ひきこもりでも恋をしたい

あき

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第13話 鏡の前で

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朝、付箋に二本、線を引いた。
一本目に「駅前自販機 v0.1」。
二本目に「鏡 対策 v0.1」。

“駅前”に出る前に、避けてきた相手と握手する必要がある。
鏡。

メッセージが届く。

「いろ:おはようございます。
“鏡 対策 v0.1”送ります」

箇条書きが落ちてくる。

「・場所:①エレベーター前の鏡(屋内)②一階エントランスのガラス(半屋外)
・目線の置き場:A. 白線(床)→B. 手→C. 額と髪の“境目”→D. 目(1秒だけ)
・時間:A→Dを“0→1→2→1秒”のはしご方式
・呼吸:深×3→“映る”瞬間に吐く
・言葉:『私は“見られている”のでなく“確認している”』を心の中で唱える
・撤退条件:視線の想像が強くなる/心拍が耳に集まる
・撤退=成功
・ごほうび:スタンプ一個」

仕様書は、今日も優しい。
“見られている”を“確認している”に言い換える。
UIで言えば、“検証モード”。
俺は被写体じゃなく、確認者側。

「くろ:承認。
十一時五分」

「いろ:OK。
“駅前自販機 v0.1”の下準備も置きます」

続けて、もう一枚。

「・時間:平日十四時台(人流少)
・ルート:マンション→裏道→駅前広場→自販機→戻る
・装備:小銭orIC/飴/マスク(視線の緩衝材)
・役割:いろ=前を歩いて“風よけ”、透=支払い・ボタン
・撤退=成功」

駅前は、まだ遠い。
でも、遠さは地図の線で柔らぐ。

十一時五分。
黄色い付箋に「OK」と書いてドアの下へ。
丸い字で「OK」が返ってくる。
約束の矢印。

明るい“ガチャ”。
非常灯の緑。
二人で廊下を進み、エレベーター前で止まる。
鏡は、息をしているみたいにそこにある。

まずはA。
白線に視線を置く。
ゴムマットの継ぎ目。
そこに目を“置く”。
“当てる”のではなく、“置く”。

B。
自分の手。
親指の爪。
昨日の五秒の温度が、わずかに残っている。

C。
額と髪の“境目”。
目じゃない。
境界線。
UIで言えば、コンポーネントの外枠。
フォーカスリングが光っても、警告色ではない。
“確認モード”。

D。
目。
一秒だけ。

吸って。
吐く。
一秒。

視線が視線を踏む。
胸の奥が一瞬だけ硬くなる。
でも、戻る。
Cへ戻る。
境目は、やさしい。

「くろ:0→1→2→1秒。
一往復」

「いろ:大成功。
もう一往復、できますか」

できる。
数字は、同じ梯子をもう一度登り、降りる。
二往復。
二回目の方が、硬さが薄い。

「いろ:えらい」

“えらい”の二文字が、鏡の表面に薄く貼り付く。
ラベルみたいに。
注意喚起ではなく、許可。

「いろ:一階のガラスへ」

籠に乗る。
鏡は“置かない”対象。
床→手→非常灯。
数字が下り、扉が開く。

エントランス。
外気の手前。
ガラスが、昼の光を受けて、ばらばらの世界を一枚にまとめている。
外の木、タクシーの黄色、雲。
そして、こちら側の影。

A。
床。
石の目地。

B。
手。
飴の包みを押さえる親指の白さ。

C。
境目。
額と髪。
境界に視線を置くと、鏡の中の自分が“部品”になる。
冷たくはない。
作業に近づく。

D。
目。
一秒。

視線がぶつかる。
胸の奥で、古い音が鳴る。
“見られている”。
その古い音に、上から新しい字幕を重ねる。
“確認している”。
俺は確認者。
映像の責任は、視線の方にある。
俺ではない。

戻る。
Cへ。
二往復。

「くろ:二往復」

「いろ:すごい。
駅前のガラスも、同じ要領で行けます」

数秒、文字が止まる。
彼女の方から、そっと続き。

「いろ:……私も、ひとつ告白を」

「くろ:どうぞ」

「いろ:私、“視線”が少し苦手です。
人と目が合うと、口の中が乾いて、“噛み”が来ます。
実習のプレゼンで“嚥下”を“えんげ”と言うところ、“えんげげ……”ってなって」

