46 / 56
第39話 取引成立-1
しおりを挟む
カウンターテーブルの上に、様々なお酒が並べられ、華やかな家具と、高価な白熱電球のシャンデリアが、天井から贅沢にぶら下がっている。昨日通された部屋とは違うようだ。ディナーの前後にお酒を飲み、来客と語らうために作られた部屋だろうと、ミュリエルは推察した。
貴族の邸宅には、様々な用途の部屋が、いくつも存在する。来客に応対するドローイングルーム、客と語らうためのパーラールーム、夫人がアフタヌーンティーを開くサロン、夕食のためのダイニングルーム、朝食のためのブレックファーストルーム、家族が語らうシッティングルームなどなど、とにかく無駄な部屋が多い。
ブリヨン侯爵邸も迷いそうなほど部屋が多く、サロンが邸内に3部屋、屋外のガーデンハウスに2部屋もあるらしい——ミュリエルはどの部屋も、足を踏み入れたことが無い。ミュリエルに許されていたのは、自室と図書室だけ——なぜそんなに部屋が必要なのか、ミュリエルには理解ができなかった。
フィンとギャスパーはスコッチを、ミュリエルとマドゥレーヌは紅茶を飲んだ。
徐にギャスパーが、使用人を手振りで下がらせた。
「それで、昨日のことなんだが、本当に出来るのですか?」
「試したことはありませんが、理論上は可能です」
「社交界で噂になっている、効果覿面のポーションを売り出している謎の人物、ZEROは、あなたなのですかな?」ギャスパーは訝しそうにミュリエルを見た。
警戒したのかフィンが身じろぎしたので、ミュリエルはちらりとフィンを見て、大丈夫だと微かに頷いた。
「何のことでしょう?貴族ではない私には、社交界のことなど、知る由もありません」
「なるほど、まあ良いでしょう。名前を偽っているということは、知られたくないということなのでしょうから、追求はいたしませんよ。しかし、マドゥレーヌは、あなたの婚約者を奪った女だ。それなのに、娘を助けると言う。その目的は答えてもらいますよ」
「情報」
「お嬢さん、情報というのは、そう簡単に渡せる物ではないのですよ」
ミュリエルを小娘だと軽んじ、鼻であしらい、有利な条件を引き出そうとしているのだろうことが、態度に現れていた。
ふーん。先ほどまでの媚びるような態度は、私をいい気分にさせておいて、より良い条件で取引しようということなのねと、ミュリエルは理解した。
この時点で、自分の方が、優位な立場にあると思っているのだろうから、早々に鼻っ柱を折ってやろうとミュリエルは考えた。
「フェリシアン・オートゥイユ男爵、ペルティエ、密輸船」ギャスパーの顔色がさっと変わった。「ペルティエ男爵は、あなたの弟様ですね、私は密輸船について見逃すつもりはありません。それには、カルヴァン侯への私怨も含まれています」
「ブリヨン侯爵を、国に売るおつもりかな」
「そうです。このことを、アンドレ王子殿下が知ったら、どうされるでしょうか、カルヴァンは元婚約者、オートゥイユは元恋人、自分は無関係だと証明するため、捜査に積極的になるでしょうね。その時、あなたは、どちらに連座したいですか?」
「その口ぶりだと、アンドレ王子は、まだ何も知らないのでは?」
「私たちを始末しようとしても無駄ですよ、オートゥイユ子爵。私は命を落とす時のことを想定せずに、ここへ来るほど、愚かではありません」
「手は打ってあるということですか、ならば、それらも始末すれば、済むのではないですかな?」
「オートゥイユ子爵は、どのようにしてフランクール全土に広がる、私のスパイたちを探し出すおつもりですか?私がマドゥレーヌ嬢の秘密を知り得たのは、どうしてだと思いますか?」
「この屋敷にスパイを潜り込ませているのか!」ギャスパーはカッとなり声を荒げた。
フィンは咄嗟にミュリエルを庇うよう手を前に出したが、ミュリエルはその手を下ろすよう促した。
今すぐここからミュリエルを連れ出したかったが、そうすれば、ミュリエルは怒るだろう。見守るしかないことに、焦ったさを感じたが、ミュリエルを信じることが、支えになるのだと、フィンは自分に言い聞かせた。
「お気づきにならなかったでしょう?彼らは優秀ですからね、誰にも気づかれず聞き耳を立てることができます。あなたの今朝の朝食も、知っていますよ。バターとジャムをたっぷり塗ったタルティーヌが、お好きのようですね」
形勢が変わったとギャスパーは感じ、苦い顔をした。「——君の側につけば、私の罪は問われないということか?」
甘いタルティーヌが好物なのは、屋敷の誰もが知っている。しかし、この少女を侮ってはいけないと、ギャスパーの直感が告げている。
救国の乙女は、今や全国民を味方につけたも同然だ。彼女を敵に回すことは、即ち全国民を敵に回すということ。それに、若くても、あのカルヴァンの娘だ。慈愛の天使と呼ばれているが、それは表の顔で、冷酷にもなれるのだろう。敵に回すのは、得策ではないと判断した。
「いいえ、罪を問うのは、私ではありません。裁判所です。ただし、過去を清算する時間は、あげられるでしょうね。死刑台に連座しなくて済むかもしれませんよ。それどころか、悪事を暴いたことで、国から褒賞が出るかもしれませんね。それに、マドゥレーヌ嬢がアンドレ王子殿下に近づいたのは、この訴えの為だったのだろうと、皆が思うでしょう」
「娘の名誉も守れるということか」
「はい、私には、この提案を断る理由が、ないように思えますが、いかがですか?」ミュリエルは、ギャスパーを視線で捉え、圧力をかけた。
ギャスパーの兄であるトリスタンが、トゥルニエ伯爵の爵位を継いでいるが、奴を引きずり下ろすことができれば、自分がトゥルニエ伯爵になれると、ギャスパーは考えた。
「良いでしょう。私が損をすることもないだろうし、そちら側につくと約束しましょう」
「それでは、まず診察をしなければなりませんから、マドゥレーヌ子爵令嬢、お部屋に案内していただけますか?」フィンがミュリエルの手を取り、心配そうに見つめてきた。「大丈夫です。少しだけ待っていてください」
フィンとギャスパーを部屋に残して、ミュリエルはマドゥレーヌに案内され、マドゥレーヌのベッドルームに向かった。
ずっと押し黙っていたマドゥレーヌが、部屋に入るなり言った。「馬鹿だと思ってるんでしょう?処女を捧げた相手に逃げられて、アンドレにも捨てられて」
「馬鹿だなんて思っていません。恋をしたのでしょう?」
「そうよ、弟のチューターだった。賢くて物知りで、落ち着いた大人の男性。すぐに好きになったわ。結婚しようって言ってくれたの、だから体を捧げた。それなのに、私が妊娠すると怖気付いて逃げたのよ、あのクズは私を置いて逃げたのよ!」マドゥレーヌはクッションや花瓶を、手当たり次第床に叩きつけた。
「アンドレ王子殿下と一緒にいるあなたは、とても楽しそうでした。表情豊かで、可愛いらしい人だと思いました。きっと本来のあなたは、そちらなのでしょう。愛を求めすぎないで、愛を与えることにしてみてはどうでしょうか。与えた物は、いずれ自分に返ってきます」
「あなたはフィンって人と、恋仲なのでしょう?随分と大事にされているみたいじゃない。それで勝った気にでもなっているのかしら、伯爵家の5男だっていうじゃない、何者にもなれない男に好かれてるからって、勝ち誇った顔しないでよ」マドゥレーヌは嘲笑うように言った。
なぜ勝負の話になるのか、ミュリエルにはまるで理解ができなかった。ミュリエルはマドゥレーヌと勝負したつもりはなく、きょとんとした。
「勝ったつもりはありませんが、幸運なことに、フィンさんからは、過分なお心を頂いています。私はずっと、カルヴァン邸で息を潜めて生きてきました。父とは話をしたこともなく、継母からは暴力を振るわれ、家を出ることだけを考えていました」
「そうなの、気の毒にね。だけど、私には関係ない話だわ」ミュリエルが言い返してくるだろうと思い、身構えていたマドゥレーヌは、唐突な身の上話に、毒気を抜かれた。
「私を可愛い娘だと言ってくれるご夫婦に出会い、助けてもらいました。愛とは何かを教えてくれたのです。私は彼らの愛に救われました。傷ついた心を治せるのは、家族や友人だけだそうです。助けて欲しいと、言ってみてはどうですか?——横になってください、診察します」
ミュリエルはマドゥレーヌの体に、マジックワンドを当てた。
「今は幸せ?」
「はい、大切だと言ってくれる家族と、力になってくれる友人たちがいます。とても幸せです」
「フィンさんと結婚するの?」
「——まだ分かりません。私に妻が務まるかどうかも」
「あなたでも顔が赤くなるのね、鉄仮面みたいな女だと思ってたけど、違うんだ。ねえ、アンドレ様のことは、どう思っていたの?」
「アンドレ王子殿下は、優しい方です」
「それだけ?好きとか思わなかったの?剣術に優れてて、男らしくて、素敵じゃない」
「眉目秀麗で、顔立ちは良いですね」
「それだけなんだ、なんだかアンドレ様が気の毒。でも、自業自得よね」何のことか分からないといった顔をしたミュリエルを、マドゥレーヌは笑った。「気づいてないのね、アンドレ様の気持ちに。気にしないで、ちょっと独り言を言っただけよ」
教えてやる義理もないし、あんなにも甘い視線で見つめてきたくせに、あっという間にミュリエルに乗り換えたアンドレに腹も立つ、アンドレがミュリエルに、恋愛感情を抱いていることは、黙っておくことにした。
ミュリエルとフィンの結婚式を、悔しそうに眺めるアンドレを想像したら、マドゥレーヌの心が少しばかり晴れた。
「体は健康なようです。強力なポーションですから、飲めば2、3日寝込むことになると思いますが、丁度良いでしょう。私が診察した言い訳ができます。使用人の皆さんは、このことを知らないのでしょう?」
使用人たちが知っていれば、噂はあっという間に広がり、パトリーまで届いていただろうとミュリエルは思った。
「当然よ、執事しか知らないわ。子供は修道院で産んだの。娘は父の落とし子ってことになってる」
「では、晩餐の最中、気分を悪くしたマドゥレーヌ子爵令嬢を、私が診察したことにいたしましょう」ミュリエルはマドゥレーヌに、小瓶を差し出した。
「それを飲むと痛むの?」
「失った物を再生するのですから、激しい痛みに襲われると思います」
「でも、これで私も、普通の結婚ができるのよね」
「幸せな結婚ができます」
「ありがとう——あなたの希望もあったとは言え、婚約者を奪ってごめんなさい。私を捨てた男を見返してやりたかったの、王子の妃になれば、見返せると思った私が馬鹿だったわ。おかげで王子に捨てられた女になっちゃった」
「家族は見捨てないものです。親を誰よりも愛せるのは子だと思うのです。妹を可愛がったところで、誰が疑問に思うでしょうか、あなたの心に傷を残してしまった恋だけれど、生まれてきた子供は、あなたの血を分けた子です。それに、クズの父親がいなくても、あなたも子も幸せだと言ってやれば、復讐になるのではないでしょうか」
「ええ、そうね」マドゥレーヌの頬を涙が伝った。「あなたの口から、クズなんて言葉が聞けるとは思わなかったわ。私のことは、畏まって子爵令嬢と呼ばなくていいわよ」
マドゥレーヌはミュリエルから小瓶を受け取り、一息に飲み干した。
「私は下がらせていただきます。ゆっくり眠ってください」
貴族の邸宅には、様々な用途の部屋が、いくつも存在する。来客に応対するドローイングルーム、客と語らうためのパーラールーム、夫人がアフタヌーンティーを開くサロン、夕食のためのダイニングルーム、朝食のためのブレックファーストルーム、家族が語らうシッティングルームなどなど、とにかく無駄な部屋が多い。
ブリヨン侯爵邸も迷いそうなほど部屋が多く、サロンが邸内に3部屋、屋外のガーデンハウスに2部屋もあるらしい——ミュリエルはどの部屋も、足を踏み入れたことが無い。ミュリエルに許されていたのは、自室と図書室だけ——なぜそんなに部屋が必要なのか、ミュリエルには理解ができなかった。
フィンとギャスパーはスコッチを、ミュリエルとマドゥレーヌは紅茶を飲んだ。
徐にギャスパーが、使用人を手振りで下がらせた。
「それで、昨日のことなんだが、本当に出来るのですか?」
「試したことはありませんが、理論上は可能です」
「社交界で噂になっている、効果覿面のポーションを売り出している謎の人物、ZEROは、あなたなのですかな?」ギャスパーは訝しそうにミュリエルを見た。
警戒したのかフィンが身じろぎしたので、ミュリエルはちらりとフィンを見て、大丈夫だと微かに頷いた。
「何のことでしょう?貴族ではない私には、社交界のことなど、知る由もありません」
「なるほど、まあ良いでしょう。名前を偽っているということは、知られたくないということなのでしょうから、追求はいたしませんよ。しかし、マドゥレーヌは、あなたの婚約者を奪った女だ。それなのに、娘を助けると言う。その目的は答えてもらいますよ」
「情報」
「お嬢さん、情報というのは、そう簡単に渡せる物ではないのですよ」
ミュリエルを小娘だと軽んじ、鼻であしらい、有利な条件を引き出そうとしているのだろうことが、態度に現れていた。
ふーん。先ほどまでの媚びるような態度は、私をいい気分にさせておいて、より良い条件で取引しようということなのねと、ミュリエルは理解した。
この時点で、自分の方が、優位な立場にあると思っているのだろうから、早々に鼻っ柱を折ってやろうとミュリエルは考えた。
「フェリシアン・オートゥイユ男爵、ペルティエ、密輸船」ギャスパーの顔色がさっと変わった。「ペルティエ男爵は、あなたの弟様ですね、私は密輸船について見逃すつもりはありません。それには、カルヴァン侯への私怨も含まれています」
「ブリヨン侯爵を、国に売るおつもりかな」
「そうです。このことを、アンドレ王子殿下が知ったら、どうされるでしょうか、カルヴァンは元婚約者、オートゥイユは元恋人、自分は無関係だと証明するため、捜査に積極的になるでしょうね。その時、あなたは、どちらに連座したいですか?」
「その口ぶりだと、アンドレ王子は、まだ何も知らないのでは?」
「私たちを始末しようとしても無駄ですよ、オートゥイユ子爵。私は命を落とす時のことを想定せずに、ここへ来るほど、愚かではありません」
「手は打ってあるということですか、ならば、それらも始末すれば、済むのではないですかな?」
「オートゥイユ子爵は、どのようにしてフランクール全土に広がる、私のスパイたちを探し出すおつもりですか?私がマドゥレーヌ嬢の秘密を知り得たのは、どうしてだと思いますか?」
「この屋敷にスパイを潜り込ませているのか!」ギャスパーはカッとなり声を荒げた。
フィンは咄嗟にミュリエルを庇うよう手を前に出したが、ミュリエルはその手を下ろすよう促した。
今すぐここからミュリエルを連れ出したかったが、そうすれば、ミュリエルは怒るだろう。見守るしかないことに、焦ったさを感じたが、ミュリエルを信じることが、支えになるのだと、フィンは自分に言い聞かせた。
「お気づきにならなかったでしょう?彼らは優秀ですからね、誰にも気づかれず聞き耳を立てることができます。あなたの今朝の朝食も、知っていますよ。バターとジャムをたっぷり塗ったタルティーヌが、お好きのようですね」
形勢が変わったとギャスパーは感じ、苦い顔をした。「——君の側につけば、私の罪は問われないということか?」
甘いタルティーヌが好物なのは、屋敷の誰もが知っている。しかし、この少女を侮ってはいけないと、ギャスパーの直感が告げている。
救国の乙女は、今や全国民を味方につけたも同然だ。彼女を敵に回すことは、即ち全国民を敵に回すということ。それに、若くても、あのカルヴァンの娘だ。慈愛の天使と呼ばれているが、それは表の顔で、冷酷にもなれるのだろう。敵に回すのは、得策ではないと判断した。
「いいえ、罪を問うのは、私ではありません。裁判所です。ただし、過去を清算する時間は、あげられるでしょうね。死刑台に連座しなくて済むかもしれませんよ。それどころか、悪事を暴いたことで、国から褒賞が出るかもしれませんね。それに、マドゥレーヌ嬢がアンドレ王子殿下に近づいたのは、この訴えの為だったのだろうと、皆が思うでしょう」
「娘の名誉も守れるということか」
「はい、私には、この提案を断る理由が、ないように思えますが、いかがですか?」ミュリエルは、ギャスパーを視線で捉え、圧力をかけた。
ギャスパーの兄であるトリスタンが、トゥルニエ伯爵の爵位を継いでいるが、奴を引きずり下ろすことができれば、自分がトゥルニエ伯爵になれると、ギャスパーは考えた。
「良いでしょう。私が損をすることもないだろうし、そちら側につくと約束しましょう」
「それでは、まず診察をしなければなりませんから、マドゥレーヌ子爵令嬢、お部屋に案内していただけますか?」フィンがミュリエルの手を取り、心配そうに見つめてきた。「大丈夫です。少しだけ待っていてください」
フィンとギャスパーを部屋に残して、ミュリエルはマドゥレーヌに案内され、マドゥレーヌのベッドルームに向かった。
ずっと押し黙っていたマドゥレーヌが、部屋に入るなり言った。「馬鹿だと思ってるんでしょう?処女を捧げた相手に逃げられて、アンドレにも捨てられて」
「馬鹿だなんて思っていません。恋をしたのでしょう?」
「そうよ、弟のチューターだった。賢くて物知りで、落ち着いた大人の男性。すぐに好きになったわ。結婚しようって言ってくれたの、だから体を捧げた。それなのに、私が妊娠すると怖気付いて逃げたのよ、あのクズは私を置いて逃げたのよ!」マドゥレーヌはクッションや花瓶を、手当たり次第床に叩きつけた。
「アンドレ王子殿下と一緒にいるあなたは、とても楽しそうでした。表情豊かで、可愛いらしい人だと思いました。きっと本来のあなたは、そちらなのでしょう。愛を求めすぎないで、愛を与えることにしてみてはどうでしょうか。与えた物は、いずれ自分に返ってきます」
「あなたはフィンって人と、恋仲なのでしょう?随分と大事にされているみたいじゃない。それで勝った気にでもなっているのかしら、伯爵家の5男だっていうじゃない、何者にもなれない男に好かれてるからって、勝ち誇った顔しないでよ」マドゥレーヌは嘲笑うように言った。
なぜ勝負の話になるのか、ミュリエルにはまるで理解ができなかった。ミュリエルはマドゥレーヌと勝負したつもりはなく、きょとんとした。
「勝ったつもりはありませんが、幸運なことに、フィンさんからは、過分なお心を頂いています。私はずっと、カルヴァン邸で息を潜めて生きてきました。父とは話をしたこともなく、継母からは暴力を振るわれ、家を出ることだけを考えていました」
「そうなの、気の毒にね。だけど、私には関係ない話だわ」ミュリエルが言い返してくるだろうと思い、身構えていたマドゥレーヌは、唐突な身の上話に、毒気を抜かれた。
「私を可愛い娘だと言ってくれるご夫婦に出会い、助けてもらいました。愛とは何かを教えてくれたのです。私は彼らの愛に救われました。傷ついた心を治せるのは、家族や友人だけだそうです。助けて欲しいと、言ってみてはどうですか?——横になってください、診察します」
ミュリエルはマドゥレーヌの体に、マジックワンドを当てた。
「今は幸せ?」
「はい、大切だと言ってくれる家族と、力になってくれる友人たちがいます。とても幸せです」
「フィンさんと結婚するの?」
「——まだ分かりません。私に妻が務まるかどうかも」
「あなたでも顔が赤くなるのね、鉄仮面みたいな女だと思ってたけど、違うんだ。ねえ、アンドレ様のことは、どう思っていたの?」
「アンドレ王子殿下は、優しい方です」
「それだけ?好きとか思わなかったの?剣術に優れてて、男らしくて、素敵じゃない」
「眉目秀麗で、顔立ちは良いですね」
「それだけなんだ、なんだかアンドレ様が気の毒。でも、自業自得よね」何のことか分からないといった顔をしたミュリエルを、マドゥレーヌは笑った。「気づいてないのね、アンドレ様の気持ちに。気にしないで、ちょっと独り言を言っただけよ」
教えてやる義理もないし、あんなにも甘い視線で見つめてきたくせに、あっという間にミュリエルに乗り換えたアンドレに腹も立つ、アンドレがミュリエルに、恋愛感情を抱いていることは、黙っておくことにした。
ミュリエルとフィンの結婚式を、悔しそうに眺めるアンドレを想像したら、マドゥレーヌの心が少しばかり晴れた。
「体は健康なようです。強力なポーションですから、飲めば2、3日寝込むことになると思いますが、丁度良いでしょう。私が診察した言い訳ができます。使用人の皆さんは、このことを知らないのでしょう?」
使用人たちが知っていれば、噂はあっという間に広がり、パトリーまで届いていただろうとミュリエルは思った。
「当然よ、執事しか知らないわ。子供は修道院で産んだの。娘は父の落とし子ってことになってる」
「では、晩餐の最中、気分を悪くしたマドゥレーヌ子爵令嬢を、私が診察したことにいたしましょう」ミュリエルはマドゥレーヌに、小瓶を差し出した。
「それを飲むと痛むの?」
「失った物を再生するのですから、激しい痛みに襲われると思います」
「でも、これで私も、普通の結婚ができるのよね」
「幸せな結婚ができます」
「ありがとう——あなたの希望もあったとは言え、婚約者を奪ってごめんなさい。私を捨てた男を見返してやりたかったの、王子の妃になれば、見返せると思った私が馬鹿だったわ。おかげで王子に捨てられた女になっちゃった」
「家族は見捨てないものです。親を誰よりも愛せるのは子だと思うのです。妹を可愛がったところで、誰が疑問に思うでしょうか、あなたの心に傷を残してしまった恋だけれど、生まれてきた子供は、あなたの血を分けた子です。それに、クズの父親がいなくても、あなたも子も幸せだと言ってやれば、復讐になるのではないでしょうか」
「ええ、そうね」マドゥレーヌの頬を涙が伝った。「あなたの口から、クズなんて言葉が聞けるとは思わなかったわ。私のことは、畏まって子爵令嬢と呼ばなくていいわよ」
マドゥレーヌはミュリエルから小瓶を受け取り、一息に飲み干した。
「私は下がらせていただきます。ゆっくり眠ってください」
241
あなたにおすすめの小説
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
巻き込まれて異世界召喚? よくわからないけど頑張ります。 〜JKヒロインにおばさん呼ばわりされたけど、28才はお姉さんです〜
トイダノリコ
ファンタジー
会社帰りにJKと一緒に異世界へ――!?
婚活のために「料理の基本」本を買った帰り道、28歳の篠原亜子は、通りすがりの女子高生・星野美咲とともに突然まぶしい光に包まれる。
気がつけばそこは、海と神殿の国〈アズーリア王国〉。
美咲は「聖乙女」として大歓迎される一方、亜子は「予定外に混ざった人」として放置されてしまう。
けれど世界意識(※神?)からのお詫びとして特殊能力を授かった。
食材や魔物の食用可否、毒の有無、調理法までわかるスキル――〈料理眼〉!
