ひきこもりでも恋をしたい

あき

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第14話 駅前自販機 .1

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十四時。
雲は薄く、風はやさしい。
人の流れは、昼休みと夕方のあいだで薄まっている。

ポケットに小銭。
ICカード。
飴を一つ。
マスク。
視線の緩衝材。

メッセージが届く。

「いろ:“駅前自販機 v0.1”開始します」

「くろ:承認。
風よけ、お願いします」

「いろ:任せてください。
視線は、私の右肩へ“置く”でOKです」

明るい“ガチャ”。
非常灯の緑。
二人で廊下を抜けて、エレベーター。
鏡は“置かない”。
床→手→数字。
一階へ。

エントランスのガラスの向こう、昼の白。
外気の味は薄い。
でも、薄さが助けになる。
“濃い匂い”は、心拍を煽るから。

裏道へ出る。
いろはが半歩、前を歩く。
肩の線が、風の盾になる。
俺はその肩の後ろに視線を置く。
置くだけ。
当てない。

裏道は、車の音が遠い。
自転車が二台。
学校帰りの子どもが一人、縄跳びを手にぶら下げて通り過ぎる。
視線は肩へ。
“気づいても、置き場は変えない”。
条約、第1条。
無理しない。

角を二つ曲がる。
駅前の広場が、少し遠くに開けている。
音が変わる。
バスの音。
アナウンスの女性の声が、風に薄く混ざる。
人の密度が一段上がる。

「いろ:ここから“視線のはしご”。
肩→地面の白線→街路樹の根元→自販機の“数字”」

「くろ:了解」

白線。
根元。
数字。
遠目に見える自販機の価格表示が、一定のリズムで胸を撫でる。
120。
140。
160。
数字は、心拍と仲良しだ。

近づくほど、音が厚くなる。
笑い声。
自転車のベル。
靴の底がタイルを叩く音。
いろはの肩へ視線を置き直す。
置き直しは、撤退ではない。
“調整”。

広場の端。
ベンチが一つ空いている。
いろはが短く振り返り、目線をベンチの脚へ送る。
置き場の案内。
俺はうなずく代わりに、足を半歩だけ止める。

「いろ:一回、目を閉じてもいいです。
十まで数えて、開ける」

「くろ:いち」

数える。
声には出さない。
数の間、風の強さが薄くなった気がした。
実際に弱くなったのか、肩が盾になったのかは、どちらでもいい。
十。
目を開ける。

自販機が、近い。
青いライト。
右上にICのマーク。
前には誰もいない。
チャンスは、いつも唐突にやってくる。
唐突は、設計できない。
でも、設計した“置き場”は持ってきた。

「いろ:今なら、行けます。
私が“風よけ”に入ります」

彼女が半歩、さらに前へ。
肩の角度が、自然に自販機へ向きを作る。
俺は、数字→ICマーク→自販機の右下の“返却レバー”へ視線を滑らせる。
レバーは、退路。
退路が見えると、前へ行ける。

ICをかざす位置。
胸の高さ。
右手の親指が少し冷たい。
冷たいと、手は丁寧になる。

「いろ:商品、どれにします?」

「くろ:……いちばん左上。
水」

「いろ:いいですね。
“押す”“受け取る”“戻る”。
三語だけ、胸に置いてください」

押す。
受け取る。
戻る。

胸で三語が整列する。
整列した瞬間、背中の筋肉が一枚ぶんだけ柔らかくなる。

ICをかざす。
ピッ。
明るい音。
敵じゃない音。
数字が“残高”の表示に変わって、また戻る。
戻るのを見るのも、安心だ。

左上のボタンへ、右手を伸ばす。
飴を渡した日の“置く”を思い出す。
押すのではなく、“置いて、押す”。
境目→ボタン→境目。

押した。
白いLEDが、瞬きして、すぐ消えた。
内部で、何かがすべる音。
開口部のフラップが、息を吐くみたいに開く。

「いろ:受け取りへ」

覗く。
ペットボトルの肩。
掴む。
冷たい。
重さは、想像より軽い。
“持てる”。

その瞬間、背後で笑い声が弾けた。
近い。
若い声。
何かの動画の真似か、短い奇声。
心臓が反射で跳ね上がる。
視線の置き場が宙に浮く。

「いろ:肩」

彼女の文字。
すぐに肩へ戻す。
置く。
置き直す。
呼吸、吐く。
数字に戻す。
120。
140。
160。

笑い声は、遠ざかった。
風も、方向を変えた。
自販機の前は、また小さな部屋になる。

「くろ:受け取った。
戻る」

「いろ:はい。
“戻る”のルートは、ベンチ→裏道→マンション」

ペットボトルの冷たさが、掌の震えを小さくする。
戻る。
半歩ずつ。
いろはの肩の後ろに視線を置いたまま。
白線→根元→数字。
数字は、自販機から“歩幅の数”へ変わった。
いち。
に。
さん。

駅の音が薄くなる角まで来て、立ち止まる。
息を吐く。
掌を一度、握って開く。
冷たさが、指の節にマーカーを引いていく。

「いろ:すごい」

「くろ:押した。
受け取った。
戻ってる」

「いろ:三語、完璧でした」

裏道。
小さな影が、足元の白線をまたぐ。
自転車は、相変わらず二台だけ。
廊下より少し広い道。
心拍は、廊下並みに落ちる。

エントランス。
ガラスの向こうに、昼の白。
内部の空気が、体温と混ざる。
エレベーター。
鏡は“置かない”。
床→手→数字。

自分のフロア。
明るい“ガチャ”。
入る。
閉める。

扉に背を預けた瞬間、足の裏が現実の床を思い出した。
外のタイルの硬さと、部屋のフローリングの柔らかさの違い。
違いを言葉にすると、怖さがひとつ名前を得る。

スマホ。

「くろ:今日の一歩“駅前自販機 v0.1”――押した、受け取った、戻った」

すぐに返信。

「いろ:大成功。
“笑い声”で置き場が浮いたとき、戻したのが特に良かったです」

「くろ:肩の“置き場”が助かった」

「いろ:次回は“IC→押す→受け取る”の間に“視線の置き場”を一つ増やします。
—“価格数字”」

共同チェックリストに入力する。
右端の星が、明るく灯る。
星は五つ目。
並ぶと線が濃くなる。
濃い線は、道になる。

ペットボトルのキャップを緩める。
冷たい水が、喉の壁を滑る。
冷たさの“再現手順”は簡単だ。
蓋を開けて、口に当てるだけ。
簡単な手順は、難しい状況で効く。

数分後、彼女から一枚の写真。
ベンチの脚のアップ。
“視線置き場”としての印。
丸い字で“◎”。

「いろ:今日の“置き場”。
記念に」

「くろ:ありがとう」

そこへ、通知。
タイムラインの外側から。

「証拠、まとめた。画像つき」

石のような文。
蛇口を、閉じる。
閉じたまま、深呼吸。
一つ。
二つ。
三つ。

「くろ:通知、閉じた」

「いろ:代理実行中。
“撤退=成功”」

“撤退=成功”。
今日、自販機の前で“肩へ置き直した”動作と同じ場所に貼る。
同じラベル。
同じ効き目。

少し間があって、彼女から一行。

「いろ:臨時の“名前の練習”、いいですか」

「くろ:お願いします」

「……透さん」

名前の輪郭が、部屋の空気を一度だけ丸くする。
丸くなったところへ、俺も落とす。

「いろはさん」

掌に残る冷たさが、声の端まで届く。
冷たい声でも、切れない。

「いろ:明日は“駅前自販機 v0.2”でも、“コンビニ半径 v0.1”でも。
どちらにしますか」

「くろ:……“コンビニ半径 v0.1”。
店員の“袋いりますか?”に、頷けるかの練習」

「いろ:いいですね。
“入口のベル→商品→レジ→頷き→退出”。
作戦、作ります」

机に付箋を貼る。
「駅前自販機 v0.1――完了」
小さな飴と、絆創膏と、花を描く。
今日の匂いは、水と、外気と、金属。

ベッドに横になり、ペットボトルを枕元に置く。
キャップの青が、非常灯の緑と混ざって、静かな色になる。
目を閉じる。
数字の“120”が、まぶたの裏で薄く光った。
数字は、心拍のメトロノーム。
メトロノームは、明日も使える。
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