【完結】婚約破棄された悪役令嬢は童貞公爵様の恋愛指南役となる

氷 豹人

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消えた令嬢

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「マーレイ? 」
 うっすらと目を開けたとき、隣にいるはずの気配がまるでなかった。
 慌てて起き上がったサーフェスは、一人分に空いたスペースのシーツがひんやりしていることに息を呑んだ。
 クローゼットから出した黄土色のガウンを羽織ると、脱ぎ捨てたトラウザーに足を突っ込む。急ぎ過ぎてなかなか上手く足が嵌らず舌打ちする。
「マーレイ! マーレイはどこだ! 」
 炊事場で温かい珈琲を沸かしながら、はにかむような笑顔を見せてくるマーレイ……それは、幻だ。
 執務室で書類の束を睨みつけながら、計算間違いを経理担当者に告げるマーレイ……は、いない。
 庭先の物干し竿に、ヨイショとシーツを引っ掛けるマーレイ……物干し竿には何も干されておらず、虚しく風が吹き抜けていく。
 マーレイが消えた。
 屋敷中のドアというドアを片っ端から開けて、滅多に開かない物置の隅々まで確かめたというのに。
 マーレイはどこにもいない。
 忽然と姿を消してしまった。
 まるで最初から存在していなかったかのように。
 ふと、厩舎で馬がいなないた。
 サーフェスは転がるように厩舎へと向かう。
 そこには、ハンスがいた。
「ハンス! マーレイはどこに行った! 」
 まだ出勤時間にはだいぶとある。妻子持ちのハンスは、時間ギリギリまで職場には来ない主義だが。
 何かある、とピンときた。ハンスはマーレイがいなくなったことに関連していると。恋愛事以外に関することなら、サーフェスは察しが良い。
「令嬢なら屋敷に戻られました」
 あっさりとハンスは言ってのけた。
「何だと! 」
 サーフェスの顔色が変わった。
「私がお送りいたしました」
「お前が? 」
「すでに伯爵邸に着いておられます」
 つまりマーレイは、夜明けと共にここを発ったということか。
「わ、私に何も言わずに戻ったというのか」
 ベッドを共にしている時点で、彼女はすでに出て行く手筈を整えていたということだ。
「な、何故だ。何故、挨拶もなく」
 日暮から深夜まで、あれほど激しく睦み合ったというのに。
「ハンス! 何故、引き止めなかった! 」
 飄々としているハンスが腹立たしく、サーフェスはその胸倉を掴むと、前後に大きく揺さぶった。 
 憎たらしいことに、そのようなことをされても抵抗もせず、ハンスは顔色さえ変えない。
「引き止める意味は? 」
「な、何? 」
「あのご令嬢は、社長のご親類でも奥様でも、ましてや愛人でもございません」
「ゆ……友人だ……」
 サーフェスはハンスを突き飛ばすと、目を逸らしてボソボソ言った。
「まだ、そんなことをほざいているのか? 」
 ハンスが嫌そうに声を低め、砕けた口調となる。
「何だと? 」
 サーフェスの眉がぴくりと動いた。
「単なる友人と、それほど激しく抱き合いますかね? 」
 ハンスは鼻で笑う。
「うなじに接吻の痕が」
 指摘され、サーフェスは慌ててハンスの目線の先を手で覆った。
「こ、これは」
「これ以上、の心を弄ぶのはおやめになられた方がよろしいかと」
「わ、私は弄んでなど」
「ですがご令嬢は、あなたのその変わらない心に絶望して、ひっそりと姿を消されたのです」
 サーフェスは脳天を雷で直撃された気分だった。
 サーフェスがジゼルに固執しているのは、あの母と同じになることを恐れたため。一人の相手を想うのではなく、その時々の情熱のまま、渡り鳥のようにふらふらと飛び回る奔放な母のようには決してならないと。そう決めたから、ジゼルを娶ろうと。
 だが、いつしかマーレイが占める割合が大きくなっていき。
 サーフェスはそれに目を背けた。
 そんな自分でも、マーレイは「友人」として離れてはいかないと。根拠もなく自信過剰になっていた。
「もう、二度と会えないということか? 」
 彼女の方から、歪な友情を終わらせたのは、至極当然のことだ。
 彼女は友情以上を求めており、サーフェスはそれを承知で見ないふりをした。
「あなたのお立場なら、そうでしょうね」
 一度手放してしまえば、もう元には戻らない。その事実さえ、サーフェスは目を逸らしていた。そんな日は来ないと、思い込もうとしていた。
「社長」
「何だ」
「乳兄弟として言わせてもらっても? 」
「さっさと言え! 」
 妙に淡々としているハンスが、余計に癇に障る。
 ハンスは深く呼吸を繰り返した。
「挽回するなら早い方が良いぞ、サーフェス。彼女はまだ若い。しかも極上の美人だ。うかうかしていたら、他の男に掻っ攫われてしまうぞ」
 淡々としているからこそ、その羅列はサーフェスの心臓をグリグリと抉る。
「ここに来てからの彼女といえば、冷淡さが取れて、代わって慈悲深い温かさに溢れていて、実に魅力的だ。あの美貌だから、世の男共は放ってはおかないだろうよ」
「彼女は最初から魅力的だった」
 サーフェスはぶっきらぼうに言い捨てる。
 いらいらと、そこらじゅうを理由もなく歩き回した。ふと立ち止まっては舌打ちし、ぐしゃぐしゃと前髪を掻き乱して、またもや歩き回す。
 それを何度か繰り返した後、サーフェスは立ち止まって目を吊り上げた。
「わかってる。認めるさ。最初から、彼女の魅了には抗えなかった。彼女がそばに来るたびに、私はあさましいケダモノにならないよう必死だった! 」
 ヤケクソで怒鳴りつける。
「友人などではない」
 初めて彼女を見たときから、友人に留まるだけの存在ではなかった。ドアの陰から覗くその姿は、気高く、穢れのない美しさに包まれていた。その華やかさに、男らは気後れしてしまったのだろう。
 だがサーフェスは、この華を散らしたい衝動に駆られた。
 自分の手で華を思い通りに穢し、数多の男らの亡霊を振り払って、この胸の中で淫らに啜り泣かせたいと。
「だったら、他に選択肢はないんじゃないか? 」
 ハンスはニヤリと口元を歪める。
 かつて乳兄弟としてハンスにあらゆるを教えた男の笑みだった。
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