260 / 281
簒奪女王
王城の炎 4
しおりを挟む
ベアトリスは寝間着のまま部屋の外に躍り出た。回廊の手すりから身を乗り出すと、兵士らしい者が木桶などを抱え、早足で中庭を行き来する姿が散見される。兵士たちの行き先、二階の一角がとくに騒がしい。
ここからは見えない炎に照らされたように、ベアトリスの菫青石の瞳が輝きを帯びた。
城内の様子を認めたベアトリスは、すぐさま部屋に舞い戻った。手近にあった髪留めで後ろ髪を束ね、その上からガウンを羽織る。そしてテーブルの上の水差しを手に取り、湯浴みをするようにその身に水を浴びせかけた。
「主公様、何を!?」
「ノア様の身になにかあってからでは遅いのよ」
「行かれるのですか……」
「背中を頼むわよ、オラシオ!」
ベアトリスはベッドのそばの引き出しを開け、短銃を手に取った。
有無を言わさぬ様相のベアトリスに、アルバレスは諦めたように立ち上がった。ベアトリスが行って解決するものでもないが、だからと言って、止めても聞き入れる情態ではない。部屋の扉を開けっ放しにしたまま、ベアトリスは駆け出した。
三日前の――エイデシュテットの名を出したがために中断してしまった――夕食以来、ベアトリスとノアの間柄はまだ修復されていなかった。二人とも政務に忙殺され、その忙しさが気まずさを押し流し、ついに今日の事態を迎えてしまっている。その間は顔を合わせても、ベアトリスの側だけが妙に気おくれして、よそよそしいあいさつをするばかりだった。
このまま永遠に別れるなんて、絶対に嫌。――その一心が、今のベアトリスを突き動かしていた。
ノア王の私室の周りには火の手は迫っていなかった。この一帯はひときわ警備が厳重で、ラーシュ率いる後宮の徒党も、油を撒くために近づくことができなかったのだ。
今、王の私室の扉を守っているのは、たった二人の衛兵だけだった。火に囲まれたこの状況でさらなる襲撃に備えるより、安全確認と避難路確保を優先して衛兵たちは走り回っていたのだ。そうした警備の裏をかいて、ラーシュたちはノアにもうすぐ手が届くところまで迫っていた。
暗闇の中から浮き上がるように姿を現したラーシュが、わざとらしく衛兵に問うた。
「ここが、ノア様の居室でございますね?」
「なんだお前らは!」
背後に控える女たちが持つ松明の明かりで、ラーシュの顔は逆光に翳っている。扉の両側に立つ二人の衛兵は、立入禁止だとばかりに互いの槍を交差させた。
「何者だと聞いている!」
ラーシュは返答せず、ただ人形のような顔を歪めて不気味な微笑みを浮かべている。衛兵たちにはその口元だけが見えていた。ラーシュはこの衛兵たちの顔を知っており、多少の立ち話をしたこともある。だがそんなささやかな誼も、ラーシュの心に憐憫の情を呼び起こすことはなかった。
「……さあ、やれ!」
ラーシュがそう呼びかけると、松明のさらに後ろにいた女が衛兵に水差しの瓶を投げつけた。衛兵は前腕を振って水差しを払いのけたが、薄い陶器の瓶が割れ、中の液体を頭からかぶることになった。床に撒かれていたのと同じ、亜麻仁油だ。
「なんのつもりだ!?」
それに続いて、油まみれの衛兵に松明が投げつけられた。
燃え移った火が瞬く間に衛兵の身体を包み込む。二人の衛兵は悲鳴と呼ぶのも生やさしいほどの叫び声を上げて、しばらく床を転げまわっていた。
ここからは見えない炎に照らされたように、ベアトリスの菫青石の瞳が輝きを帯びた。
城内の様子を認めたベアトリスは、すぐさま部屋に舞い戻った。手近にあった髪留めで後ろ髪を束ね、その上からガウンを羽織る。そしてテーブルの上の水差しを手に取り、湯浴みをするようにその身に水を浴びせかけた。
「主公様、何を!?」
「ノア様の身になにかあってからでは遅いのよ」
「行かれるのですか……」
「背中を頼むわよ、オラシオ!」
ベアトリスはベッドのそばの引き出しを開け、短銃を手に取った。
有無を言わさぬ様相のベアトリスに、アルバレスは諦めたように立ち上がった。ベアトリスが行って解決するものでもないが、だからと言って、止めても聞き入れる情態ではない。部屋の扉を開けっ放しにしたまま、ベアトリスは駆け出した。
三日前の――エイデシュテットの名を出したがために中断してしまった――夕食以来、ベアトリスとノアの間柄はまだ修復されていなかった。二人とも政務に忙殺され、その忙しさが気まずさを押し流し、ついに今日の事態を迎えてしまっている。その間は顔を合わせても、ベアトリスの側だけが妙に気おくれして、よそよそしいあいさつをするばかりだった。
このまま永遠に別れるなんて、絶対に嫌。――その一心が、今のベアトリスを突き動かしていた。
ノア王の私室の周りには火の手は迫っていなかった。この一帯はひときわ警備が厳重で、ラーシュ率いる後宮の徒党も、油を撒くために近づくことができなかったのだ。
今、王の私室の扉を守っているのは、たった二人の衛兵だけだった。火に囲まれたこの状況でさらなる襲撃に備えるより、安全確認と避難路確保を優先して衛兵たちは走り回っていたのだ。そうした警備の裏をかいて、ラーシュたちはノアにもうすぐ手が届くところまで迫っていた。
暗闇の中から浮き上がるように姿を現したラーシュが、わざとらしく衛兵に問うた。
「ここが、ノア様の居室でございますね?」
「なんだお前らは!」
背後に控える女たちが持つ松明の明かりで、ラーシュの顔は逆光に翳っている。扉の両側に立つ二人の衛兵は、立入禁止だとばかりに互いの槍を交差させた。
「何者だと聞いている!」
ラーシュは返答せず、ただ人形のような顔を歪めて不気味な微笑みを浮かべている。衛兵たちにはその口元だけが見えていた。ラーシュはこの衛兵たちの顔を知っており、多少の立ち話をしたこともある。だがそんなささやかな誼も、ラーシュの心に憐憫の情を呼び起こすことはなかった。
「……さあ、やれ!」
ラーシュがそう呼びかけると、松明のさらに後ろにいた女が衛兵に水差しの瓶を投げつけた。衛兵は前腕を振って水差しを払いのけたが、薄い陶器の瓶が割れ、中の液体を頭からかぶることになった。床に撒かれていたのと同じ、亜麻仁油だ。
「なんのつもりだ!?」
それに続いて、油まみれの衛兵に松明が投げつけられた。
燃え移った火が瞬く間に衛兵の身体を包み込む。二人の衛兵は悲鳴と呼ぶのも生やさしいほどの叫び声を上げて、しばらく床を転げまわっていた。
0
あなたにおすすめの小説
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない
朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。
十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。
er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——
【完結】番である私の旦那様
桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族!
黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。
バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。
オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。
気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。
でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!)
大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです!
神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。
前半は転移する前の私生活から始まります。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる