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絶望の檻

17 再会と別れ 2

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「奪い取ったものをどうしようと、所有者の自由だ」
「やめろ!」
 リースベットはククリナイフオスカでアウグスティンの短剣を叩き落とした。女は悲鳴を上げて逃げようとするが、足かせのせいでうまく歩けず床に倒れ込む。抜け千切れた女の髪が枯れ葉のように床に落ちた。
 ――なぜだ? どうしてあたしは、こんな奴を殺さない? この城で過ごした記憶でも体の片隅に残ってるのか? だがこいつを越えなきゃ、あたしは、また……。
 手首を撫でながら前に進み出るアウグスティンに対し、リースベットは同じだけ後ずさった。
「無礼者め、貴様には俺に指図する権利などない。生まれたときからな。それに、今の貴様の命より、その剣のほうがいくらか価値があるものを」
「価値がねえのはてめえも一緒だろ。びへつらってる奴らにしたって、てめえ自身じゃなく地位に対して頭下げてんだ」
「……父上やエイデシュテットの奴でさえ、内心でこの俺を馬鹿にしていることなど気付いておるわ。貴様とて、この城にいた頃からさげすんでおったろう?」
「いちいち覚えちゃいねえが、そうだったことは間違いねえな」
 リースベットの胸底には、様々な感情が渦巻いていた。地鳴りのような恐怖や怒りははっきりと意識できているが、また別の違和感も覚えている。その原因はアウグスティンの言葉の端々に見え隠れする、自虐や憎しみだ。――この男は誰からも愛されず、何者をも愛さずに生きている。
「父もあの無関心と耄碌もうろくぶりでその実、侮れんほどの鬼畜よ。実弟のエーギル叔父暗殺からはじめ、俺もノアも保身のための道具にすぎん」
「その鬱憤うっぷんを無抵抗な囚人で晴らしてるわけか。リードホルムの王位継承者が、聞いて呆れる器の小ささだぜ」
「黙れ」
「あいつがやってたから俺もやる、ってガキの屁理屈だな」
「黙れ! ……俺もそのように生きてやるのだ。そして力を得て、まずは玉座のじじいを処分してくれる。その次はノア、いずれはエイデシュテットも用済みになろう。排撃はいげきは永遠に続くのだ。俺自身だけではない、すべての人間が用済みになるまでな」
「お前は……」
 リースベットは言葉を失った。この男は逃れがたい虚無きょむに囚われている。底なしの虚無は関わる者すべてを吸い込み、また次の不幸な誰かに取り憑く悪霊だ。
 この縛鎖ばくさはアウグスティンの父ヴィルヘルム、その何世代も前から、ずっとリードホルムを縛ってきた。これを終わらせるには力が必要だ。敵対者を打ち倒す力でなく、断絶した他者に橋をける力が。
 アウグスティンはテーブルの上の瓶を鷲掴わしづかみにし、浴びるようにワインを飲んだ。一息ついて、うめき声を上げながら床に落ちていた銀の短剣を拾い上げると、思い出したようにリースベットに向き直った。囚人の女は部屋の隅で怯えている。
「何だ、まだいたのか。言ったろう、貴様はもう用済みだ」
 うつろな目のアウグスティンにリースベットは返答せず、陰惨いんさんな顔で、かつて兄だった男をただ見つめている。
「そうだ、落ちぶれたとは言えリードホルムの血に連なる者。エーギル叔父にならって貴様の目玉もくり抜いてやろう」
 短剣を逆手に持ち、ふらつく足取りで近寄ってくるアウグスティンの悪気を、リースベットは真正面から受け止めている。彼女はもう下がらない。
「痛みから逃れるための酒で、自分も斬られりゃ死ぬ人間だ、ってことさえ忘れちまったか……」
「俺は英雄王アウグスティン一世だ。下賤げせんの者どもと一緒にするな」
「ひどい悪夢の中にいるな。そろそろ覚めてもいい頃だ」
 アウグスティンは右手に持った剣をリースベットの顔に向けたが、それを突き出すよりも先にオスカが閃き、彼の頭と胴体を切り離した。
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