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ノア王の心裏
権力の障囲 4
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叱責されている様子のナウマン長官に気を使ったような頃合いで、さきほど部屋を出ていった女中が戻ってきた。ほかに数名の女中を引き連れており、いずれも銀製の盆にティーカップを載せている。薄い磁器製のティーカップとソーサーが、ベアトリスたちの前に置かれた。中身はもちろんノアの言っていたスパイスティーだ。色は紅茶と変わらないが、立ちのぼる湯気とともに独特の強い香りが漂ってくる。
「ありがたく、いただきます……」
ひとくちすすると、目のさめるような芳香が鼻に抜ける。そして確かに、左上腕の痛みが引いていくような気がした。ノアも同時にティーカップを口につけている。
「……さて、議論は尽くされたと見ていいだろう。私はこれから別の用があるのでな」
スパイスティーの感想を述べることなく、ノアは椅子から立ち上がった。衣桁にかけてあった豪奢なクロークを女中が取り、ノアの肩にかける。
「ゆっくり味わっていってくれ」
「お心遣い、重ねて感謝いたします」
クロークをなびかせ、足早に出口へ向かって歩いていたノアが、ふと足を止めた。そしてベアトリスに向き直り、ひそめた口調で声をかけた。
「……いまノルデンフェルト邸には、フランシスが来ているらしい。フランシス・エーベルゴードだ」
「フランシス……エーベルゴード様?」
「私の古い友人だ。……なのだが、即位して以来ほとんど会えていない。私がよろしく言っていたと伝えてくれ」
「はい。必ずや」
フランシス、という名前を出したときのノアの表情は、今日もっとも柔らかなものだった。雪解けのような余韻を残しながら、ノア王はブリクストとともに会議室を出ていった。
ベアトリスは宿に戻ると、まずは自室で左腕の包帯を取り替えた。アリサが包帯を外すと、やはり傷口が開き、布地に赤い染みがついている。アルバレスが街で買い求めたという膏薬を傷口に貼り、ふたたび包帯を巻いてから、ふたりは階下のレストランに降りた。
宿泊客と一般客で混み合うレストランの北側には、背の高い衝立で仕切られた一角があり、そこにベアトリスたちの席が用意されている。縁に房飾りのついた黒いテーブルクロスの上にはすでに料理が並べられており、塩漬け豚肉のスープやウサギ肉のトマト煮など、肉料理が中心のようだ。海に面していたフィスカルボと違い、内陸部にあるヘルストランドでは魚料理は少ない。運が良ければヘルストランド南東のガムラスタン湖特産の、ガムラスタラックスと呼ばれる大型サーモンにありつけるらしい、とアルバレスが言った。だがどうやら、いかにベアトリスが上客であっても、魚は料理人の意を酌んではくれなかったようだ。
スヴァルトラスト・ヴァードシュースと比べるとやや味の落ちる料理を口にしながらも、ベアトリスは上機嫌だった。アルバレスはその様子を不思議そうに眺めている。
「その様子だと、協議はうまくまとまったようですね……?」
確認するようにアルバレスが言う。ベアトリスとアリサが一瞬、楽しげに目配せした。
「そりゃもう」
「まあ、前々から根回しはしていたのだからね」
「なんでしょう、薄気味わるい」
「今回ノア様が、主公様にずいぶん好意的だったんですよ」
「ほう、それは、おめでたいことで……」
「でしょう! お茶を出してくれたし、王家の馬車を偉い人を説得してまで貸してくれたし!」
アリサが先走り気味に、内容をやや誇張して、会議室での出来事を発表する。アルバレスは困ったように小さなため息をついた。
「アッペルトフトの反乱以降、主公様はリードホルム王家にとって必要欠くべからざる存在ですよ。厚遇して当然です」
「……そうね」
冷や水を浴びせるようなアルバレスの言葉に、ベアトリスは不機嫌そうに同意した。
「ありがたく、いただきます……」
ひとくちすすると、目のさめるような芳香が鼻に抜ける。そして確かに、左上腕の痛みが引いていくような気がした。ノアも同時にティーカップを口につけている。
「……さて、議論は尽くされたと見ていいだろう。私はこれから別の用があるのでな」
スパイスティーの感想を述べることなく、ノアは椅子から立ち上がった。衣桁にかけてあった豪奢なクロークを女中が取り、ノアの肩にかける。
「ゆっくり味わっていってくれ」
「お心遣い、重ねて感謝いたします」
クロークをなびかせ、足早に出口へ向かって歩いていたノアが、ふと足を止めた。そしてベアトリスに向き直り、ひそめた口調で声をかけた。
「……いまノルデンフェルト邸には、フランシスが来ているらしい。フランシス・エーベルゴードだ」
「フランシス……エーベルゴード様?」
「私の古い友人だ。……なのだが、即位して以来ほとんど会えていない。私がよろしく言っていたと伝えてくれ」
「はい。必ずや」
フランシス、という名前を出したときのノアの表情は、今日もっとも柔らかなものだった。雪解けのような余韻を残しながら、ノア王はブリクストとともに会議室を出ていった。
ベアトリスは宿に戻ると、まずは自室で左腕の包帯を取り替えた。アリサが包帯を外すと、やはり傷口が開き、布地に赤い染みがついている。アルバレスが街で買い求めたという膏薬を傷口に貼り、ふたたび包帯を巻いてから、ふたりは階下のレストランに降りた。
宿泊客と一般客で混み合うレストランの北側には、背の高い衝立で仕切られた一角があり、そこにベアトリスたちの席が用意されている。縁に房飾りのついた黒いテーブルクロスの上にはすでに料理が並べられており、塩漬け豚肉のスープやウサギ肉のトマト煮など、肉料理が中心のようだ。海に面していたフィスカルボと違い、内陸部にあるヘルストランドでは魚料理は少ない。運が良ければヘルストランド南東のガムラスタン湖特産の、ガムラスタラックスと呼ばれる大型サーモンにありつけるらしい、とアルバレスが言った。だがどうやら、いかにベアトリスが上客であっても、魚は料理人の意を酌んではくれなかったようだ。
スヴァルトラスト・ヴァードシュースと比べるとやや味の落ちる料理を口にしながらも、ベアトリスは上機嫌だった。アルバレスはその様子を不思議そうに眺めている。
「その様子だと、協議はうまくまとまったようですね……?」
確認するようにアルバレスが言う。ベアトリスとアリサが一瞬、楽しげに目配せした。
「そりゃもう」
「まあ、前々から根回しはしていたのだからね」
「なんでしょう、薄気味わるい」
「今回ノア様が、主公様にずいぶん好意的だったんですよ」
「ほう、それは、おめでたいことで……」
「でしょう! お茶を出してくれたし、王家の馬車を偉い人を説得してまで貸してくれたし!」
アリサが先走り気味に、内容をやや誇張して、会議室での出来事を発表する。アルバレスは困ったように小さなため息をついた。
「アッペルトフトの反乱以降、主公様はリードホルム王家にとって必要欠くべからざる存在ですよ。厚遇して当然です」
「……そうね」
冷や水を浴びせるようなアルバレスの言葉に、ベアトリスは不機嫌そうに同意した。
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