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余韻に浸れない夜
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腫れぼったくなってしまった唇は、痺れているかのように、違和感が凄い。
悪態を交わして以降は無言となり、重苦しいじっとりした空気が客車に漂い、息苦しくて仕方なかった。
サーフェスの視線は虚ろで、気怠げにクッションに凭れ掛かっている。
憂いを帯びたような彼を前に、マーレイは放心状態だ。
だが、ヴィンセント伯爵邸に馬車が到着した時分には、停止していた脳みそは幾らか機能を回復させていた。
「では」
「は、はい。今夜はお誘いいただき感謝いたします」
所作通りの月並みな礼を述べて、マーレイは屋敷の門を潜った。
サーフェスを乗せた馬車が小さくなっていくのをぼんやりと見送りながら、もう、これで彼に会うことはないだろうという予感はあった。
情熱的なキスは、一夜限りの夢。
彼は「男遊びの激しい危険な令嬢」には、もう近づかないだろう。
恋するジゼル嬢との遣り取りなら、きっと自分の持つ特権を駆使して何とかしようとするはず。
もっともジゼル嬢は、シェカール公爵の誘いには一切乗らないし、そのような令嬢は二度と姿を現すことはない。
「何ですか、お嬢様。そのように重い溜め息を」
少なくとも十回はついている溜め息が、また新たに一つ口から漏れたことで、とうとうケアランが苦言を呈した。
ケアランは寝る前の支度で、マーレイの亜麻色の髪に櫛を通している。
化粧を落とし、すでに夜着を身につけているので、後は髪さえ整えればいつでもベッドに潜り込める。
「もしや、それほどつまらない観劇だったのですか? 」
「ジミー・シュバイツァーは演技も脚本も最高だったわ。新人女優のブリジットも、初舞台とは思えないくらい堂々としていて、目を瞠ったわ」
「でしたら、何故? もしや、公爵と何かありましたか? 」
ケアランは鋭い。
「な、何もないわ! 」
たちまちマーレイの顔面に血液が集中した。
ギラリとケアランの目が光る。
「あったのですね? 」
「うっ……」
「白状なさいまし」
「うう……」
マーレイは白い首筋まで赤く変色させ、唸った。
ケアランに誤魔化しは通用しない。
彼女はマーレイにとって恋愛沙汰に関して師匠とも呼べる存在だからだ。
「まああああ! お嬢様! 何て大胆なことを! 」
サーフェス所有の馬車内での一連を訥々と語れば、ケアランの円らな目がこれでもかと見開き、他人のゴシップに浮かれる暇な貴族と似たり寄ったりの反応を示した。
「だから言いたくなかったのよ」
マーレイは憮然と口を尖らせる。
「堅物のお嬢様が、自ら殿方にキスを仕掛けるなど! 」
「大声を出さないでちょうだい。お父様に聞かれたら厄介だわ」
「あああ。ようやくお嬢様にも、素敵なお相手が」
ケアランは鏡台に櫛を置くと、ぷにぷにした手で己の顔を包み、腰をくねらせた。
「誤解しないで。あれは挑発に乗ってしまった結果よ。今後は公爵と会うことはないわ」
きっと顔も見たくないだろうし。彼から連絡がこない限り、疎遠は確定している。
「いえいえ。わかりませんよ」
「それより早く髪を編んでちょうだい。疲れたから早く寝たいのよ」
これ以上の遣り取りは不毛でしかない。
マーレイは行儀悪く欠伸を噛み殺す。誰にもこのような仕草は見せないが、今夜は別だ。酷く疲れた。
「お嬢様。床に入りましたら、あの小説の続きをお読みあそばせ」
「話を聞いていたの? 」
「ええ。ですから、こうして髪を編んでおりますよ」
「そうでなくて」
ケアランは器用にマーレイの髪を三つ編みしていく。
鏡越しの仏頂面に、ケアランは微笑んだ。
「万が一ですよ」
「ないわ」
「いえいえ。手慣れた女性の方が良いという変わり者もおりますでしょう? 」
「聞き捨てならないわね。私は手慣れてなどいないわよ」
「公爵に対して、そのように振る舞われましたでしょう」
指摘されて、ぐっと言葉を詰まらせる。
キスの余韻に浸る間もない。
あれは売られた喧嘩を買ってしまった結果だ。
事故だ。
そこにロマンスなど発生しない。
悪態を交わして以降は無言となり、重苦しいじっとりした空気が客車に漂い、息苦しくて仕方なかった。
サーフェスの視線は虚ろで、気怠げにクッションに凭れ掛かっている。
憂いを帯びたような彼を前に、マーレイは放心状態だ。
だが、ヴィンセント伯爵邸に馬車が到着した時分には、停止していた脳みそは幾らか機能を回復させていた。
「では」
「は、はい。今夜はお誘いいただき感謝いたします」
所作通りの月並みな礼を述べて、マーレイは屋敷の門を潜った。
サーフェスを乗せた馬車が小さくなっていくのをぼんやりと見送りながら、もう、これで彼に会うことはないだろうという予感はあった。
情熱的なキスは、一夜限りの夢。
彼は「男遊びの激しい危険な令嬢」には、もう近づかないだろう。
恋するジゼル嬢との遣り取りなら、きっと自分の持つ特権を駆使して何とかしようとするはず。
もっともジゼル嬢は、シェカール公爵の誘いには一切乗らないし、そのような令嬢は二度と姿を現すことはない。
「何ですか、お嬢様。そのように重い溜め息を」
少なくとも十回はついている溜め息が、また新たに一つ口から漏れたことで、とうとうケアランが苦言を呈した。
ケアランは寝る前の支度で、マーレイの亜麻色の髪に櫛を通している。
化粧を落とし、すでに夜着を身につけているので、後は髪さえ整えればいつでもベッドに潜り込める。
「もしや、それほどつまらない観劇だったのですか? 」
「ジミー・シュバイツァーは演技も脚本も最高だったわ。新人女優のブリジットも、初舞台とは思えないくらい堂々としていて、目を瞠ったわ」
「でしたら、何故? もしや、公爵と何かありましたか? 」
ケアランは鋭い。
「な、何もないわ! 」
たちまちマーレイの顔面に血液が集中した。
ギラリとケアランの目が光る。
「あったのですね? 」
「うっ……」
「白状なさいまし」
「うう……」
マーレイは白い首筋まで赤く変色させ、唸った。
ケアランに誤魔化しは通用しない。
彼女はマーレイにとって恋愛沙汰に関して師匠とも呼べる存在だからだ。
「まああああ! お嬢様! 何て大胆なことを! 」
サーフェス所有の馬車内での一連を訥々と語れば、ケアランの円らな目がこれでもかと見開き、他人のゴシップに浮かれる暇な貴族と似たり寄ったりの反応を示した。
「だから言いたくなかったのよ」
マーレイは憮然と口を尖らせる。
「堅物のお嬢様が、自ら殿方にキスを仕掛けるなど! 」
「大声を出さないでちょうだい。お父様に聞かれたら厄介だわ」
「あああ。ようやくお嬢様にも、素敵なお相手が」
ケアランは鏡台に櫛を置くと、ぷにぷにした手で己の顔を包み、腰をくねらせた。
「誤解しないで。あれは挑発に乗ってしまった結果よ。今後は公爵と会うことはないわ」
きっと顔も見たくないだろうし。彼から連絡がこない限り、疎遠は確定している。
「いえいえ。わかりませんよ」
「それより早く髪を編んでちょうだい。疲れたから早く寝たいのよ」
これ以上の遣り取りは不毛でしかない。
マーレイは行儀悪く欠伸を噛み殺す。誰にもこのような仕草は見せないが、今夜は別だ。酷く疲れた。
「お嬢様。床に入りましたら、あの小説の続きをお読みあそばせ」
「話を聞いていたの? 」
「ええ。ですから、こうして髪を編んでおりますよ」
「そうでなくて」
ケアランは器用にマーレイの髪を三つ編みしていく。
鏡越しの仏頂面に、ケアランは微笑んだ。
「万が一ですよ」
「ないわ」
「いえいえ。手慣れた女性の方が良いという変わり者もおりますでしょう? 」
「聞き捨てならないわね。私は手慣れてなどいないわよ」
「公爵に対して、そのように振る舞われましたでしょう」
指摘されて、ぐっと言葉を詰まらせる。
キスの余韻に浸る間もない。
あれは売られた喧嘩を買ってしまった結果だ。
事故だ。
そこにロマンスなど発生しない。
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