「よし、こうなったら食堂でも開いて生きていくしかない!」
港町の小さな店〈潮風亭〉を拠点に、亜子は料理修行と新生活をスタート。
気のいい夫婦、誠実な騎士、皮肉屋の魔法使い、王子様や留学生、眼帯の怪しい男……そして、彼女を慕う男爵令嬢など個性豊かな仲間たちに囲まれて、"聖乙女イベントの裏側”で、静かに、そしてたくましく人生を切り拓く異世界スローライフ開幕。
――はい。静かに、ひっそり生きていこうと思っていたんです。私も.....(アコ談)
*AIと一緒に書いています*
有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
お気に入り1000ありがとうございます!!
お礼SS追加決定のため終了取下げいたします。
皆様、お気に入り登録ありがとうございました。
現在、お礼SSの準備中です。少々お待ちください。
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
【完結】魔力がないと見下されていた私は仮面で素顔を隠した伯爵と結婚することになりました〜さらに魔力石まで作り出せなんて、冗談じゃない〜
光城 朱純
ファンタジー
魔力が強いはずの見た目に生まれた王女リーゼロッテ。
それにも拘わらず、魔力の片鱗すらみえないリーゼロッテは家族中から疎まれ、ある日辺境伯との結婚を決められる。
自分のあざを隠す為に仮面をつけて生活する辺境伯は、龍を操ることができると噂の伯爵。
隣に魔獣の出る森を持ち、雪深い辺境地での冷たい辺境伯との新婚生活は、身も心も凍えそう。
それでも国の端でひっそり生きていくから、もう放っておいて下さい。
私のことは私で何とかします。
ですから、国のことは国王が何とかすればいいのです。
魔力が使えない私に、魔力石を作り出せだなんて、そんなの無茶です。
もし作り出すことができたとしても、やすやすと渡したりしませんよ?
これまで虐げられた分、ちゃんと返して下さいね。
表紙はPhoto AC様よりお借りしております。
【完結】平凡な容姿の召喚聖女はそろそろ貴方達を捨てさせてもらいます
ユユ
ファンタジー
“美少女だね”
“可愛いね”
“天使みたい”
知ってる。そう言われ続けてきたから。
だけど…
“なんだコレは。
こんなモノを私は妻にしなければならないのか”
召喚(誘拐)された世界では平凡だった。
私は言われた言葉を忘れたりはしない。
* さらっとファンタジー系程度
* 完結保証付き
* 暇つぶしにどうぞ
【コミカライズ決定】愛されない皇妃~最強の母になります!~
椿蛍
ファンタジー
【コミカライズ決定の情報が解禁されました】
※レーベル名、漫画家様はのちほどお知らせいたします。
※配信後は引き下げとなりますので、ご注意くださいませ。
愛されない皇妃『ユリアナ』
やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。
夫も子どもも――そして、皇妃の地位。
最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。
けれど、そこからが問題だ。
皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。
そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど……
皇帝一家を倒した大魔女。
大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!?
※表紙は作成者様からお借りしてます。
※他サイト様に掲載しております。
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~
チャビューヘ
ファンタジー
※タイトル変更しました。
「掃除(処分)しろ」と私を捨てた冷徹な父。生き残るために「心を無」にして媚びを売ったら。
「……お前の声だけが、うるさくない」
心の声が聞こえるパパと、それを知らずに生存戦略を練る娘の物語。
-----
感想送っていただいている皆様へ
たくさんの嬉しい言葉や厳しい意見も届いており一つ一つがすごく嬉しいのと頑張ろうと感じています。ご意見を元に修正必要な部分は随時更新していきます。
成長のため感想欄を閉じませんが公開はする予定ありません。ですが必ず全て目を通しています。拙作にお時間を頂きありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる