”。
ごほうびを、行動の後ろに置く。

夜。
短い訓練を一戦。
“iro-5G”は安定している。
二人の動きも、昨日より滑らかだ。
撤退が早く、進むときの一歩が小さい。
小ささが勝ちを連れてくるのは、現実と同じだ。

ログアウトの前、彼女から一行。

「いろ:明日、“互助条約”に署名しましょう」

「くろ:了解。
スタンプを磨いておく」

「いろ:では条約第1条、“無理しない”。
第2条、“撤退は成功”。
第3条、“できた一歩を喜ぶ”。
第4条、“声と文字、どちらでもOK”。
第5条、“ごほうびは飴か絆創膏”。」

「くろ:第6条、“名前で呼ぶ練習を、月一で”」

「いろ:……どきどきします」

「くろ:俺も」

画面の光が小さくなっていく。
“iro-5G”という文字列が、夜の中で細い灯りみたいに残る。
同じ回線に、別々の名前。
別々の名前が、同じ回線。
その事実が、妙に心地いい。

寝る前に、付箋を一枚書く。
黄色。

「“互助条約 署名式:あす二十二時”」

ドアの下に、そっと滑らせる。
向こうからも、すぐに同じサイズの紙が滑ってきた。
丸い字。

「“承認。
条約の効力は“毎週一歩”に及ぶ”」

紙を並べて眺める。
二枚の紙は、壁の代わりに橋になる。
橋の上なら、五歩だって渡れる。

非常灯の緑が、まぶたの裏に浮かぶ。
緑の下で、明日の条約に署名する自分を想像する。
その想像は、怖くない。
むしろ、少しだけ待ち遠しい。
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