93 / 112
消えた令嬢
しおりを挟む
「マーレイ? 」
うっすらと目を開けたとき、隣にいるはずの気配がまるでなかった。
慌てて起き上がったサーフェスは、一人分に空いたスペースのシーツがひんやりしていることに息を呑んだ。
クローゼットから出した黄土色のガウンを羽織ると、脱ぎ捨てたトラウザーに足を突っ込む。急ぎ過ぎてなかなか上手く足が嵌らず舌打ちする。
「マーレイ! マーレイはどこだ! 」
炊事場で温かい珈琲を沸かしながら、はにかむような笑顔を見せてくるマーレイ……それは、幻だ。
執務室で書類の束を睨みつけながら、計算間違いを経理担当者に告げるマーレイ……は、いない。
庭先の物干し竿に、ヨイショとシーツを引っ掛けるマーレイ……物干し竿には何も干されておらず、虚しく風が吹き抜けていく。
マーレイが消えた。
屋敷中のドアというドアを片っ端から開けて、滅多に開かない物置の隅々まで確かめたというのに。
マーレイはどこにもいない。
忽然と姿を消してしまった。
まるで最初から存在していなかったかのように。
ふと、厩舎で馬がいなないた。
サーフェスは転がるように厩舎へと向かう。
そこには、ハンスがいた。
「ハンス! マーレイはどこに行った! 」
まだ出勤時間にはだいぶとある。妻子持ちのハンスは、時間ギリギリまで職場には来ない主義だが。
何かある、とピンときた。ハンスはマーレイがいなくなったことに関連していると。恋愛事以外に関することなら、サーフェスは察しが良い。
「令嬢なら屋敷に戻られました」
あっさりとハンスは言ってのけた。
「何だと! 」
サーフェスの顔色が変わった。
「私がお送りいたしました」
「お前が? 」
「すでに伯爵邸に着いておられます」
つまりマーレイは、夜明けと共にここを発ったということか。
「わ、私に何も言わずに戻ったというのか」
ベッドを共にしている時点で、彼女はすでに出て行く手筈を整えていたということだ。
「な、何故だ。何故、挨拶もなく」
日暮から深夜まで、あれほど激しく睦み合ったというのに。
「ハンス! 何故、引き止めなかった! 」
飄々としているハンスが腹立たしく、サーフェスはその胸倉を掴むと、前後に大きく揺さぶった。
憎たらしいことに、そのようなことをされても抵抗もせず、ハンスは顔色さえ変えない。
「引き止める意味は? 」
「な、何? 」
「あのご令嬢は、社長のご親類でも奥様でも、ましてや愛人でもございません」
「ゆ……友人だ……」
サーフェスはハンスを突き飛ばすと、目を逸らしてボソボソ言った。
「まだ、そんなことをほざいているのか? 」
ハンスが嫌そうに声を低め、砕けた口調となる。
「何だと? 」
サーフェスの眉がぴくりと動いた。
「単なる友人と、それほど激しく抱き合いますかね? 」
ハンスは鼻で笑う。
「うなじに接吻の痕が」
指摘され、サーフェスは慌ててハンスの目線の先を手で覆った。
「こ、これは」
「これ以上、ご友人の心を弄ぶのはおやめになられた方がよろしいかと」
「わ、私は弄んでなど」
「ですがご令嬢は、あなたのその変わらない心に絶望して、ひっそりと姿を消されたのです」
サーフェスは脳天を雷で直撃された気分だった。
サーフェスがジゼルに固執しているのは、あの母と同じになることを恐れたため。一人の相手を想うのではなく、その時々の情熱のまま、渡り鳥のようにふらふらと飛び回る奔放な母のようには決してならないと。そう決めたから、ジゼルを娶ろうと。
だが、いつしかマーレイが占める割合が大きくなっていき。
サーフェスはそれに目を背けた。
そんな自分でも、マーレイは「友人」として離れてはいかないと。根拠もなく自信過剰になっていた。
「もう、二度と会えないということか? 」
彼女の方から、歪な友情を終わらせたのは、至極当然のことだ。
彼女は友情以上を求めており、サーフェスはそれを承知で見ないふりをした。
「あなたのお立場なら、そうでしょうね」
一度手放してしまえば、もう元には戻らない。その事実さえ、サーフェスは目を逸らしていた。そんな日は来ないと、思い込もうとしていた。
「社長」
「何だ」
「乳兄弟として言わせてもらっても? 」
「さっさと言え! 」
妙に淡々としているハンスが、余計に癇に障る。
ハンスは深く呼吸を繰り返した。
「挽回するなら早い方が良いぞ、サーフェス。彼女はまだ若い。しかも極上の美人だ。うかうかしていたら、他の男に掻っ攫われてしまうぞ」
淡々としているからこそ、その羅列はサーフェスの心臓をグリグリと抉る。
「ここに来てからの彼女といえば、冷淡さが取れて、代わって慈悲深い温かさに溢れていて、実に魅力的だ。あの美貌だから、世の男共は放ってはおかないだろうよ」