脳内で、やさしい笑いが泡になる。
笑いは彼女に向けず、泡を自分の中で浮かせる。
彼女の“噛み”は、ただの失敗ではなく、体の反応だ。
俺の“視線恐怖”と同じ場所の、別の扉。

「いろ:そこから、“目を置く位置”を決める練習をしています。
額と髪の境目、眉の間、鼻筋の上。
“視線を当てないで置く”。
それで、噛みが半分に減りました」

「くろ:……ありがとう。
同じ場所の別の扉、って感じがする」

「いろ:はい。
だから“駅前自販機 v0.1”は、私が“風よけ”をします。
透さんは、ボタンと支払い。
視線は、私の肩へ“置く”でOK」

“置く”。
当てない。
置くだけ。
言葉の重さが、今日の鏡の硬さを少し柔らかくする。

その時、ポケットの中でスマホが小さく震えた。
通知。
タイムラインの外側から。

「証拠、追加。前の会社の人の話」

石のような文。
蛇口を開けない。
開けない手順は、覚えた。
白線へ視線を戻す。

「くろ:通知、来た。
閉じる」

「いろ:代理実行します(条約第8条)。
ログは私が取ります。
“撤退=成功”」

“撤退=成功”。
今日、鏡の表面に貼ったラベルと同じ位置に、言葉が貼られる。

「いろ:最後に、エレベーターの鏡で“一秒×三回”だけ、目に置く練習を。
無理なら“×”を」

「くろ:やる」

籠へ戻る。
鏡がいる。
A→B→C→D。
一秒。
戻る。
もう一度。
そして、三度目。

三度目、鏡の向こうで、白いスニーカーが隣に止まる気配がした。
視線は境目に置いたまま、端で捉える。
同時に、彼女の手が、胸元で小さく握られて開く。
拳→開く。
“よくやった”の合図。

「くろ:三回」

「いろ:大成功」

扉が開き、同じフロアの廊下へ。
非常灯の緑が、昼の白に薄く混ざる。
扉の前。
明るい“ガチャ”。
入る。
閉める。

扉に背を預ける。
スマホ。

「くろ:今日の一歩“鏡 二往復×2+一秒×3”。
“通知を閉じた”。」

共同チェックリストの右端に、星が二つ灯る。
緑の小さな丸が、胸の内側でも灯る。

数分後、彼女から画像。
“駅前自販機 v0.1”の地図。
裏道の角、信号の待ち時間、ベンチの位置。
“退路A/B”の矢印。
“視線の置き場”として、ベンチの脚、街路樹の根元、自販機の価格表示(数字)。
数字は、心拍の速度を整える。

「いろ:明日、十四時。
人が少ないはずです」

「くろ:承認。
小銭、用意する」

「いろ:ICでもOK。
“支払い→押す→受け取る→戻る”。
私が“風よけ”。
“置く”の練習を復習しておきましょう」

「くろ:復習する」

一呼吸置いて、彼女からもう一行。

「いろ:臨時の“名前の練習”を、今日も」

喉が少しだけ甘い。
飴の最後の角。
背中の木が、体温を保っている。

「……いろはさん」

「はい、透さん」

鏡の中で一秒見合ったからか、名前の輪郭がいつもよりくっきり出る。
輪郭は、怖さではなく、形を与える。

ログを閉じる前、タイムラインの外側でまた石が落ちた。
音は聞こえる。
見ない。
蛇口は閉じたまま。

“私は見られているのではなく、確認している”。
鏡の前で唱えた文を、心の中で繰り返す。
明日は“数字を確認して押す”。
駅前の風は、彼女が受ける。
俺は、ジュースのボタンを押す。

机の端に付箋を貼る。
「鏡 二往復×2/一秒×3――完了」
その下に、小さな飴と絆創膏。
そして、花をひとつ描いた。
今日の匂い。
ガラスと、外気と、少しの金属。

目を閉じると、鏡の“境目”がまぶたの裏に現れる。
境目は、二つの世界を分ける線であり、つなぐ線でもある。
線の上に、明日の一歩を置いて眠る。
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