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至上最高の日々
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ディアミッド商会の応接室は、殺伐とした空気が漂っていた。
だが、商会の主人の妻はそのような空気には全くお構いなしで、淹れたての紅茶に優雅な仕草で口をつける。凛とした隙のない所作は上流貴族そのもので、ますます客人の息を詰まらせた。
主人の妻はまだ二十歳の若さではあるものの、倍以上年の離れた客の男を遠回しに威嚇している。男の額にはびっしりと汗の粒が吹き出していた。
「あら、まあ。エリオットさん。どうなさいました? 何だか浮かないお顔ですのね」
さも今気づいたふうに、マーレイは小首を傾げる。
薄紫色のドレスの絹地がサラリと音を立てた。
襟首の詰まったシンプルなデザインだが、胸の形がよくわかり、腰もほっそりしていて、隠しているからこそ逆に男の想像を掻き立てる。そのドレスの真下にある素肌の艶めかしさを思い浮かべた男は、涎を拭うと慌てて胸の前で手を左右に揺すった。
「い、いや。奥さん。今日はちょっとお話がありまして」
「お話? 」
マーレイは敢えてとぼけた答え方をする。
「で、ですから。返済をもう少し待っていただきたくて」
媚びるような男の目つきに、マーレイは素知らぬふうにニッコリ笑ってみせた。
「まあ? 待つとは? 」
笑顔だからこそ、その下に潜んでいる怒りの炎がいくばくか図れず、ますますエリオットを萎縮させた。
「い、一ヶ月後には、必ずお返しいたしますから」
エリオットは逆三角形の顔がさらに細くなるほど頬をこけさせ、しどろもどろに答える。頭髪に僅かに残された白髪が、心なしかさらに抜け落ちてしまったようにげっそりやつれた。
「あらあ? 一ヶ月後に、どこから収入があるのかしら? 確か博打で随分と損をなさったとお聞きしましたけど? 」
「そ、それは! 」
「お嬢様の、舞台俳優への入れ込みも半端ないとか」
「ど、どこからその話を! 」
「そのような状態で、一ヶ月後にちゃんと返済出来るのかしら? 納得のいくお話をお聞かせいただけるまで、お帰しは出来ませんことよ? 」
マーレイはティーカップを置くなり、背後にいるハンスへと目線を動かせた。
「ハンスさん。ドアを閉めて」
バタン、と容赦なくドアが鳴り、ますます空気はどんよりと重く沈んだ。
「さあ。たっぷり時間はありますもの。お話いただけますか? 」
マーレイは極上の笑顔を張り付かせ、可愛らしく小首を傾げてみせた。
執務室の椅子に座っていたサーフェスが、脚を組み替える。
サインを書き終えたばかりの書類を机に広げた。
「あの曲者のエリオットが、とうとう金を返したぞ」
「借りたものは返す。当然の理ですわ」
マーレイはその書類を手に取ると、三人掛けのソファに腰を下ろした。新たな契約書類に不備がないか確かめる。
「君には舌を巻くよ、マーレイ」
サーフェスは大袈裟なくらいの拍手を送る。
昼間は高利貸しの女房。
夜は公爵夫人。
見事に顔を使い分けるマーレイは、二十歳そこそこの娘だとは思えないくらいに有能なパートナーであり、最高の妻だ。
サーフェスは机に肘をつきながら、ニヤニヤ笑って彼女の横顔を堪能している。
「まあ、何を思い出して笑ってらっしゃるの? 」
視線を感じたマーレイは、微かに眉を寄せた。
「いや。昨夜の舞踏会を思い出してね。君がやり込めたときの、あの女の顔ときたら……笑いが止まらない……」
サーフェスは、くっくっと喉を鳴らした。
「あなたのお母様よ。あの女などと呼んではいけません」
サーフェスの母は相変わらず感情の起伏が激しく、昨夜も虫の居所が悪くてマーレイに八つ当たり気味に嫌味を放ってきた。
「それに、やり込めるなど。あの方が私のことを息子を誑かした淫乱などとあらぬ疑いをかけるから、言い返しただけですわ」
サーフェスの妻になって間もなく一年。姑の扱い方は、だんだんわかってきていたから、そのようなことでいちいち腹を立てたり傷ついたりなんて、今更だ。
「ああ、マーレイ。君は何て可愛らしい女だ。まさに私の理想。女神」
サーフェスは立ち上がると、早歩きでマーレイの真正面まで来る。すぐさま片膝をついた。
「今すぐ君をベッドに引き込みたい」
マーレイの左手の薬指にキスを落とす。
彼女の薬指には、サーフェスとお揃いの純金のシンプルな指輪がピッタリ嵌っていた。
「いけません。まだ仕事の最中です。メリハリをつけないと」
マーレイは軽くサーフェスの頬を叩いて諌めるものの、余計に欲望に着火させてしまったらしい。
「今は昼休憩だよ、マーレイ」
サーフェスは妻にアプローチをかける。
「ゆっくり体を休めないとな」
「では、お一人でお休みください」
「君も一緒に休むんだ」
「お断りしますわ」
「君が言ったのだよ。メリハリをつけなければならないと」
「真昼間から不埒なことなんて」
「不埒ではない。夫婦の相互理解を深めることは、大切だろう? 」
耳朶に熱い吐息を吹きかけられるのが弱点だと把握している。案の定、マーレイは蕩けるような目つきとなる。火照る体を持て余すように、腰をくねらせた。
「全く。仕方のない人ね」
マーレイはうっとりと目を瞬かせると、愛しい夫の手に自分の手を重ね、この後の展開を思い浮かべて熱っぽい息を零した。
【終わり】
だが、商会の主人の妻はそのような空気には全くお構いなしで、淹れたての紅茶に優雅な仕草で口をつける。凛とした隙のない所作は上流貴族そのもので、ますます客人の息を詰まらせた。
主人の妻はまだ二十歳の若さではあるものの、倍以上年の離れた客の男を遠回しに威嚇している。男の額にはびっしりと汗の粒が吹き出していた。
「あら、まあ。エリオットさん。どうなさいました? 何だか浮かないお顔ですのね」
さも今気づいたふうに、マーレイは小首を傾げる。
薄紫色のドレスの絹地がサラリと音を立てた。
襟首の詰まったシンプルなデザインだが、胸の形がよくわかり、腰もほっそりしていて、隠しているからこそ逆に男の想像を掻き立てる。そのドレスの真下にある素肌の艶めかしさを思い浮かべた男は、涎を拭うと慌てて胸の前で手を左右に揺すった。
「い、いや。奥さん。今日はちょっとお話がありまして」
「お話? 」
マーレイは敢えてとぼけた答え方をする。
「で、ですから。返済をもう少し待っていただきたくて」
媚びるような男の目つきに、マーレイは素知らぬふうにニッコリ笑ってみせた。
「まあ? 待つとは? 」
笑顔だからこそ、その下に潜んでいる怒りの炎がいくばくか図れず、ますますエリオットを萎縮させた。
「い、一ヶ月後には、必ずお返しいたしますから」
エリオットは逆三角形の顔がさらに細くなるほど頬をこけさせ、しどろもどろに答える。頭髪に僅かに残された白髪が、心なしかさらに抜け落ちてしまったようにげっそりやつれた。
「あらあ? 一ヶ月後に、どこから収入があるのかしら? 確か博打で随分と損をなさったとお聞きしましたけど? 」
「そ、それは! 」
「お嬢様の、舞台俳優への入れ込みも半端ないとか」
「ど、どこからその話を! 」
「そのような状態で、一ヶ月後にちゃんと返済出来るのかしら? 納得のいくお話をお聞かせいただけるまで、お帰しは出来ませんことよ? 」
マーレイはティーカップを置くなり、背後にいるハンスへと目線を動かせた。
「ハンスさん。ドアを閉めて」
バタン、と容赦なくドアが鳴り、ますます空気はどんよりと重く沈んだ。
「さあ。たっぷり時間はありますもの。お話いただけますか? 」
マーレイは極上の笑顔を張り付かせ、可愛らしく小首を傾げてみせた。
執務室の椅子に座っていたサーフェスが、脚を組み替える。
サインを書き終えたばかりの書類を机に広げた。
「あの曲者のエリオットが、とうとう金を返したぞ」
「借りたものは返す。当然の理ですわ」
マーレイはその書類を手に取ると、三人掛けのソファに腰を下ろした。新たな契約書類に不備がないか確かめる。
「君には舌を巻くよ、マーレイ」
サーフェスは大袈裟なくらいの拍手を送る。
昼間は高利貸しの女房。
夜は公爵夫人。
見事に顔を使い分けるマーレイは、二十歳そこそこの娘だとは思えないくらいに有能なパートナーであり、最高の妻だ。
サーフェスは机に肘をつきながら、ニヤニヤ笑って彼女の横顔を堪能している。
「まあ、何を思い出して笑ってらっしゃるの? 」
視線を感じたマーレイは、微かに眉を寄せた。
「いや。昨夜の舞踏会を思い出してね。君がやり込めたときの、あの女の顔ときたら……笑いが止まらない……」
サーフェスは、くっくっと喉を鳴らした。
「あなたのお母様よ。あの女などと呼んではいけません」
サーフェスの母は相変わらず感情の起伏が激しく、昨夜も虫の居所が悪くてマーレイに八つ当たり気味に嫌味を放ってきた。
「それに、やり込めるなど。あの方が私のことを息子を誑かした淫乱などとあらぬ疑いをかけるから、言い返しただけですわ」
サーフェスの妻になって間もなく一年。姑の扱い方は、だんだんわかってきていたから、そのようなことでいちいち腹を立てたり傷ついたりなんて、今更だ。
「ああ、マーレイ。君は何て可愛らしい女だ。まさに私の理想。女神」
サーフェスは立ち上がると、早歩きでマーレイの真正面まで来る。すぐさま片膝をついた。
「今すぐ君をベッドに引き込みたい」
マーレイの左手の薬指にキスを落とす。
彼女の薬指には、サーフェスとお揃いの純金のシンプルな指輪がピッタリ嵌っていた。
「いけません。まだ仕事の最中です。メリハリをつけないと」
マーレイは軽くサーフェスの頬を叩いて諌めるものの、余計に欲望に着火させてしまったらしい。
「今は昼休憩だよ、マーレイ」
サーフェスは妻にアプローチをかける。
「ゆっくり体を休めないとな」
「では、お一人でお休みください」
「君も一緒に休むんだ」
「お断りしますわ」
「君が言ったのだよ。メリハリをつけなければならないと」
「真昼間から不埒なことなんて」
「不埒ではない。夫婦の相互理解を深めることは、大切だろう? 」
耳朶に熱い吐息を吹きかけられるのが弱点だと把握している。案の定、マーレイは蕩けるような目つきとなる。火照る体を持て余すように、腰をくねらせた。
「全く。仕方のない人ね」
マーレイはうっとりと目を瞬かせると、愛しい夫の手に自分の手を重ね、この後の展開を思い浮かべて熱っぽい息を零した。
【終わり】
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