「彼女は最初から魅力的だった」
サーフェスはぶっきらぼうに言い捨てる。
いらいらと、そこらじゅうを理由もなく歩き回した。ふと立ち止まっては舌打ちし、ぐしゃぐしゃと前髪を掻き乱して、またもや歩き回す。
それを何度か繰り返した後、サーフェスは立ち止まって目を吊り上げた。
「わかってる。認めるさ。最初から、彼女の魅了には抗えなかった。彼女がそばに来るたびに、私はあさましいケダモノにならないよう必死だった! 」
ヤケクソで怒鳴りつける。
「友人などではない」
初めて彼女を見たときから、友人に留まるだけの存在ではなかった。ドアの陰から覗くその姿は、気高く、穢れのない美しさに包まれていた。その華やかさに、男らは気後れしてしまったのだろう。
だがサーフェスは、この華を散らしたい衝動に駆られた。
自分の手で華を思い通りに穢し、数多の男らの亡霊を振り払って、この胸の中で淫らに啜り泣かせたいと。
「だったら、他に選択肢はないんじゃないか? 」
ハンスはニヤリと口元を歪める。
かつて乳兄弟としてハンスにあらゆる悪さを教えた男の笑みだった。
うっすらと目を開けたとき、隣にいるはずの気配がまるでなかった。
慌てて起き上がったサーフェスは、一人分に空いたスペースのシーツがひんやりしていることに息を呑んだ。
クローゼットから出した黄土色のガウンを羽織ると、脱ぎ捨てたトラウザーに足を突っ込む。急ぎ過ぎてなかなか上手く足が嵌らず舌打ちする。
「マーレイ! マーレイはどこだ! 」
炊事場で温かい珈琲を沸かしながら、はにかむような笑顔を見せてくるマーレイ……それは、幻だ。
執務室で書類の束を睨みつけながら、計算間違いを経理担当者に告げるマーレイ……は、いない。
庭先の物干し竿に、ヨイショとシーツを引っ掛けるマーレイ……物干し竿には何も干されておらず、虚しく風が吹き抜けていく。
マーレイが消えた。
屋敷中のドアというドアを片っ端から開けて、滅多に開かない物置の隅々まで確かめたというのに。
マーレイはどこにもいない。
忽然と姿を消してしまった。
まるで最初から存在していなかったかのように。
ふと、厩舎で馬がいなないた。
サーフェスは転がるように厩舎へと向かう。
そこには、ハンスがいた。
「ハンス! マーレイはどこに行った! 」
まだ出勤時間にはだいぶとある。妻子持ちのハンスは、時間ギリギリまで職場には来ない主義だが。
何かある、とピンときた。ハンスはマーレイがいなくなったことに関連していると。恋愛事以外に関することなら、サーフェスは察しが良い。
「令嬢なら屋敷に戻られました」
あっさりとハンスは言ってのけた。
「何だと! 」
サーフェスの顔色が変わった。
「私がお送りいたしました」
「お前が? 」
「すでに伯爵邸に着いておられます」
つまりマーレイは、夜明けと共にここを発ったということか。
「わ、私に何も言わずに戻ったというのか」
ベッドを共にしている時点で、彼女はすでに出て行く手筈を整えていたということだ。
「な、何故だ。何故、挨拶もなく」
日暮から深夜まで、あれほど激しく睦み合ったというのに。
「ハンス! 何故、引き止めなかった! 」
飄々としているハンスが腹立たしく、サーフェスはその胸倉を掴むと、前後に大きく揺さぶった。
憎たらしいことに、そのようなことをされても抵抗もせず、ハンスは顔色さえ変えない。
「引き止める意味は? 」
「な、何? 」
「あのご令嬢は、社長のご親類でも奥様でも、ましてや愛人でもございません」
「ゆ……友人だ……」
サーフェスはハンスを突き飛ばすと、目を逸らしてボソボソ言った。
「まだ、そんなことをほざいているのか? 」
ハンスが嫌そうに声を低め、砕けた口調となる。
「何だと? 」
サーフェスの眉がぴくりと動いた。
「単なる友人と、それほど激しく抱き合いますかね? 」
ハンスは鼻で笑う。
「うなじに接吻の痕が」
指摘され、サーフェスは慌ててハンスの目線の先を手で覆った。
「こ、これは」
「これ以上、ご友人の心を弄ぶのはおやめになられた方がよろしいかと」
「わ、私は弄んでなど」
「ですがご令嬢は、あなたのその変わらない心に絶望して、ひっそりと姿を消されたのです」
サーフェスは脳天を雷で直撃された気分だった。
サーフェスがジゼルに固執しているのは、あの母と同じになることを恐れたため。一人の相手を想うのではなく、その時々の情熱のまま、渡り鳥のようにふらふらと飛び回る奔放な母のようには決してならないと。そう決めたから、ジゼルを娶ろうと。
だが、いつしかマーレイが占める割合が大きくなっていき。
