ひきこもりでも恋をしたい

あき

文字の大きさ
7 / 40

第7話 互助条約

しおりを挟む
朝いちばんで、チェックリストを開いた。
一番上に太字で追加する。

「互助条約 署名式 本日二十二時」

下に小さく、条文の素案を書く。
第1条“無理しない”。
第2条“撤退は成功”。
第3条“できた一歩を喜ぶ”。
第4条“声と文字、どちらでもOK”。
第5条“ごほうびは飴か絆創膏”。
第6条“名前で呼ぶ練習を月一で”。

紙に書くと、言葉が四角く落ち着く。
四角くなった言葉は、怖くない。

十時。
廊下が静かになる時間まで、あと少し。
昨日から気になっている小さな四角――隣のドア前に落ちた絆創膏。
“成功したら拾う”。
作戦を立てる。

スマホが震える。

「いろ:おはようございます。
“廊下五歩作戦 v0.2”です」

新しい箇条書きが落ちてくる。

「・目標:落とし物を“拾って戻る”
・距離:敷居→前へ一歩→しゃがむ→拾う→後退
・目線:非常灯→床→手元
・呼吸:深呼吸×3→拾う瞬間は吐く
・撤退条件:足音/エレベーター音/視線の想像が強くなる
・撤退=成功
・ごほうび:好きなスタンプ1個」

仕様書は、優しいほど良い。
画面の緑の楕円――非常灯を思い出す。
あれは目線の置き場になる。
置き場所があると、心拍も置く場所を見つけやすい。

十一時前。
靴は履かない。
今日は“戻る”が目標だ。
扉の前に立ち、取っ手に指。
深呼吸、一つ、二つ、三つ。

開ける。
廊下の白が細く差し込み、粉塵が踊る。
視線を非常灯へ。
緑が、やわらかい輪郭でこちらを支える。

一歩。
足の裏に廊下の冷たさ。
視線を床へ落とす。
白いスニーカーの横、小さな四角。
しゃがむ。
指先が触れる。
拾う瞬間、息を吐く。

取っ手に手を戻す。
後退。
閉める。

――成功。

扉に背を預けて、肺が仕事を思い出す。
拾った袋を両手で確かめる。
セロファンのすべすべした手触り。
小さな達成感が、掌の温度に混ざる。

スマホ。

「くろ:拾って戻った」

既読がつくまでの一拍。
すぐに返信。

「いろ:大成功です。
“撤退は成功”と“達成のごほうび”、両方クリア」

「くろ:ごほうびに、スタンプを一個」

飴のスタンプを押す。
画面の隅で、飴が転がって光る。

「いろ:可愛い。
では私も――」

絆創膏のスタンプが一つ、並んだ。
二つの小さな絵が、条約の印鑑みたいに見える。

「くろ:この袋、どうする?」

「いろ:そのまま透さんの側で大丈夫です。
“拾えた証拠”として保管しておいてください」

「くろ:承認」

机に小さな透明の立て札を置き、その前に袋を立てかけた。
“拾えた”の証拠は、視界の端で静かに灯る。

昼は作業。
UIテストの報告を三件。
一つずつ“再現手順”を丁寧に書く。
現実の“再現手順”はいつも曖昧だが、今日の俺は朝の再現手順を持っている。
深呼吸→視線→一歩→拾う→戻る。
手順があると、人は前に進める。

夕方。
互助条約の本番に向けて、段取りを整える。
共用アプリの“共同チェックリスト”機能を開き、テンプレートを読み込む。
“毎週一歩”の欄が十個。
右端の星は、まだ全部グレーだ。

二十一時五十五分。
机の上に黄色い付箋を置く。
ペンで丸を描く。
下手な飴の絵。
これが、俺の印鑑になる。

二十二時。
画面の向こうで、彼女も準備を終えたらしい。
共同チェックリストが同時に開かれ、上部に“互助条約”の文字が出る。
コメント欄に、いろの文字。

「いろ:それでは“互助条約 署名式”を始めます」

少し可笑しい。
でも、式がつくと、心が背筋を伸ばす。

「くろ:議長、お願いします」

「いろ:議長、噛まないよう努力します」

画面の左に議題。
第1条“無理しない”。

「いろ:これが最重要です。
どちらか一方が“無理”と書いた瞬間に中止」

「くろ:異議なし」

“承認”のチェックが二つ、緑に変わる。
緑は安心の色だ。

第2条“撤退は成功”。

「いろ:“できなかった”を“撤退に成功した”に言い換えます」

「くろ:ログには“撤退のタイミング”だけ記録。
原因探しより、次の設計」

第3条“できた一歩を喜ぶ”。

「いろ:ごほうびは過剰にならない範囲で。
スタンプ一つ、飴一個、言葉一行」

「くろ:達成条件は具体的に。
“扉十秒”“廊下五歩”“ラウンジ五分”」

第4条“声と文字、どちらでもOK”。

「いろ:今日みたいに、文字でも式はできます」

「くろ:停電の夜は、声でも」

第5条“ごほうびは飴か絆創膏”。

「いろ:飴は“声の練習用”、絆創膏は“触れた指のため”」

「くろ:在庫は都度補充」

第6条“名前で呼ぶ練習を月一で”。

「いろ:月末の土曜、二十二時。
“名前で一言”」

「くろ:緊張の儀式」

画面の下に、俺が追記する。

「第7条“失敗はログ化して次に活かす”
—“うまくいかなかった手順”を残す」

「いろ:いいですね。
第8条“代理実行”
—片方がしんどい日は、もう片方が“声”や“文字”で一歩の代行を提案する」

条文が八つ並ぶ。
並ぶと、約束は形になる。
形になった約束は、支えになる。

「いろ:それでは署名を」

画面の“署名”欄に、彼女の絆創膏スタンプがぽん、と現れた。
少し斜め。
角が可愛い。

俺も、飴の絵を押す。
すこし潰れて、楕円。
それでも、可愛い。

「いろ:可愛い判子が二つ。
承認です」

「くろ:議長、噛まなかった」

「いろ:はい。
内心は噛んでいます」

笑いの文字が行き来する。
笑いが行き来できる場所は、条約の効力が届いている場所だ。

続けて、“今週の一歩”を決める。
候補は“ラウンジ五分”。
共用ラウンジの、奥の壁際。
背中が守られる椅子の列。
非常灯の下。

「いろ:明日十一時五分、どうでしょう」

「くろ:その時間なら静か」

「いろ:チェックリストに“座る前に退路確認”を追加します。
入って右、非常口。
座る場所は、壁側の二番目の椅子」

「くろ:目線は“非常灯→テーブル端→自分の手”」

「いろ:呼吸:深×3→座る瞬間に吐く」

“ラウンジ五分作戦 v0.1”が出来上がる。
文章の隙間に、緑の小さな丸が点々と灯る。
安心の目印。

「いろ:合図は、黄色い付箋に“OK”で」

「くろ:撤退の合図は“×”」

「いろ:×が来たら、私が“代理で一歩”。
廊下まで行って、非常灯の写真を送ります」

「くろ:頼もしい代理」

画面の右下に、いろの手描きアイコンが小さく揺れる。
ヘッドライトをつけた丸い頭のキャラクター。
親指を立てている。

「いろ:では、最後に“今日の一歩”の記録です」

彼女が入力する。

《今日の一歩:落とし物を拾って戻った(成功)》

右端の星が、一つだけ黄色に変わる。
グレーの列に、灯りが一つ。
一つの灯りは、続けるための地図になる。

ふと、扉の方を見る。
拾った袋の透明が、部屋の灯りを静かに返している。
朝の一歩が、夜の条約とつながる。

「いろ:透さん」

唐突に、呼ばれた。
名前の輪郭が、心臓の上を撫でていく。

「はい」

「今日は、“ありがとう”を言わせてください。
私も、誰かと“できた一歩”を喜ぶの、初めてです」

返す言葉を探す時間、数秒。
探している間、胸の奥で何かが静かに溶ける。

「こちらこそ。
条約、結んでくれてありがとう」

「いろ:では、終了の宣言を。
“本日の互助条約署名式を……これで閉じます”」

「くろ:閉廷」

“閉廷”が可笑しくて、二人同時に笑う。
笑いの行内で、緊張が軽くほどける。

式が終わると、部屋はいつもの暗さに戻る。
でも、暗さの温度は違う。
条約の文字が、背中のどこかを温め続ける。

ログアウトの前に、彼女から一行。

「いろ:明日、ラウンジで五分。
非常灯の下で」

「くろ:了解。
退路確認して、座る」

「いろ:×の時は、撤退=成功」

「くろ:条約第2条」

「いろ:では、おやすみなさい」

「くろ:おやすみなさい」

画面を閉じる。
静けさが戻る。
机の上の付箋に、飴の絵が笑っている。
ドアの前の透明な袋が、証拠としてそこにいる。

ベッドに横になり、天井の四角を見上げる。
明日のラウンジ。
五分だけ。
非常灯の下で。
その五分のために、今夜は深呼吸を三つ。

一つ。
二つ。
三つ。

眠りが、約束のようにやって来る。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚活に疲れたアラサーOLの私、癒やし的存在の弟分(高校生)に「もう待てない」と外堀を埋められています ~10年分の執着は、甘すぎて重すぎる~

ダルい
恋愛
「29歳? 子供産むならもっと若い子がよかったな」  中堅企業で働く早川結衣(29)は、婚活市場における年齢の壁と、デリカシーのない男たちにすり減らされる日々を送っていた。  そんな結衣の唯一の癒やしは、マンションの隣に住む幼馴染の高校生・瀬戸湊(16)。  両親が共働きの彼に代わって、幼い頃はお世話をしてあげていた……はずが、いつの間にか立場は逆転。 手料理を振る舞われ、愚痴を聞かれ、マッサージまでされる始末。「湊がお嫁さんならいいのに」なんて冗談を言っていたけれど。 「今の結衣姉が一番綺麗だよ。……早く、誰も手出しできない『おばさん』になってくれればいいのに」  可愛い弟分だと思っていた彼が、時折見せる『オス』の顔。 16歳の高校生と、もうすぐ30歳のアラサー。  13歳差の常識と理性に抗いながら、生意気な年下男子に外堀を埋められていく、甘くて重い現状維持(ラブストーリー)。 「俺が大人になるまで、誰とも結婚しないで」 癒やされたいすべての女性に贈る、最強の年下幼馴染による溺愛包囲網、開始。

記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】

かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。 名前も年齢も住んでた町も覚えてません。 ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。 プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。 小説家になろう様にも公開してます。

嘘コクのゆくえ

キムラましゅろう
恋愛
アニーは奨学金とバイトで稼いだお金で魔法学校に通う苦学生。 生活は困窮、他の学生みたいに愛だの恋だのに現を抜かしている暇などない生活を送っていた。 そんな中、とある教授の研究室で何らかの罰としてアニー=メイスンに告白して来いと教授が学生に命じているのを偶然耳にしてしまう。 アニーとは自分のこと、そして告白するように言われていた学生は密かに思いを寄せる同級生のロンド=ハミルトンで…… 次の日、さっそくその命令に従ってアニーに嘘の告白、嘘コクをしてきたロンドにアニーは…… 完全ご都合主義、ノーリアリティノークオリティのお話です。 誤字脱字が罠のように点在するお話です。菩薩の如き広いお心でお読みいただけますと幸いです。 作者は元サヤハピエン主義を掲げております。 アンチ元サヤの方は回れ右をお勧めいたします。 小説家になろうさんにも時差投稿します。

これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー

小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。 でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。 もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……? 表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。 全年齢作品です。 ベリーズカフェ公開日 2022/09/21 アルファポリス公開日 2025/06/19 作品の無断転載はご遠慮ください。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい

隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫 ◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。 ◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。 ◼︎超高速展開、サクッと読めます。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

御曹司との交際0日婚なんて、聞いてません!──10年の恋に疲れた私が、突然プロポーズされました【完結】

日下奈緒
恋愛
10年付き合った恋人と別れ、恋に臆病になっていた30歳の千尋。そんな彼女に、取引先で出会った御曹司・神楽木律が突然のプロポーズ。「交際0日で結婚しよう」なんて冗談でしょ?──戸惑いながら始まった新婚生活。冷めた仮面夫婦のはずが、律の一途な想いに千尋の心は少しずつほどけていく。

処理中です...