サーフェスはそれに目を背けた。
そんな自分でも、マーレイは「友人」として離れてはいかないと。根拠もなく自信過剰になっていた。
「もう、二度と会えないということか? 」
彼女の方から、歪な友情を終わらせたのは、至極当然のことだ。
彼女は友情以上を求めており、サーフェスはそれを承知で見ないふりをした。
「あなたのお立場なら、そうでしょうね」
一度手放してしまえば、もう元には戻らない。その事実さえ、サーフェスは目を逸らしていた。そんな日は来ないと、思い込もうとしていた。
「社長」
「何だ」
「乳兄弟として言わせてもらっても? 」
「さっさと言え! 」
妙に淡々としているハンスが、余計に癇に障る。
ハンスは深く呼吸を繰り返した。
「挽回するなら早い方が良いぞ、サーフェス。彼女はまだ若い。しかも極上の美人だ。うかうかしていたら、他の男に掻っ攫われてしまうぞ」
淡々としているからこそ、その羅列はサーフェスの心臓をグリグリと抉る。
「ここに来てからの彼女といえば、冷淡さが取れて、代わって慈悲深い温かさに溢れていて、実に魅力的だ。あの美貌だから、世の男共は放ってはおかないだろうよ」
「彼女は最初から魅力的だった」
サーフェスはぶっきらぼうに言い捨てる。
いらいらと、そこらじゅうを理由もなく歩き回した。ふと立ち止まっては舌打ちし、ぐしゃぐしゃと前髪を掻き乱して、またもや歩き回す。
それを何度か繰り返した後、サーフェスは立ち止まって目を吊り上げた。
「わかってる。認めるさ。最初から、彼女の魅了には抗えなかった。彼女がそばに来るたびに、私はあさましいケダモノにならないよう必死だった! 」
ヤケクソで怒鳴りつける。
「友人などではない」
初めて彼女を見たときから、友人に留まるだけの存在ではなかった。ドアの陰から覗くその姿は、気高く、穢れのない美しさに包まれていた。その華やかさに、男らは気後れしてしまったのだろう。
だがサーフェスは、この華を散らしたい衝動に駆られた。
自分の手で華を思い通りに穢し、数多の男らの亡霊を振り払って、この胸の中で淫らに啜り泣かせたいと。
「だったら、他に選択肢はないんじゃないか? 」
ハンスはニヤリと口元を歪める。
かつて乳兄弟としてハンスにあらゆる悪さを教えた男の笑みだった。
155
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
家出を決行した結果
棗
恋愛
フィービーの婚約者ミゲルには大切な幼馴染がいる。病弱な幼馴染をいつも優先するミゲルや母が亡くなって以降溝が出来てしまった父と兄との関係にフィービーは疲れていた。
デートの約束をしてもいつも直前になって幼馴染を理由にキャンセルされ、幼馴染にしか感情を見せないミゲルを、フィービーを見ようとしない父や兄を捨てる決心をしたフィービーは侍女や執事の手を借りて家出を決行した。
自分を誰も知らない遠い場所へ行ったフィービーは、新しい人生の幕開けに期待に胸を躍らせた。
※なろうさんにも公開しています。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
「お幸せに」と微笑んだ悪役令嬢は、二度と戻らなかった。
パリパリかぷちーの
恋愛
王太子から婚約破棄を告げられたその日、
クラリーチェ=ヴァレンティナは微笑んでこう言った。
「どうか、お幸せに」──そして姿を消した。
完璧すぎる令嬢。誰にも本心を明かさなかった彼女が、
“何も持たずに”去ったその先にあったものとは。
これは誰かのために生きることをやめ、
「私自身の幸せ」を選びなおした、
ひとりの元・悪役令嬢の再生と静かな愛の物語。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ】悪妃は余暇を楽しむ
ごろごろみかん。
恋愛
「こちら、離縁届です。私と、離縁してくださいませ、陛下」
ある日、悪妃と名高いクレメンティーナが夫に渡したのは、離縁届だった。彼女はにっこりと笑って言う。
「先日、あなた方の真実の愛を拝見させていただきまして……有難いことに目が覚めましたわ。ですので、王妃、やめさせていただこうかと」
何せ、あれだけ見せつけてくれたのである。ショックついでに前世の記憶を取り戻して、千年の恋も瞬間冷凍された。
都合のいい女は本日で卒業。
今後は、余暇を楽しむとしましょう。
吹っ切れた悪妃は身辺整理を終えると早々に城を出て行ってしまった。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる